「みんなの学校」こと、大阪市立大空小学校では、「すべての子どもの学習権を保障する」ことを理念に掲げ、障害のある子もない子もそれぞれの個性を大切にしながら、同じ教室で学ぶ。また、学校は地域のものという考えの下、学校は常に開かれており、サポーター(保護者)や地域住民が自由に授業に参加し、困っている子に寄り添っている。
「インクルーシブ教育の理想の姿」という多くの賛同を得る一方で、「特別支援を要する子どもが同じ教室にいると、『普通』の子どもたちの学力が付かない」などの外部からの批判も絶えない。
大空小学校で学んだ卒業生たちが現在どのような考えをもち、どのような人生を踏み出しているのかを探る座談会シリーズ。
第6回は、国土明日香さん、国土奈桜子さん姉妹が参加し、大空小独自の教科「ふれあい科」やオーディションのシステムを取り入れているコンサートについて深掘り。
開校から2015年までの9年間、校長を務め、大空小学校の教育の礎をつくった木村泰子、大空小学校の実践研究を行う小国喜弘らとの座談会から、インクルーシブ教育や特別支援教育の課題と、今後のあり方について考える。
座談会参加者
- 国土明日香(こくど・あすか)1997年生まれ。2009年、大阪市立大空小学校卒業。2019年、関西学院大学教育学部教育学科幼児教育コース卒業。同年4月、株式会社オープンハウス・アーキテクト入社、木造戸建て住宅の現場監督を2年従事した後、購買課に異動。2023年3月退職。
- 国土奈桜子(こくど・なおこ)2005年生まれ。2018年、大阪市立大空小学校卒業。2021年、西大和学園高校入学、在学中(3年生)。
- 木村泰子(きむら・やすこ)2006年~2015年、大阪市立大空小学校の初代校長を務める。すべての子どもの学習権を保障する学校をつくることに尽力。2015年、45年の教員生活を終え、現在は全国各地で公演活動を行う。著書に『「みんなの学校」をつくるために』(小国喜弘との共著・小学館) ほか多数。
- 小国喜弘(こくに・よしひろ)1966年兵庫県生まれ。早稲田大学教授等を経て、東京大学大学院教育学研究科教授。大空小学校の実践研究を行い、インクルーシブ教育の新たな可能性を模索している。著書に『戦後教育のなかの〈国民〉―乱反射するナショナリズム』(吉川弘文館)等。
- 小西智子(こにし・ともこ)2006 ~2015年まで大阪市立大空小学校に勤務、音楽専科を担当。大空コンサートでは中心的な役割を果たした。現在は音楽療法士として活動。
- 上田美穂(うえだ・みほ)大阪市公立小学校教諭。2011年度から3年間、大空小学校で講師をしたのち、2014年に新採として大空小に赴任。同校では2019年度まで特別支援教育コーディネーターとして、様々な子どもたちに関わった。
- 大島勇輔(おおしま・ゆうすけ)1983年大阪府生まれ。大阪市公立小学校教諭。株式会社リクルートに入社した後、母子生活支援施設で学習指導員をしながら大空小でのボランティアを経て、教員に。2011年~2016年度まで大空小に勤務。現任校では教務主任を務める。
- 岩切美恵子(いわきり・みえこ)ボランティアとして大阪市立大空小学校を長年支えている。読み聞かせ、外国語活動、はぐくみなどの多様な場面で子どもたちと関わる。
本文
【木村】 明日香が4年生のときに大空小学校が開校しましたね。1年生から3年生までは南住吉小学校に通っていたのに、4年生になったら突然、新しい小学校に通うことになりました。そのときの率直な気持ちはどうでしたか?
【明日香】 地域で小学校が分けられ、私の住んでいる地域は大空小学校と決められていましたし、ほとんどの友達も大空小学校に通うことになったので、特別な感情はありませんでした。学校が変わることになって、そんなもんなのかなあという気持ちだったと思います。ただ、全校児童が少なかったことには驚きました。始業式、みんなが講堂に集まったときに、「あれ、これだけ?」とは思いましたね。
【木村】 南住吉小学校の全校児童は1143人と、当時、大阪市の中でいちばん児童数の多い学校だったんです。開校1年目の大空小学校は180人くらいでしたから、大きな学校から突然小さな大空小学校に来ることになりました。
始業式、6年生のショウゴが舞台に上がったり、ギャラリーを走り回ったりして、男の先生に追いかけられていたことは覚えていますか?
【明日香】 覚えていません。大空小に通っていた3年間、走り回る子を先生が追いかけるというのはよくあることだったので、始業式のことだけを特別に記憶していることはないのかもしれません。
【木村】 それが、日常だったわけですね。
【明日香】 そうですね。通常の授業のときに走り回っている子がいたというのは記憶にあります。大空の日常の中にあった風景という認識です。
【木村】 でも、そういう友達がいるということに驚かなかった?
【明日香】 最初は驚いたと思います。だからといって、どうということもなかったです。
【木村】 なるほどなあ。奈桜子にも同じことを聞きます。大空小学校はどんな学校でしたか?
【奈桜子】 私の場合は、姉とは違って1年生のときから、大空小学校が地域の学校としてあったので、これが普通の小学校なんだという認識でした。
【木村】 奈桜子は受験をして私立の中学に行きましたね。大空小学校には授業中に席に座っていられない子とか、いろんな子がいたと思うけれど、中学にはそういう子はいなかったのではないですか?
【奈桜子】 そうですね。大空では私の学年には(「障害」をもっていた)ハルナちゃんという子がいました。中学に入ってからはそういう子とは出会わなくなりました。
【木村】 大空では、ハルナちゃんはいつもみんなと一緒に学んでいましたね。
【奈桜子】 はい。私も姉と同じで、最初はこういう子もいるんだという思いはありましたけど、6年間一緒に学んできて、同じ教室で学ぶことへの違和感はありませんでした。
【大島】 奈桜子さんが一緒に学ぶのは普通と感じていたのは、大空小が国語や算数という授業をメインにするではなく、全員がレギュラーになれる音楽を学校の中心に据えていたことが大きいのではないでしょうか。
コンサートを年に3回開催して、各コンサートのオーディションに向けて、それぞれの子どもがもっている力を生かせるように取り組んでいたので、個々に違いがあってもみんなで一緒に学ぶことが当たり前になりやすかった。そうではなく、国語や算数という教科だけだったら、学習の内容で区別されて、できない子は別室で学ぶという環境になりがちだと思います。
【木村】 今、大島が音楽は全員がレギュラーになれると言ったように、例えば、緘黙の子だって歌えるんです。だけど、普段は声を出して歌える子でも、嫌なことや不安なことがあって、気持ちが落ち着かなければ歌えない。だから、大空では全教職員がすべての子どもをつぶさに見ることができた、その機会がコンサートだったのです。
大空のコンサートは、他の学校でやっている音楽発表会とは違っていて、(大空小学校独自の教科)「ふれあい科」の一環として、一人一人の子供たちがコンサートをつくることを目的にしていました。だから、地域の人たちもたくさん見に来てくれていましたね。
【明日香】 はい。ふれあい科では、私たちの自主性をとても大切にしてくれました。例えば、自分たちでコンサートのプログラムを作ったり、それを地域の方々に届けたりしていました。いつも登下校を見守ってくれる人たちにプログラムを届けに行くと、とても喜んでくれて、自分の気持ちも温かくなりました。地域の人たちを笑顔にするのは素敵なことなんだと感じることもできました。
中学・高校では残念ながら、学校外の人と関わることがあまりありませんでした。
【奈桜子】 コンサートには地域の方が見にきてくれましたし、登下校を見守ってくれるパトレンジャーさん、私の祖母もやっていた図書レンジャー(読み聞かせをするボランティア)さんなど、大空小では地域の方がいつも見守ってくれているという安心感がありました。
ただ、こうした地域の方とのふれあいは、コミュニティが小さいからこそできるのではないかとも感じます。私が通う高校は奈良県にあるのですが、生徒は大阪府、奈良県、兵庫県、和歌山県から集まっています。この環境で、地域の方と関わることは難しいのかもしれません。実際、地域の方とのふれあいを感じる機会はゼロに近いです。
【木村】 明日香と奈桜子のおばあさんは、大空では「グランマ」と呼ばれていて、創立1年目から毎週のように絵本の読み聞かせをしてくれて、大空の子どもたちに大きな影響を与えてくれた人でした。二人はどう思っていましたか?
【明日香】 休み時間にふれあいスペースで祖母が読み聞かせをしていたのを、私も聞きに行きました。はじめは、みんながあまり行きたがらなかったので、友達に「一緒に行こうよ」と声をかけていました。気恥ずかしいという思いがありながらも、「私のおばあちゃん、すごいでしょ」という気持ちもありました。
【奈桜子】 子どもながらに、学校でボランティアとして活動をするのはすごいことだと思っていました。
【木村】 じつは、創立1年目から3年目くらいまでは本当に手探りでした。1年目からカリキュラムに入れたのが、「ふれあい科」です。教職員以外の地域の大人と子どもが学校という場で出会って、お互いに顔と名前が一致するような関係をつくりたかったんです。1年目のふれあい科のテーマは、「学び、感動、愛」と、教頭の平山(行一)は言っていました。人と人とがふれあう中には必ず学びがあって、学びがあると心が動く、感動がある。感動したら愛が芽生える。その通りだと思います。
学校ではいろいろな教科を学ぶけれど、私が校長を務めた大空の第1ステージ9年間は、ふれあい科を主要な授業としてやっていました。コンサートやバースデーメッセージ集会(誕生月の子どもが全児童の前で自分の思いや願いを発表する)、オープン講座(教職員や地域の人がゲストティーチャーとして1回きりの講座を開く)などで、これらはすべてふれあい科です。
【大島】 ふれあい科として、オープン講座やスペシャル授業をたくさんやりましたよね。例えば、「いのちを守る学習スペシャル」として、防災を研究する大阪市立大学の教授をスペシャルティーチャーに招いて、子どもと一緒に地域の大人も共に学びました。ここで学習する内容は防災ですが、子どもと地域の大人が出会い、関わり、ふれあうことも大切にしてきました。ふれあい科を通して関わった人たちやそのときに思ったことなどで、覚えていることはありませんか?
【奈桜子】 地域の人と一緒にオープン講座やスペシャル授業で学んだことは覚えています。ただ、私の中で「ふれあい科」というと、「ようこそ大空の先生」(教職員が事前にクジを引き、普段自分が担当している学年や学級以外で授業を行う。子どもと多様な教職員とのふれあいが目的)の印象が強く残っています。誰がくるのだろうというワクワク感がありました。また、普段とは違う先生の授業を受けることが刺激にもなりました。
【木村】 「ようこそ大空の先生」で、誰がどの学級で授業をするかは、くじ引きで決められます。学級の名前が書かれたテニスボールを箱に入れて、それを順番に引くんです。
【上田】 大人もどこの学級になるのだろうと毎回どきどきでしたね。初期は、1週間くらい前にくじ引きをしていました。当日まで子どもたちに口外することはできないので、休み時間にその学級の様子を見に行って、どんな授業をするかをあれこれ考えていました。
【木村】 何年かすると、前もって準備するなんて意味がない、子どもと出会ってその場でつくるのが授業だとか意地悪を言う人がいて(笑)、くじ引きが前日に行われるようになりましたね。
【大島】 言い出したのは、木村先生ですね(笑)。やっていくうちに授業の内容も変わりました。最初は、自分の得意なことで授業をするという形式だったのですが、あるときから(実施日の時間割の教科)1時間の単元を授業する形式に変わりました。
6年生を担当していたときに、1年生の学級に当たって授業をしたことがあります。大空は「すべての教職員ですべての子どもを見る」ことを基本にしていましたが、そうはいっても、初めて話をする子どもたちもいます。ですから、まずはお互いに自己紹介から始めて、「〇〇のときにがんばっていたね。すごかったよ」といったことを伝えるようにしていました。6年生の担当でもちゃんと(1年生の)みんなのことも見ているよということが、少しでも伝わればといいなあと思っていたからです。そのようなふれあいをしたあと、普通に授業をしました。
【木村】 そうでしたね。最初は、それぞれの先生の持ち味を生かして、自由に好きな授業をしていました。しかし、「ある日、突然、どの学級に行っても授業ができることを当たり前にする」という目的に変えたのです。だから、くじで3年の学級を引いたら、3年の学級を担当している教員に、明日はどこの課題をやるかを聞いて、それを引き継いで1時間授業をするようになりました。
いつでもどの学級でも授業ができることを目的にしたら、教員たちが強くなっていきました。学級担任制を捨てて、大空が掲げていた「すべての教職員ですべての子どもを見る」ということが、授業をとおしても少しずつ実現していったんです。
【小西】 「ようこそ大空の先生」を、私はいつもうらやましく思っていました。(音楽専科として全学年の音楽を担当していたので)私は普段からすべての子どもを見ているし、どの学級で授業をすることになっても子どもは新鮮に感じないだろうから、最初に辞退したんです。そうしたら二度と声をかけてもられませんでした(笑)。
【木村】 1年生から6年生までの全学年の授業をしているのは小西さんだけだったんです。だから、小西さんはやらないでいいから、フォローに回ってくださいとお願いしました。
【小西】 だから、いろいろな教室を回らせてもらいました。上田先生のようにしっかり準備する先生もいれば、大島先生のようにあまり準備をせずに臨む先生とか、いろいろなタイプがいました。もちろん、準備したからいいというものではありません。準備をした授業でも子どもとあまりかみ合っていないと思うものもありましたし、ほとんどぶっつけ本番のような授業でもすごいなあと思うものもありました。サポートに回りながら、私自身とても勉強になったんです。でも、本音を言えば、私にも音楽以外の授業をやらせてほしかったという思いはありましたね。
【明日香】 その関連で思い出したのですが、5・6年生のときに私のクラスの先生が、自分のクラスと隣のクラスの社会を教えて、隣のクラスの先生が理科を教えるということをやっていました。これもふれあいの観点からそういうことをしていたのでしょうか?
【木村】 おはようからさようならまで、一人の教員が同じ学級を見て、6時間授業をしていたら、その学級の子どもたちは、その教員のもつ一つの価値観としか出会えない。これって社会につながる学びではないという声が上がって、同学年を担当する教員同士でシャッフル授業をすることになったのです。つまり、一つの価値観ではなく、子どもたちが多様な大人と学べるようにすることが目的です。
【明日香】 そうやって、いろんな先生の授業を受けていたので、この先生はお話がおもしろいとか、この先生は説明が上手だとか、そんなことを感じながら授業を受けていたことを思い出しました。
【木村】 「ようこそ大空の先生」にしろ、シャッフル授業にしろ、いろいろな教員が授業をすることで、子どもたちの吸う空気はその都度変わっただろうと思います。
授業って、教員と子どもの関係が非常に身近なものですよね。しかも、一人一人教員との相性に当たり外れがある。当たりだったら、一人の教員の授業をずっと受けてもまだいいけれど、外れだったらその子はつらい思いをするでしょう。そうしたことから、学級担任制をやめて、多様な教員が授業に入るシステムをつくっていきました。
――創立から中心になって大空の教育をつくってきた木村校長が退任された後の大空小学校はどんな様子でしたか?
【奈桜子】 4年生に上がったときに、木村先生と小西先生がいなくなったのは、私の中では大きなショックでした。一瞬、大空小学校が変わってしまうかもしれないという不安はありましたが、先生は変わっても(大空小の教育の)芯の部分は変わらなかったので、これまでどおりの安心感がありました。例えば、地域の方とのふれあいやコンサートなど、大空ならではの取り組みを、先生が変わっても引き継いでくださってうれしかったです。
【岩切】 (第2代校長となった)市場達朗先生は、大空小の教頭をしていたこともあったので、これまでの大空の教育を引き継いでくださるだろうという安心感はありました。市場先生の個性を出しながら大空の教育を進めていってほしいと周りは見ていたと思います。1年目はどうしても木村先生と比較されることも多くて、市場先生は思うように自分を出せなかったところもあったのではないかと思います。他の先生方も「これでいいのかな」と思いながらやられていた印象があります。
2年目になったとき、大島先生たちから自分たちが発信してやっていかなければならないというものを感じました。地域の人たちも少しずつ、自分たちで大空の教育を進めていくという気持ちになっていたんじゃないかと思います。
【大島】 そういう思いで見てくれていて、それを言葉にして伝えていただいて、感慨無量です。その当時は、頼っていた先輩方が一気にいなくなって、自分たちがなんとかしなければならないという気持ちしかなかったです。常に「これでいいのかな?」という思いはありましたが、考え続けることが大切ということを学んできたので、僕らがやるしかないという心境でした。(1年目の)市場さんは大変悩まれていたように見えました。でも、一人でやることではないので、教職員はもちろん、岩切さんなどのたくさんのサポーターのみなさんが一緒にやってくださいました。誰がやるのかとなったときに、みんな自分がやるという気持ちだったと思います。
【木村】 みんながそういう思いでつないでくれていたんですね。
少し話題を変えましょう。私が明日香のことで強烈に覚えているのは、「ありがとうコンサート」(※1)で、卒業生の明日香が指揮をしてくれたことです。
【明日香】 確か、高校3年生のときだったと思います。
【小西】 私には、小学校のときの明日香の歌声が今でも鮮明に残っています。音程はしっかりとれていて、とても伸びのある太い声でみんなを引っ張ってくれていましたね。指揮の依頼をしたとき、最初は自信がないと言っていたけれど、引き受けてくれてすばらしい指揮をしてくれました。
【木村】 指揮をする前に、高校生の明日香が大空の子どもたちに語ってくれましたね。じつは、スクールレターにそのとき明日香が語った言葉を載せました。
「この大空で音楽の楽しさにふれ、音楽を続けてきました。私にとって音楽は大切な存在です。時々、大空に戻ってみんなと音楽がしたいなあと、思うときがあります。でも、それは簡単にはできないことなので、今、ここで音楽を楽しんでいるみんなには、今できているコンサートを大切にしてやっていってほしいと思います」
それから、明日香は涙を流しながら指揮をしていましたね。
【明日香】 私はやっぱり、大空のコンサートが好きだったんですね。指揮をしていて目の前で子どもたちの歌声を浴びているうちに、大空のコンサートの温かい感じや子どもたちの思いに胸が熱くなり、泣いてしまいました。
【木村】 その明日香の涙を1年生から6年生までの在校生がみんな見ていて、1年生の子が「さよならメッセージ」(毎日、1日の終わりに、10行の用紙に自分の考えを書く。最終行まで必ず書き切らなければならい)に、「お姉ちゃん、泣きながら指揮をしてくれていた」と書くんですよ。明日香が指揮をしたのはわずか5分のことでしたけど、子どもたちは、「あのお姉ちゃん、泣きながら指揮をしてくれていたな」という思いを大人になってもずっともっていくんじゃないかと思います。
【木村】 二人にとって大空のコンサートは、どういうものでしたか?
【明日香】 みんなでつくり上げるもの、そして、練習してきたことや自分たちの思いを先生方や見守ってくださる地域の方々に伝えるもという気持ちがありました。ですから、全力で取り組んでいましたし、大好きな行事でした。
【奈桜子】 コンサートは、強く印象に残っている思い出の一つです。大空小はコンサートなどをつうじて、地域の方とのふれあいを大事にする学校でした。小学校でこういう経験ができるのは、おそらく全国的にみても少ないのではないでしょうか。コンサートを経験できたということだけをとっても、大空小に通えたことは今の自分にとってプラスだと思っています。今、私には作曲の仕事をしたいという夢があります。
【木村】 へえ、そうなんや。すごいなあ。
――コンサートでどの楽器を演奏するかはオーディション形式で決まり、オーディションに向けて一生懸命に練習をしても、不合格となれば別の楽器になることもあるそうですね。
【明日香】 私もアコーディオンのオーディションに落ちて、鍵盤ハーモニカになったことがありました。アコーディオンをやりたくて放課後にたくさん練習していたので、落ちたことはやっぱり悔しかったです。でも、私はその悔しい気持ちをバネにして、鍵盤ハーモニカをがんばろうと思えました。だから、オーディションにあってよかったと思いますし、否定的な考えはありません。
中学・高校では吹奏楽部に入りましたが、コンクールに出る選抜メンバーになるにはオーディションがありました。小学校で経験していたので、落ち着いて前向きな気持ちで臨めめました。
【奈桜子】 私は音楽が根本的に好きなので、コンサートに向けてのオーディション、オーディションに向けての練習に前向きに取り組めました。
ただ、第一希望の楽器をやりたかったけれど、オーディションに落ちて別の楽器をしなければならなくなった子のことも知っているので、(オーディションの本質とそういう子の思いの)兼ね合いは難しかったのではないかと思います。
【小西】 音楽の授業などで担当する楽器を決めるとき、教師がいちばん楽なのは、公平に順番に回るようにするやり方です。でも、これって子どもをいちばんばかにしている決め方だと思うんです。子どもが伸びようとする力も遮断してしまうし、それを公平だと考えていること自体が間違っています。
中には、小学生という小さな子たちにオーディションという過酷なことをやらせていいのかと考える人もいるかもしれません。でも、オーディションの目的は、一定の期間を設けて、その期間に自分がどれだけ努力をするか。自分を試す機会にしているんです。自分ではやりきったとしても、評価されないことがあるかもしれない。だけど、大空のコンサートのオーディションは、第一希望が叶わなかったとしても、第二希望、第三希望の楽器でチャレンジできるわけです。
こういうことって、人生の中で幾度もありますよね。子どもたちはこの先、挫折することが何度もあるでしょう。だから、小さいうちからそういう体験をさせることが大切だと考えました。たとえ、挫折したとしても、道というのは第一希望の一本ではないんだ、自分に適した道はほかにもあるんだ、ということを気付く機会にもなるわけです。一度は挫折したけれど、(第二希望や第三希望に)挑戦していい結果に結び付くということを、小学生の間にたくさん経験してもらいたいなという思いでオーディションをさせてもらっていたんですね。
【木村】 世の中、うまくいかないのが当たり前。そんな世の中に子どもたちは出ていくことになる。だから、小学校6年間のうちにどれだけ挫折するかが大事なんです。その代わり、私たちは挫折した子を絶対にほうっておかない。挫折した子のつらさを見たら、「大丈夫か?」ってとことん寄り添いました。挫折した子をほうっておくのなら、オーディションなんてできません。
【小西】 オーディションの合否は、オーディションの出来栄えだけで決めるわけではありません。私だけでなく、校長先生、学級を担当する先生、ほかにも何人もの先生にも入ってもらって、オーディションまでの期間にどれだけその子ががんばったかなど、いろいろな観点から評価します。
教師の側から言わせてもらうと、オーディションって大変なんですよ。ものすごい準備とエネルギーを必要とします。それでも、子どもたち一人一人の力を伸ばす機会になると思ってやっていたんです。オーディションを経験した子どもたちが、大人になったとき、オーディションの意図や私たちの思いを汲み取ってくれているだろうかと、今でも考えることがあるんです。
【明日香】 就職活動をしているときに、何社か落ちたこともありましたけど、その会社に落ちたからといって、自分はだめだという考えにはならなかったです。だめだったからといってマイナス思考にはならず、自分を見つめる機会にしていました。小学校のときにオーディションを経験したことも影響していると思います。だから、私はオーディションという機会があってよかったと感じています。
【小西】 それを聞いて安心しました。子どもたちはライバルでありながら、同じ楽器を目指す子に教え合いをする場面などもたくさん見られました。ライバルに教えるということは、自分のポジションを取られることになるかもしれない。それでも、子どもたちは一生懸命教え合いながら練習する。それくらい子どもたちって純粋なんです。
【大島】 オーディションは、本当にすごいものだと思います。子どもたちは落ちれば泣くくらい悔しがります。それだけ真剣なんです。
だけど、オーディションの目的は、受かることとか落ちることではなく、そこに行きつく過程の中でどれだけ自分の力を高めることができるか。人とつながりながら、4つの力(大空小では、10年後の社会を生き抜くために必要な力として、①人を大切にする力、②自分の考えを持つ力、③自分の表現する力、④チャレンジする力を育てようとしている)を高めていくかです。そして、オーディションの経験は、その後の人生の中で生きてくるのだろうと思います。
【上田】 結果ではなく過程が大事というのは、オーディションを見て私が学んだことの一つです。一つも音符を読めない、一つも音を鳴らせない子が、オーディションに向けて練習することで、一つ音符が読めるようになる、一つ音を鳴らせるようになる。少しずつできることを増やすことで、オーディションまでには間に合わなかったとしても、いつか実る日がくるでしょう。
私は子どもの頃にオーディションのような経験してこなかったので、大空の子どもたちがうらやましかったです。卒業生たちがオーディションでの経験を生かして、いろいろな課題や障壁を乗り越えて、少しでも生きやすくなってくれたらいいなと思います。
【木村】 オーディションの審査をしようとしたら、子どものことをものすごい見ようとするんですね。例えば、この子は楽器を家に持って帰っているけれど、ちゃんと練習する時間を取れているんだろうか。何か家で困っていることがあるのではないかとか、見えるところだけでなく、いろいろなことを考えて、すごく悩みます。悩むということは、その子のことを知ろうとすること。ですから、オーディションは、私自身が学ばせてもらう深い時間だったんです。
私たちが審査をしていると、子どもたちはいま先生たちが困っているに違いないと感じているので、自分たちで歌を歌っていくんです。その合唱の麗しいことといったらありません。子どもが主体的に歌っているときのハーモニーってどこか違いますね。審査中にもかかわらず、その合唱に聴き入ることもありました。
合格発表といういちばん大変な役目は、小西さんに引き受けてもらっていました。合格発表の場では、今の子どもたちの集団が見えるんです。集団っていやな言い方ですけど。誰が合格と言えば、誰かが落ちるということ。そのときに、周りの子どもたちはみんな微妙に反応します。その一つ一つの反応が、オーディション翌日から私たちが子どもへどう関わるかにつながっていくのです。だから、オーディションを行うことで教員がいちばん変わっていきました。
サポーター(保護者)のなかには、何でオーディションをするのかとか、なんで音楽ばかりするのかとか、受験のためには国語や算数が大事だとか、そういう考えをもっている人がいるのは当たり前のこと。だからといって、年3回のコンサートやオーディションを辞めようと思ったことは一度もないし、まったくぶれることなく続けてきました。ちょっと熱く語ってしまいましたね(笑)
【奈桜子】 コンサートだけでなくその根底にあるオーディションについても、ここまで熱をもって話される先生ってそうはいないと思います。今のお話に共感できることしかなかったので、聞けてよかったです。
――最後に、大空小学校での教育が今に役立っていることについて教えてください。
【明日香】 中学のころ、学校に行けない時期がありました。いちばん仲の良かった子から、クラスの子に陰口を言われていると伝えられ、怖くなってしまったのです。それでも、「自分がされていやなことは人にしない・言わない」(たった一つの約束)という教えがあったので、陰口を言っている人たちに自分が悪いことを言おうという考えにはならなかったです。
陰口を言われて自分が嫌な思いをしたので、立ち直って学校に行けるようになってからは、人と関わるうえでよりいっそうその人の嫌な部分ではなく、素敵なところを見るようになりました。それは社会人になった今でも変わりません。私が人と関わるうえでの根底には、大空小での「たった一つの約束」があるのだと思います。
【奈桜子】 多様な子がクラスにいて一緒に学んだという経験は、私の人生でプラスになっています。杖を突きながら点字ブロックの上を歩いている人がいたら少し端によけるとか、そういう気遣いはできるようになりました。障害をもっている人と関わる・関わらないに限らず、社会ではそういう人たちも一緒に生きているということを、みんなが自覚するべきだと思います。
【木村】 障害をもっている人だけでなく、LGBTとか、外国人とか、マイノリティの方がたくさんいるのが社会です。この社会に出て行ったときに、大空の6年間の経験値を生かすことができますか?
【奈桜子】 生かすことはできると思います。いろいろな人がいるということは大空で学んだことの一つです。いつも社会には多様な人がいるということを意識して人と接していれば、問題は起こらないと思います。
【小国】 同じご家庭で育ったお二人ですけれど、人生のステージの違いによって振り返る内容はずいぶん違いました。明日香さんは社会に出られていろいろな経験をされている段階、それに対して、高校3年生の奈桜子さんは大学受験に向けて前を向かれている段階。だから、奈桜子さんが明日香さんの年齢になったときに、今日語られたこととはまた違った思いが出てくるかもしれません。記憶のもっている複雑さについて改めて教えていただきました。
多様な人と関わることや子どもが主体的に行動できるような教育環境をつくることの大切さが、コンサートやオーディションを通して語られ、大きな学びになりました。
注
※1 大空小学校では、みんながつくるみんなのコンサートとして、年3回(創立記念コンサート、ふれあいコンサート、ありがとうコンサート)行われる。単なる音楽発表会ではなく、音楽を通じて人とふれあい、コンサートをつくる役割を一人一人が担うことを目的にしている。