「みんなの学校」こと、大阪市立大空小学校では、「すべての子どもの学習権を保障する」ことを理念に掲げ、障害のある子もない子もそれぞれの個性を大切にしながら、同じ教室で学ぶ。また、学校は地域のものという考えの下、学校は常に開かれており、サポーター(保護者)や地域住民が自由に授業に参加し、困っている子に寄り添っている。
大空小学校で学んだ卒業生たちが現在どのような考えをもち、どのような人生を踏み出しているのかを探る座談会シリーズ。
第7回は、第3期卒業生の西沙依さん、岡田悠希さんが参加し、大空小の草創期の様子について深掘りした。
大空小学校の実践研究を行う小国喜弘らとの座談会から、インクルーシブ教育や特別支援教育の課題と、今後のあり方について考える。
座談会参加者
- 西沙依(にし・さえ)(旧姓:川村)2009年、大阪市立大空小学校卒業。私立大谷高校卒業後、畿央大学に入学。現在は、大阪市内の小学校で教員として活躍中。
- 岡田悠希(おかだ・ゆうき)2009年、大阪市立大空小学校卒業。私立浪速高校卒業後、神戸大学に入学。現在は、同大学大学院に所属しながら、大分県立看護科学大学で助教を務める。
- 小国喜弘(こくに・よしひろ)1966年兵庫県生まれ。早稲田大学教授等を経て、東京大学大学院教育学研究科教授。大空小学校の実践研究を行い、インクルーシブ教育の新たな可能性を模索している。著書に『戦後教育のなかの〈国民〉―乱反射するナショナリズム』(吉川弘文館)等。
- 上田美穂(うえだ・みほ)大阪市公立小学校教諭。2011年度から3年間、大空小学校で講師をしたのち、2014年に新採として大空小に赴任。同校では2019年度まで特別支援教育コーディネーターとして、様々な子どもたちに関わった。
本文
【上田】本日はお集まりいただきありがとうございます。大空の教育がどういうものだったのかということと、実際に社会に出た今、大空の教育がどのようにつながっているのかということを一緒にお話しできたらと思います。よろしくお願いします。それでは早速ですが、お二人のお話を聞かせていただきたいなと思うのですが、どちらからいきましょうか。
【西】私からお願いします。元大空小学校の卒業生の川村沙依といいます。岡田悠希君と同じ年に卒業しました。
【小国】何年のご卒業になりますか?
【岡田】大空ができた時、僕らが4年生で編入という形になったので、3期生ですかね。
【小国】そうすると2009年の卒業ですね。
【西】元々南住吉小学校で1年生から3年生まで過ごして、4年生からは校区が大空小だったので、最初は分校として行かせていただいて、そこから木村先生が校長になった時に大空小に通うことになりました。
【小国】なるほど。開校当時の印象はどうでしたか?
【西】最初は南住吉小の人数が多いから大空小に分かれて行っているだけで、インクルーシブ教育に力を入れているというイメージは全くなかったです。私らが高学年になったときくらいに、木村先生がすごい力を入れて、みんなで学校を作っていこうよとしていた印象があります。
【小国】じゃあ、最初の1年はそんなに印象がないというか、1年くらい経ったころから学校の色が出てきたという感じなんですね。
【西】そうですね。
【小国】なるほど。西さんとして、小学校時代で記憶に残っていることは何ですか。
【西】めちゃくちゃ色んなことをやらせてもらったイメージがあります。5・6年生を受け持ってもらった先生方は、私らがやりたいことを全て肯定してやらせてくれました。
【小国】それは、その先生方がそういう感じだったということなんですかね?
【西】そうですね。校長先生も一緒にやっていてくれたので、木村先生の印象はとても残っています。
【小国】木村先生のイメージってどんな感じですか?
【西】良くないことは良くないと言ってくれることですかね。交通安全教室に数名が代表で行って、すごく良い成績を残せたことがあるんですね。それでみんなでワーと騒いで楽しくしていたんですけど、でもそれって、君たちの力もあるけど、先生とかみんなのおかげであって、周りの人が支えてくれたからだよねってバシッと言ってくれた記憶があります。
【小国】当時4つの力はまだない時代ですよね?
【西】ありましたね。
【岡田】僕はたった一つの約束の方が覚えていますね。人に嫌なことはしない。
【上田】校長室に入ったことはありますか?
【西・岡田】ないな〜
【岡田】僕ら1年生から3年生までは別の小学校だったので、校長室に呼ばれることというのはもうめちゃめちゃ悪い子でめちゃめちゃ怒られるみたいな。そのイメージが拭えなかったですね。
【西】岡田さんが言ってくれたように、南住吉小の時は敷居が高いというか、職員室にはあんまり入らないというか。大空に来てもそれはありましたね。
【小国】やっぱりそれまでの行動のコードがあるというか、自由に入っていいよと言われてもなかなか入りにくいわけですよね。西さんは今大阪市の教員をやられているということですが、その進路を選ぶ時に小学生時代の経験が影響していることはありますか。
【西】やっぱり小学校の思い出が強かったのと、5・6年生に受け持ってもらった先生の人を動かす力に憧れたことがありますかね。先生が前に出て、こうやりなさいと言うのはやりやすいと思うのですが、そこを子どもたちから動くようにするのがすごく大変で、先生の力が一番試されるというか。その先生はそれがすごく上手でした。
【小国】今はそのようなことを心がけながら教員をされているんですか?
【西】できる限り子どもたちが自分たちで動いてほしいなという思いではいますね。それが難しかった時に、私らが前に出たら良いのかなと。
【小国】なるほど。そういう時に、その先生の姿がちらついたりするわけですか?
【西】全く同じことができるかと言われたらやっぱり難しいですけど、先生はこの時にこんなことしていたなみたいなことを思い出しながらやるときはあります。
【上田】岡田さんのお話をお伺いしてもよろしいですか?
【岡田】はい。西さんと同じく大空の3期生で、今は大分で大学の教員をやらせていただいています。小学校の間ずっと、もともといた南住吉小のバスケットボールのクラブチームに所属していたので、そっちの小学校の友達ともよく関わっていました。
【小国】南住吉小に残った友達と、大空小に移ったご自身で、何か違いを感じるような場面はありました?
【岡田】大きく違うというのはあまり感じなかったですね。
【小国】お仕事をされていて、小学校時代を思い出すことはありますか?
【岡田】小学校時代はちょっと思い出せないですね。
【上田】(笑)。
【小国】大空小がコンサートにウエイトを置くようになる最初の時期にいらしたと思うのですが、お二人にとってのコンサートの思い出はありますか?
【西】オーディションですかね。休み時間ごとに音楽室に行って練習していたし、いろんな楽器を教えてもらいました。オーディションで選んでもらうから悔いはないし、練習を頑張ったらコンサートを見てくれた人が喜んでくれるので、また頑張ろうという。その繰り返しだった印象ですね。それに、何よりも先生たちが音楽のことを好きだった印象だったので、私らも楽しくやらせてもらいました。
【岡田】僕はリコーダーが死ぬほど苦手だったので、毎回トライアングルをやっていたんですよ。いつもトライアングルをやりたいのは僕だけだったのに、最後のコンサートでもう一人立候補してきて。それで、オーディションの過程で練習も見ますと言われたけど、学校にトライアングルが一個しかないんですよ。昼休みに練習しに行ったら、その子が先に練習してて。オーディションの本番も同じくらいの出来だったのに、練習の過程を踏まえて選ばれなくて、めちゃめちゃ悔しかったのを覚えていますね。俺の方がキャリア長いやん!って(笑)。
【上田】私が大空で教員をやっていた時、ライバルのはずなのに、同じ楽器の人たちで教え合っているのが、大人としてはとても不思議に思っていましたね。お二人もオーデションの時、お互いに教え合うというのはありましたか?
【西】そうですね。喧嘩しているイメージは全くないですね。みんなでやっている感じです。
【岡田】昼休みに、この楽器の子はみんなで練習しようみたいにしてやっていたかな。
【西】楽器の取り合いとかもなかったですね。
【上田】ライバルなのに、って大人は思ってしまいますよね。ずるいこと考えたら、隣の子が練習しなかったら自分は受かるというのがある中で、できていない子には「ここ、こうやで」って教え合う姿が素敵だなって個人的にずっと思っていました。
【西】私らのクラスだけかもしれないですけど、「みんなで一緒に行き」とよく言われました。1人だけが教室に残っているんじゃなくて、みんなのコンサートだからみんなで練習して、みんなでできることを増やしていきなさいみたいな感じでしたね。その中でも、岡田さんは割とやる気のない方というか(笑)。達観してみるタイプだったと思うんですけど、みんなでやらなあかんってなった時に、一人で来て、オーディションの練習をしているみたいな。その責任感はみんなにあったと思いますね。
【上田】岡田さんがコンサートを通して学んだことってありますか?
【岡田】達成感はありましたね。みんなでやったからこういう結果が得られたみたいな。
【上田】「みんな」でなんですね。
【小国】岡田さんが大空小のことで一番覚えていることは何ですか?
【岡田】小学校時代の記憶の半分以上がバスケットなんです。でも「自分がされて嫌なことはしない」というのは一番記憶に残っていますね。
【上田】たった一つの約束は、大空ができてからすぐにできたんですか?それとも何年か経ってからできたんですか?
【西】ずっとあったイメージかな。南住吉小から移ってきた私たちとしては、大空は別世界だったんですよね。なんか違かったよね。
【岡田】うん。
【西】雰囲気が全然。南住吉小学校は、THE公立学校という感じ。素行が悪い子どももいるし、子どもらしい子どももいる。大空小は、言い方が悪いかもしれないですけど、先生の言うことをよく聞く子どもが多かったです。教員として働いていて、あんなに良い子ばっかりの学校は珍しいなと思いますね。
【小国】学区で分けているのにですよね。良い子というのは、つまり満ち足りていたということなんですかね?
【西】結構愛情は注いでもらっていたと思いますね。
【小国】南住吉は大規模校ですよね。確か1000人くらいいて、そういう意味で教師の目が行き届いてないというか、その反発があった。一方で、大空小は比較的目が行き届く中で、子どものやりたいことを伸ばす仕組みがあって、子どもたちも満ち足りていたということですかね。
【西】南住吉小学校の時は、先生たちの入れ替えが激しいイメージがありましたね。私が1年生の時の担任の先生も途中で変わりましたし、他のクラスでもありました。
【小国】それは学年の途中で辞めてしまうということではなくて、他の学校に転勤していくということですか?
【西】今だから思うのは、気持ちがしんどくなってしまったんだろうなと。
【小国】結構荒れていたということですよね。
【西】荒れていたと思いますね。でもそれが普通だと思っていたので、逆に大空小の方が違和感はありました。大人しいな、荒れてないなという驚きですね。
【小国】力で抑えようとしていた教師が結構いて、だから子どもが暴れるということですかね。
【西】先生いじめが多かったですね。子ども同士というよりも、先生に対して反抗している子が多かったイメージがあります。
【小国】この話は今回初めて聞きました。南住吉の話は結構出ていたんですけど、先生が病休でいなくなったとか、殺伐とした雰囲気だったというのは。
【西】でもそれが普通な感じでしたね。
【小国】岡田さんは、西さんが今言われたことに関して何か覚えていることはありますか?
【岡田】やっぱり大空の方が全然荒れてはいなかったですね。
【西】たぶん、中学校に行ったら大空の子は苦労したと思います。南住吉小と大空小とで変な壁があるというのを卒業した当初聞きました。
【岡田】転校していくとか…西さんは中学校から私立だったので。
【西】大空の子から聞いたのは、「大空だから何やねん」みたいな、変な目のつけられ方をすると。南住吉の子からしたら、そういうイメージなんですかね。
【小国】岡田さんは公立の中学校ですか?
【岡田】はい。
【小国】今、西さんが言われたことは実際どうでしたか?
【岡田】僕自身はそういうのを体験しなかったんですけど、南住吉の子が大多数だったので、先生の言うことはちゃんと守りましょうみたいな雰囲気というか、大空小との環境のギャップはすごいあったと思いますね。それに馴染めなくて転校することとか。あとは、3年前は同じ小学校だったけど、全員が友達というわけでもなかったし、当時友達でも、3年経ってまた中学校で同じように振る舞うのかという、人間関係のギャップもあったと思いますね。
【小国】いじめられて転校するということですか?
【岡田】うまく馴染めないから、転校とか不登校になるという感じですかね。
【西】自分らしさを出すのが大空のいいところだと思うんですよ。でも、そういうのを今まで言われてこなかった子たちにとっては、違和感なのかなと。大空の時、それまで不登校だった子が来れるようになったんですけど、中学校に入ったらまた不登校になってしまったという話も聞きました。
【上田】西さんが通われた中学校はどうでした?
【西】そんなに困ることはなかったですけど、先生のギャップは大きかったですね。荒れないように押し付けてくる先生がすごい多かったというイメージです。
【小国】この話も初めて聞きました。大空小の先生は、みんな南住吉小から移った先生たちですよね?
【西】みんなではないと思うんですけど、ほぼそうですね。
【小国】南住吉の先生たちが、大空小に来たらのびのびやれたという感じなんですかね。それとも、例えば西さんがおっしゃっていた先生は南住吉の頃から同じようにやっていたということなんですかね。
【西】他の学年のことは分からないですけど、やっぱり人数が多くて子どもたちのことを見れていなかったのかなと。
【小国】同じ先生でも、やっぱり大規模校の中では潰れていた、という言い方は強すぎるかもしれないけれど、必ずしもうまく子どもたちと関われていたわけではなかった。もしくは子どもと関わりたいと思っていた先生たちが、多く大空小に移ってきたということなんですかね。
【西】南住吉小でも頑張っていた先生が大空小に来てくれたイメージですね。
【中辻】ゼロスタートの大空にアクティブな先生方が来られたことで、これから新しい学校を作っていくんだといういい熱量がすごくあったと思うんですよね。それが、おそらくそのときの在校生にも伝わっているような気がします。先程からコンサートの話があって、子どもたち一人ひとりを活かしながら、みんなで作り上げていく、みんなで作っていくことで達成感もすごくあったと思うのですが、それらのことが、小学校卒業後から現在に至るまで、活かされていると思うことは何かありますか?
【岡田】僕はひねくれた子どもだったので、当時は「コンサートはやく終われ」と思っていました。年頃だったのかもしれないです(笑)。
【西】私は今も「みんなでやりたい」という考えが強いですね。今4年生を持たせてもらっていて、私と同じような価値観の先生たちだけでやってもいいんですけど、学校として変えようとするなら、他の先生の意見も聞き入れて一緒にやっていかないといけないなと思っています。「みんなで一緒にやる」というのをコンサートで学んだなと思いますね。達成感って、やっぱり子どもだけじゃなくて、大人も感じたら嬉しいものなので、今もそこを大切にしていますね。
【上田】もし今の学校で、みんなで何かやるとしたら、何をやりたいですか?
【西】今年から今の学校に赴任してきたんですが、やはりコロナがあってから学年で何か一つをやり遂げるという経験がなかなかできなかったんだと。それこそ、班活動で動いたことがないとか、何かを達成することが今までなかったと思うので、まずそこからやらせてあげたいなと思っています。そういう経験がないと、他の子たちと喋る機会もないと思うので。
【上田】私も今4年生を持っているんですけど、今の4年生がちょうど1年生のとき、コロナがピークで、6月開始の1年生なんですね。小学校に入ってきた時から、給食は黙食だし、全員が前を向いて食べるというところからのスタートなので、たぶん、今の4年生は学校ってそういうものだと思っている。人と触れなくて当たり前というところが、4年生になってもやっぱりありますよね。
【西】コロナが明けてから、不登校が多い印象がありますね。保護者や地域との連携がなかなか取りづらかったというのがあるみたいで。今思うのは、やっぱり地域の方との関わりっていうのはすごく大事だなと。そこから保護者の方と関わることも増えると思うので。
【上田】やっぱり学校だけじゃ限界がありますよね。地域の方とうまく連携をとりながら、学校と地域と家庭とが繋がっていくことが必要で、そこは大規模校でも小規模校でも関係ないなとすごく思いますね。
【小国】今日は草創期の、南住吉小から大空小へというその体験の落差がどういうものだったのかという、今まで聞けていなかった話が聞けたような気がします。同時に、卒業後に、中学校で必ずしも周りの子どもたちに馴染めなかったという草創期であるが故の混乱もあったという回想がありました。ただし、これは大空小の問題なのか、隣の南住吉小学校や進学先の中学校の問題なのかといえば、後者なのではないか。子どもの人権を尊重しない教育環境が優勢な中で、子どもたちが振り回されざるを得ない問題が、中学校進学後に浮き彫りになってしまったという出来事として受け止めました。
【上田】また機会があればお話を聞かせてください。今日はありがとうございました。
(編集:金成 陽世)