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大空小学校の卒業生たちのその後の10年を振り返る:「みんなの学校」卒業生 座談会 第2回

「みんなの学校」こと、大阪市立大空小学校は、「すべての子どもの学習権を保障する」ことを理念に掲げ、障害のある子もない子もそれぞれの個性を大切にしながら、同じ教室で学ぶ。また、学校は地域のものという考えの下、学校は常に開かれており、サポーター(保護者)や地域住民が自由に授業に参加し、困っている子に寄り添っている。

「インクルーシブ教育の理想の姿」という多くの賛同を得る一方で、「特別支援を要する子どもが同じ教室にいると、『普通』の子どもたちの学力が付かない」などの外部からの批判も絶えない。

大空小学校で6年間学んだ子どもたちが最初に卒業したのは2012年。それからちょうど10年を迎える今、卒業生たちはどのような考えをもち、どのような人生を踏み出しているのか。

第2回は、2014年に大空小学校を卒業した水野詠介さん、井上里華さん、中垣希基さんが参加。開校から2015年まで9年間、校長を務め、大空小学校の教育の礎をつくった木村泰子、大空小学校の実践研究を行う小国喜弘と卒業生たちの座談会から、インクルーシブ教育や特別支援教育の課題と、今後のあり方について考える。

座談会参加者

  • 水野詠介(みずの・えいすけ)2001年生まれ。2014年、大阪市立大空小学校卒業。大阪府立住吉高校卒業後、和歌山大学教育学部に入学。夢は教員になることで、中学と高校の体育の教員免許取得を目指している。
  • 井上里華(いのうえ・りか)2001年生まれ。2014年、大阪市立大空小学校卒業。大阪府立大塚高校卒業後、武庫川女子大学短期大学部幼児教育学科に入学。2022年、武庫川女子大学教育学科へ編入。
  • 中垣希基(なかがき・きき)2001年生まれ。2014年、大阪市立大空小学校卒業。大阪府教育センター附属高校卒業後、履正社国際医療スポーツ専門学校に入学。柔道整復師になるべく勉強中。
  • 木村泰子(きむら・やすこ)2006年~2015年、大阪市立大空小学校の初代校長を務める。すべての子どもの学習権を保障する学校をつくることに尽力。2015年、45年の教員生活を終え、現在は全国各地で公演活動を行う。著書に『「みんなの学校」をつくるために』(小国喜弘との共著・小学館) ほか多数。
  • 小国喜弘(こくに・よしひろ)1966年兵庫県生まれ。早稲田大学教授等を経て、東京大学大学院教育学研究科教授。大空小学校の実践研究を行い、インクルーシブ教育の新たな可能性を模索している。著書に『戦後教育のなかの〈国民〉―乱反射するナショナリズム』(吉川弘文館)等。
  • 大島勇輔(おおしま・ゆうすけ)1983年大阪府生まれ。大阪市公立小学校教諭。株式会社リクルートに入社した後、母子生活支援施設で学習指導員をしながら大空小でのボランティアを経て、教員に。2011年~2016年度まで大空小に勤務。現任校では教務主任を務める。
  • 徳岡佑紀(とくおか・ゆき)大阪市公立小学校教諭。2008年に教員となり、2012年~2018年度まで大空小に勤務。スポーツ好きで学生時代はラクロス選手として活躍。
  • 上田美穂(うえだ・みほ)大阪市公立小学校教諭。2011年度から3年間、大空小学校で講師をしたのち、2014年に新採として大空小に赴任。同校では2019年度まで特別支援教育コーディネーターとして、様々な子どもたちに関わった。

【木村】 大空の6年間の経験の中でとびっきりの一番は何? 考える時間は10秒、どうぞ。

【井上】 私の中で一番は、日野(善文)先生です。3年生の時に(ミニ)バスケットボールを始めて、ずっと子どもたちだけで練習していたのですが、6年生の時に日野先生が監督になってくれて、たくさんのことを学びました。日野先生がつきっきりで教えてくれて、自分も成長できたし、チームも強くなっていきました。練習することで、試合に勝つ喜びや、できなかったプレーができるようになる喜びを体験して、もっとも充実した1年間でした。

【木村】 そうでしたね。大空では、ミニバスのチームをなかなか立ち上げることができなくて、里華たちが遠慮がちに練習しているような状況でした。日野が、「責任をもってミニバスをやりたい」と言うので、「それでは、やるしかないね」ということで始まりました。

日本の運動部活動は、往々にして勝つことが目的となりがち。勝つことが目的になると、指導者は手段を選ばなくなります。そうなると、指導者による体罰があったり、うまい選手は鍛えられるけど、そうではない選手はないがしろにされたり、また、選手に選ばれるために子ども同士で押しのけ合いをしたりと、負の面も大きいのです。

もし、日野の目的が「強いチームを作って勝たせること」であるなら、校長として正さなければならないわけです。だから、日野にはわからないように、練習の様子をちょこちょこ見に行っていました。日野の指導は素晴らしかった。目的がまったくぶれない。子ども同士をうまくつなげて、子どもを育てていた。練習中に声を荒らげることもなかったし、技術についてはピンポイントに「もっとこうしたらどう?」といった感じでアドバイスをしていました。

子ども同士がつながれば、チーム力は必然的に付いてくるし、子どもが育てば、結果として強くなるんですよね。そのことを日野から学びました。チームは強くなりましたよ。大阪で1位になったこともあります。

私が校長を退任するときに、日野は大空の教頭になりました。教頭にはたくさんの仕事があるので、日野は、「ミニバスの監督を続けたいけれど、教頭になったら辞めないとだめですよね?」と相談に来ました。

私は、「それはおかしい。教頭の仕事をちゃっちゃっと終わらせて、やればええやん」と伝えたんです。日野は教頭になってからも二刀流でミニバスの監督を続けました。

【水野】 僕がぱっと思い浮かんだのは、運動会直前の同級生シュンスケとの出来事です。

掃除の時間にシュンスケが勢いよく閉めた掃除用具入れに、僕の足が挟まり、怪我をしてしまいました。シュンスケは自分の気持ちを素直に表せない子で、僕と仲良くしたいという思いからふざけたために起こったことでした。僕が「気にしていない」と言っても、シュンスケはものすごく申し訳なさそうな顔をしていて…。そのときに、「運動会に出られるかなあ」とか、二人でいろんなことを話したことを覚えています。

【木村】 みなさんは、シュンスケがどういう子かわからないと思いますので、少し説明しますね。シュンスケは近隣の学校から2年生のときに転校してきた子でした。

前の学校では、先生の言う通りに行動できないため、毎日先生に怒られていました。転校してきたとき、お母さんが見せてくれた1年生のときの連絡帳には、シュンスケが学校でいかに迷惑をかけたかが綴られていました。

2年生の春の遠足、シュンスケは「別に遠足なんか来たくなかった」とか言いながらも、楽しそうにしていました。その遠足の最後にみんなで車座になって振り返りをして、さあ帰ろうとしたときに、「俺はここから1ミリも動かない」と言って、シュンスケだけ立たなかったんです。みんなが帰っても、お母さんが迎えに来ても、じっとしたまま動きませんでした。

「おトイレしたくなったらだどうするの?」と私が聞くと、「ここでする」と言っていました。この時間は、不器用なシュンスケが一生懸命気持ちを切り替えるために必要な時間だったんです。1年生の1年間、みんなと同じことができないというだけで、ずっと先生に怒られていたのですから、すぐに切り替えられなくて当然です。先生が怒れば、周りの友達もシュンスケのことを悪く言ったでしょう。だから、シュンスケは学校のどこにいても安心することができなかったのだと思います。

こんなシュンスケは「俺は校長になる」と言って、大空を卒業していきました。理由は簡単、「大空で一番暇そうにしていて、いつもお菓子食べているのが校長だから」だそうです(笑)。

【中垣】 私は、昼休みにバスケットボールをしたことです。里華たち数人の友達と始めて、そのうち大島先生が入ってきて、しばらくすると低学年の子も「やりたい」と言って入ってきて…、みんなでバスケをしたことが、本当に楽しかったんです。

【大島】 こんなエピソードを挙げてくれるなんて、嬉しいですね。僕が希基たちと関わらせてもらったのは、まだがむしゃらな教員2年目。子どもたちに助けてもらった記憶しかありません。子どもたちと同じ目線で関わりながら、僕が子どもたちに育ててもらったと思っています。

【井上】 私もそのことは覚えています。最初は同級生の少人数で始めて、「試合したいから先生も呼ぼうや」って、大島先生だけでなくいろんな先生に入ってもらって。

それを見ていた低学年の子たちが楽しそうに感じたのか、「入っていい?」って言ってきてくれました。気づいたら知らない子たちも入っていて、毎回10人対10人で試合をしているような感じでした。昼休みという短い時間の中で、学年の枠を超えて、子どもも大人も一緒になって、みんなで遊べたことは楽しい思い出です。

――大空では、障害のある子もない子も同じ教室で学んでいましたよね。そのことについて、卒業した今、改めてどのように思っていますか。

【水野】 大空では、障害のある子も同じ友達なんだということを学びました。だから、その子が問題のある行動をすれば一緒に考えるし、よいことをすればほめます。常に普通の友達として接していました。でも、大空以外の学校で、障害のある子がクラスにいたら、いつも大人が隣についているのではないかと思います。そのせいで、その子は特別な子になってしまうのではないでしょうか。 僕は教育学部に通っているので、インクルーシブ教育についても学んでいますが、授業で大空の事例が紹介されたことがあります。「障害のある子を特別ではなくて、みんなが普通と考えられるようにすることが大切」と大学では教えられましたが、自分が受けた大空での教育と同じだなと感じました。

【木村】 そうすると詠介は、大空の環境と大学で学ぶ「インクルーシブ教育」との間に、違和感はもたなかったのですね。

【水野】 はい、ギャップは感じませんでした。自分もそういう教育がいいなと思いますね。障害のある子を普通の子だと見ることって、普通じゃなかったんだと思ったくらいです。

【木村】 そう、普通なんです。普通ってこういうときに使う言葉です。

【小国】 では、特別支援教育には違和感をもちませんでしたか。障害種ごとに分類されている行動特性を理解して、それに合わせた手立てを取ることが大事、といった形で教えられることが多いんじゃないかと思いますが、いかがでしたか?

【水野】 そうですね。こういう子がいたら、こういう対応をしなさいとか、教師による子どもへの対応を教わるものでした。特別支援教育に関わる人だけが知ったり考えたりすればよいことなのかなあ、と疑問に感じたところはあります。

障害のある子も同じクラスで過ごすなら、先生よりも、周りの子どもたちの方がよっぽどその子と関わることになるので、先生だけでなく、子どもたちも障害のある子のことを考えられるようにすることが、本当の特別支援教育ではないかと思います。

【木村】 その通りだと思います。先生が「障害のある」と言われている子どもに関われば関わるほど、その子と周りの子どもが分断されるということが、残念ながら全国の学校現場で起こっています。先生だけが関わるのではなく、周りの子どもたちがその子のことを理解しながら、つながっていく関係性をつくることが大切です。

ですから、特別支援教育で障害の理解を学べば学ぶほど、一方ではその子が見えなくなるという面もあると思います。知識はもっておいた方がよいけれど、「ダウン症の子はこうです。だから、こうしなさい」なんてやっても、必ず当てはまるものではありません。

【上田】 大空では、「この子はどんなことに困っているんだろう」と考えて、周りの子は自分のできる関わりをすることが普通でした。大空から異動して感じるのは、大人が(障害のある)子どものそばにいたがるので、子ども同士の関係をつくることが難しいということです。

【大島】 今、詠介の話を、大空で自分が子どもたちから学ばせてもらったことだなあ、と思いながら聞いていました。教員としての知識や自分が感じたことを子どもたちに伝えて、いつも僕がなんとかしなければならないと思っていました。

でも、その子のことを一番知っているのは、周りの子どもたちだったんです。当然ですよね、僕はその年、その子たちと初めて関わるけれど、子どもたちは1年生からその子のそばで一緒に学んで成長してきたという積み上げがあるわけですから。

だから、困っている子がいたら、先生が指示するのではなく、周りの子にどうしたらよいかを聞く。自分がなんとかしようという姿勢から、子どもたち同士の関係を大切にするように変わっていきました。

大空でそのことを当たり前に経験していた詠介には、大人になってもその考えが残っている。こういう大人や子どもが増えていけば、困っている子どもは減るのではないかと思います。

【上田】 私も1年目は、大人という立場から子どもたちに何かをしてあげなければならないと思っていましたが、その考え方が間違っていたことに少しずつ気づいていきました。

「教える」ということから脱却し、視野を広げないと、子どもたちの一瞬一瞬を見逃すことになり、結果として学びのチャンスを失うことになります。

(大空で子ども同士の関わりを見てきたので)転任した直後は悩むこともありましたが、今は「大空だからこういう関わりができた」とは思わなくなりました。今の勤務校の子どもたちと一緒になって、どう関係をつくるかということをがんばっています。

【徳岡】 教師は「この子はこういうときに困るから、こう接してあげて」などと言いがちです。

大空では(木村)校長先生が、支援や大人の関わり方に対して、「その動き、邪魔」とよく言っていました。「この子はこういうときに困る」と伝えることは大事だけれど、どう関わるかは実際に接する子どもたちが考えることなんですよね。それなのに、子ども同士の関わりを邪魔するようなことを口にしてしまう大人って多いんですよね。

【木村】 今、詠介が思っていることを、先生になったら学校現場でぜひ実践してほしいと思います。 里華と希基は、ここまでの話を聞いてどう思った?

【井上】 クラスに障害をもっている子がいるのは、私たちの中では当たり前のことでした。中学に入ったときに、ダイキが特別支援教室で学ぶことになって悲しかったし、「そうか、別々になるんだ、これが他の学校での普通だったんだ」と、そのときに初めて知りました。

最近、1年生のときのコンサート(※1)映像が出てきたんです。ダイキが「お母さーん」って手を振っている隣で、私は普通に歌っていました。その場面を見て、当時からこの環境が当たり前だったことに改めて気づかされたんです。どんな学校でもみんなが同じ教室で学ぶという環境が当たり前になったら、悲しいこともなくなるのではないかと思います。

【小国】 大空の先生たちは、「障害」という言葉は使っていなかったと思います。当時は、どういう感覚だったのですか?

【井上】 障害という言葉も知らなかったし、障害という認識もありませんでした。例えば、ダイキなら、お母さんを見ると叫びたくなる子とか、その子の個性や特徴といった捉え方をしていたと思います。

【小国】 そうすると、中学に行かれて初めて、障害という概念に出会ったわけですね。

【井上】 もちろん、小学生ながらも学年が上がるにつれ、障害という言葉を知りましたけど、中学に入って実際に教室が分けられたときに、障害をもっている・もっていないで本当にこんなふうに分けられるんだということを初めて実感しました。

【木村】 ダイキは知的障害の手帳をもっている子です。今、里華が言っていたように、里華は歌っている、でも、隣のダイちゃんは「お母さーん」と手を振っている。これが当たり前なんですよ。「ダイちゃん、歌っているときにお母さんなんて呼んだらいけません」とは、大空では誰も言いません。

世間は知的障害があるから空気を読めなくて、歌の途中でお母さんと呼んでしまう残念な子と見るかもしれない。でも、ダイちゃんは病気がちだったお母さんのことをとても大事にしていたので、お母さんが見えると手を振るんですよ。じつに子どもらしい姿だと思いませんか。そんなダイちゃんが隣にいても、里華は何事もないように歌っている。だから、ダイちゃんも自分らしく振る舞えて安心できるんだろうと思います。

【中垣】 里華も言ったように、ずっと一緒にいた子が別の教室で学ぶことになって、最初は心配でした。私は寂しかったし、その子たちがやっていけるのかなという思いもありました。でも、その子たちは特別支援教室で勉強をがんばっていたし、廊下とかですれ違うときに普通に話もできていました。小学校6年間一緒にいたから、私たちの関係性は壊れることはありませんでした。

――例えば、大学などでグループワークを行うなかで、自分はどういう立ち居振る舞いをされていますか。

【水野】 発言していない人がいたら、その人にも話を振って、みんなの発言機会が均等になるようなことはしています。

【井上】 そのときのグループを見て、役割を変えています。意見を発するのが苦手な人が多い印象を受けたら、自分が率先して発言して、「私はこう思っているんだけど、誰々さんどう思う?」と、意見を言いやすい雰囲気をつくることもありますし、自分から意見を発する人が多ければ聞き役に回ることもあります。

【中垣】 みんなの意見を一人ずつ聞いていって、それをわかりやすいようにまとめて、理解できていない人に伝えることもあります。

【木村】 大空の6年間では、こういうことをみんなが当たり前にやっていたなあと思いながら、3人の話を聞いていました。

【小国】 今日はありがとうございました。3人の体験から出た言葉がそれぞれ印象的でした。今日一番しびれてしまったのは、中垣さんから出た、「何気ない昼休みが一番思い出に残っていて幸せだった」という話でした。初めはよくわからなかったんです。でも、よく考えたら、何気ない時間に友達、先生、異学年の子どもたち、みんなで遊んだことが幸せだったというのは、まさにインクルーシブ教育が実現すべき光景なんだということを学ばせていただきました。

井上さんの、「(大空小に通う)高学年から障害という概念は理解していたけれど、中学校に入ってまざまざと障害を見せつけられたのが特別支援教育だった」という話もまた衝撃的でした。

それから水野さんから出た、子ども同士が考えるべきことを大人が独占してしまっていることに対する問題提起は、全国の先生方に聞いてほしい話です。

【木村】 卒業生たちは10年後どうなっているかということを知るための座談会でしたが、私たちはもう3人に追い抜かれていました。だから、今日からもう1回追い抜けるようにしたいと思います(笑)。

※1 大空小学校では、みんながつくるみんなのコンサートとして、年3回(創立記念コンサート、ふれあいコンサート、ありがとうコンサート)行われる。単なる音楽発表会ではなく、音楽を通じて人とふれあい、コンサートをつくる役割を一人一人が担うことを目的にしている。 



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