我が家の次男ショーゴはダウン症体質でゆっくり育つタイプ。就学については、入学直前の2月末まで4年間、先輩方と一緒に様々な立場の人の話を聞き、様々な学校を見学し、夫婦で悩み抜いて、入学先を地域の小学校に決めました。親の心配など、どこ吹く風。息子は、毎日元気に登校し、自分の意思で公立中学校通常級に進学、自分の意思で全日制高校を希望して受験し、現在、都立高校2年生。思春期青春真っ只中です。
就学相談と就学時健康診断(以下:就学時健診)
息子の就学相談は2010年7月に始まりました。障害者権利条約批准前、障害者差別解消法施行前のことです。就学に向けて受けた息子の発達検査の結果は中度知的障害。就学判定は支援級が予想されました。就学相談や就学時健診を受けないという選択肢もありましたが、就学相談には、“学校関係者と面談を重ねる中で、学校側に理解を深めて準備してもらうメリットがある。”といわれ、就学相談、就学時健診を受けながら就学先を考えました。振り返ると、就学相談も就学時健診も受けなくてよかったと感じています。特に就学時健診は、健康状態を把握する健康診断より、「これは何ですか?」「りんごです。」など、知的障害をあぶり出す場だったからです。就学相談という制度もまた、判定を納得させるための場になっていて、相談とはほど遠い流れで進みました。現在は障害者差別解消法が施行されているのですから、「保護者と児童が望む学校に入学して生活するためには、どのような支援が必要か?」を相談する機会にしてほしいと願っています。
教育委員会からの説明
息子の就学当時、教育委員会の就学相談員(退任校長)から、「私達はお子さん一人一人に相応しい教育の場を用意しています。知的障害があるショーゴ君には少人数学級で指導する支援学級が最適です。」と説明されました。「そんなに素晴らしい学級があるのなら行かせたい。」と意気込み、早速親子で体験を予約しました。ショーゴは家庭の中に太陽のように笑顔を振りまいてくれる存在でしたから、この頃はウキウキと自分達が学校を選ぶつもりで楽しみにしていたのです。
就学相談の判定で指定された支援学級は隣接学区域の小学校にあり、当時は2~6年生まで幅広い年齢のお子さん6~7人が在籍していました。子どもたちの個性は実に様々で、知的障害があるのかな?くらい軽度のお子さんから重度知的障害があるお子さんまで千差万別でした。「年齢幅があり、個性にも際立つ違いがある子どもの小集団にいれることが息子の成長に最善な選択なのか?」疑問がわきました。ショーゴが入るであろう、ゆっくりグループの授業は待ち時間が多くて長いことも気にかかりました。歌や手遊びなど、楽しいはずの英語の授業は、外国人の先生に笑顔がなくて暗い印象でした。
以前、通級指導学級指導経験のある先生に、「小集団の構成メンバーを決める時、私達は子どもの組み合わせをどうするか、とても神経を使います。」と、言われた言葉が思い出され、「座っていなさいといわれたら、延々座ってぼんやりしている息子には、この支援学級の環境は刺激が少ないかもしれないな。」と、考えはじめました。
ショーゴは日々兄の後を追い、保育園のお友達に囲まれ、ゆっくりですが確実に成長していました。特技は「観察して人の真似をして挑戦すること。」人が大好きなタイプです。指定された支援学級が息子の成長に最適とは思えないなら、より息子に合う小集団に所属させたいと考えて別の支援学級を希望してみました。しかし教育委員会からの返事は「否」。理由は「指定した支援学級以外への入学は許可出来まません。そんなことを許可したら子どもの人数が偏り、支援学級間のバランスが崩れて困ります。」という、子どもに関係のない理由でした。
通常級は対象外、支援学級は指定校のみ、支援学校はバス通学で1時間かかる遠いところにあります。保護者には、息子を育む社会生活の場を選ぶ余地がないことに愕然としました。人間の尊厳にかかわる選択の自由を奪われ、社会から仲間外れにされ、孤立したような気持ちになりました。大げさかもしれませんが、楽しいはずの就学活動は一転して重苦しいものになりました。
通常級を躊躇した理由
就学相談で支援学級判定がでてから、思い悩む日々が続きました。支援学級が選びにくいとはいえ、通常級の大変さは長男の小学校生活でみていましたから、すぐには通常級には決められませんでした。
通常級の先生方は授業以外の事務作業が多忙で、子どもと向き合う時間が減っています。授業は文科省の就学指導要領に沿って進めようとするせいか、淡々と単元が進んでいきます。当時の授業は講義中心で、ゆっくり進む算数コースでさえ、視覚に訴えたり、アクティビティを中心に授業をしたりする先生はあまりいらっしゃいませんでした。習熟度がとても早い子も、とてもゆっくりな子も教室に居場所を失うことがありました。ひとたびクラスが荒れてしまえば収拾がつかなくなる例もみてきました。友人関係でのトラブルの末の転校や様々な原因での不登校、先生の休職もそう珍しくはありません。全体的にコミュニケーション能力が低く、トラブル解決が下手になっている気がします。大人も子どもも忙しくて余裕がないからでしょうか?学校は縦社会で校長先生以下の統治が徹底され、学校の管理が行き届いている良さがある反面、先生が個々の意見を言ったり、話し合ったりする機会が減っているのも息苦しさにつながっている気がしていました。ですから通常級へ入学という結論はすぐには出せませんでした。
でも、やっぱり地域の通常級に行かせよう!
苦しい学校選びの中で、私は小学校で子ども達が享受している事は何かを考えるようになりました。逡巡してたどり着いた私が親として小学校に求めることは3つ。「子ども同士の育ちあい。地域との繋がり。学習。」です。人が生きる力をつけるには、このどれもが大切ではないでしょうか?
子ども同士の関わり、育ちあう力のすごさはそれまでも保育園の生活の中で見てきました。ショーゴは大人の指示には従わなくても、周りの子ども達がやっていることはよく観察していて、タイムラグはありながらも挑戦します。みんなと同じようなことをやってみたいのです。それに、一緒にいる子どもたちにとってはショーゴがいるのが日常で、普通に接して普通に配慮してくれます。動きがゆっくりでも、すぐに出来なくても、それはあまり気にならないようです。本人は本人なりに育ち、やがて社会を担う多くの子どもたちに他者理解自己理解の種をまける通常級はとても魅力的にみえてきました。
自力で生きる力が弱い子ども達にとって、地域との関わり、人との繋がりはことのほか重要です。国は「今後は障害者のための施設は作らない。これからは地域で生きていくように。」という方針だそうです。でも、地域にグループホームを建設しようとすると、必ずと言っていいほど反対する人が出てくると聞きます。「この地域をゴミ捨て場にするな。」とまでいわれることも少なからずあるそうです。大切に育ててきた子どもをゴミ扱いされるとは・・・胸が痛みます。「それなら、なおさら地域の人に顔と名前を覚えてもらうことは大切なのかな?」地域から離れている支援学級や支援学校にいったら、地域の人に名前と顔を覚えてもらえません。今まで積み重ねてきた子ども同士の関わりも断たれるでしょう。地域の学校が避難所になった時、息子が行ったら怪訝な顔をされるかもしれないと、不安もよぎりました。
「思い切って地域の通常級に行って、みんなに顔と名前を覚えてもらうだけでも意味があるのかもしれない。不審者ではなく、ダウン症がある男の子でもなく、“タテノショーゴ”個人として地域の人に知ってほしい。堂々と当たり前に生きていってほしい。」という思いが強くなっていきました。
では、学習についてはどうでしょうか?当時の通常級では知的障害がある児童の入学は想定されておらず、支援は何も期待できませんでした。となると、学習の授業にはついていけないでしょう。支援学級や支援学校では学習は子どものレベルに合わせて計画をたてて指導してくれると聞くと惹かれますが、子ども同士の育ち合いや、地域との繋がりは希薄になるでしょう。
どんなに思い悩んで考えたところで、我が子に100パーセントピッタリな学校はないのだと思うに至り、小学校生活を始める場所は地域の通常級にしようと考え始めました。低学年の間だけでも子ども同士の育ちあいや地域との繋がりを経験させたい。まずは皆さんにショーゴという存在を知ってもらおう。学習は家でサポートすればいいと覚悟しました。もう一つ言えば、転籍の矢印は事実上、通常級→支援級→支援学校の一方通行。矢印の最初から始め、努力してだめなら転籍させればいいと腹をくくり、教育委員会に意向を伝えたのは2011年2月。就学通知が届いたのは、入学式の一カ月と少し前のことでした。

助っ人は6年生!
制度上、何の支援も期待できない中で小学校生活をスタートさせることは不安でしたが、面談を重ねた後に校長先生が、「ショーゴ君は学校全体でみていきますから安心してください。」と言ってくださいました。思いがけない言葉に肩の力が抜けて、ふわっと心が温まったのを覚えています。入学に至るまでは別学至上主義の教育委員会と軋轢を生じましたが、小学校の校長先生が保護者と同じ方向を向いて子どもを育てる気持ちになってくださったら安心です。こうして、2011年4月、ショーゴの通常級での小学校生活がスタートしました。
一年生の時の担任の先生は、ショーゴをクラスの一員として認め、日々工夫してくださいました。それでも本人が学校になれるまでの半年間は、学校、家庭双方が毎日大変でした。算数のブロック操作ができないといっては癇癪をおこして算数ブロックを黒板に投げつけたり、怒って自分の眼鏡を投げ捨てたところを運悪く踏まれて更に泣いたり、「遊ぼう!」が言えなくて、その代わりにみんなを叩いて回ったり、授業に飽きると一人学校探検に出掛けたり・・・。毎日のように、何かしらやらかすので、毎日のように担任から家庭に連絡がありました。
特に中休みや昼休みは、生徒が教室に入って静かになると、「さあ!ゆっくり遊ぶぞ。」とばかりに遊具で遊び始めるので困りました。学童擁護の方が声をかけてくれましたが、大人の言葉は意に介さず遊び続けるので、学校と家庭双方で試行錯誤する日が続きました。そんなある日、昼休み終了間際に学校に様子を見にいくと、見慣れない光景が目に飛び込んできました。6年生4人がニコニコしながらショーゴの手足を一人一本ずつもって昇降口に運んできて上履きに履き替えさせ、なんと教室まで送り届けてくれたのです。ショーゴのことを知っている子どもたちが行動力とチームワークで学校のルールをショーゴに教えてくれたのです。この場面は忘れられない印象的な思い出の一つになっています。
日課は子どもたちとの問答
1年生の時は毎朝、私は息子を教室まで送っていきました。登下校の安全について学校から言われたのもありますが、「8時半に担任の先生が教室にいらっしゃるまでの朝の準備は家庭でする。」と、自分で決めてはじめました。
予期しなかったのは、毎朝、昇降口に着くと、「待っていました!」とばかりに、クラスの子ども達が口々に話しかけてくることです。みんな、ショーゴママに一言言いたくて待ちきれない様子です。四方八方から話しかけられるので、さばききれません。「すいません。皆さんのお話は聞きますから、一列に並んでいただけますか?」と、子どもたちにお願いし、時間の許す限り話を聞きました。ある子からは「ねえ ショーゴくんは何でつくしんぼさん(支援級仮称)に行かないの?」「みんなと一緒にいたいからだよ。」「昨日ね、ショーゴ君がたたいてきたけど、やり返すのはよくないから我慢したの。」どう答えたらいいんだろう?私の度量が試されます。「う〜ん、そうかあ・・・。ごめんね。でも、我慢しすぎるのもよくないから、足くらい踏んづけてもいいと思うよ。叩いて成功したら、お友達を叩いても良いって思っちゃうからさ。」と言うと、「うん。でも、やり返すのは良くないから我慢する。」と、言われ撃沈。なるほど、子どもと侮るなかれ、大人以上に大人です。子どもからの素直な言葉になんと返事をするのか、私が苦闘する日々でもありました。
夕暮れ時の難行苦行
夕方は、先生が連絡帳に書いてくださるショーゴのやらかしや、できなかったことの報告を読んでは落ち込み、もしかしたら学校からかかってくるかもしれない電話に怯えて過ごしました。あまりにできなかったこと、困ったことばかり列挙されるので、「できなかったことをばかり書かれると、私は息子に毎日怒ってしまいます。できたことも少し書いていただけないでしょうか?」と、勇気を出して先生にお願いしてみました。すると、先生はすぐに対応してくださり、連絡帳の一行目には成長している姿、良いところを記してくださるようになりました。 もう一つ先生にお願いしたことがあります。「授業中に先生につけていただく◎○△カードを作りますので持たせてもいいですか?」ということです。◎○△マークをつけるだけならよいですよ。ということで承諾していただき、“がんばるマンカード”と名付けたカードを持たせました。「このカードに◎○△をつけるために、先生は子どもに目配りをするから、良いことに気づいてくれるよ。」という先輩のアドバイス通り、先生はさらに成長にも目を向けてくださるようになりました。このカードは、形をかえながら高校でも活用しています。
半年間は大人も子どもも正念場
ショーゴの行動で先生方がお困りになったのは“学校一人探検”です。授業に飽きるのかお試し行動なのか、時々教室を抜け出して一人で校内探検に出かけてしまうので、1年生支援員がいても人手が足りない。と、先生からお困り相談の連絡をいただくことがありました。
相談されても保護者ではどうにもならず、梅雨があける頃には私が疲れ果てて、「障害があるからこそ普通級がいい」の著者、片桐健司先生に電話で泣きつきました。先生は話を聴いてくださり、「お母さん、大変だよねえ。でもね、みんな同じような悩みを僕のところに相談してくるけど、せいぜい半年だよ。秋になったら、落ち着くから大丈夫。みててごらん。今はね、本人も、先生も、保護者もみんな正念場。教室という場所でどう向き合うか、真剣勝負なんだよ。」とおっしゃいました。にわかに信じられませんでしたが、「そうかあ・・・、正念場。半年・・・。」力なくも希望をつないで電話を切りました。
そして、夏休みがあけてしばらくした頃、私が学校に様子を見にいくと、階段に座って授業中の教室を眺めている息子に遭遇しました。その日も一人校内探検にいき、支援員さんと一緒に教室前に辿り着いた時だったようです。支援員さんが「どうする?お母さんと一緒に帰る?教室に入る?」とショーゴにたずねると、彼はおもむろに立ち上がり、私の顔を見ることもなく教室へ入っていきました。無言で教室に歩を進める小さな背中が目に焼き付いています。自分の意思で教室という社会の中へ入ることを選んだ瞬間だったように思います。それからは、一人校内探検することは無くなりました。
肩たたき面談
ショーゴを学校の生徒の一人として扱う大人の姿勢は、クラスの子どもたちにも反映されていました。いじめられるどころか、皆が見守り、関わり、時には諭し、叩くなどの暴挙も許容してくれました。保護者の皆さんも寛容で、多くの方が名前を覚えて好意的に目にかけてくださいました。ショーゴ自身が台風の目だったからなのか、心配したような通常級の混沌に巻き込まれることはなく、本人は毎日楽しく生活していました。 しかし、1年生の学年末になると、継続相談という面談の機会が準備されていました。校長、副校長、担任、教育委員会担当者(退任校長)と両親が現状を共有して次年度どうするか相談する会という名目です。しかし、実際は支援学級や支援学校への転籍を勧められるので、仲間内では“継続相談ならぬ肩たたき面談だよね”と揶揄していました。学校生活はそれなりに軌道にのっていると思っていましたが、教育委員会の担当者(退任校長)からは支援級への転籍を示唆されました。「2年生になると、さらにお勉強が難しくなるのでついていけないと思います。早期に支援学級に転籍するのがショーゴ君のためです。」「そうですよねえ。でも、お友達の話を聞いて言葉のシャワーを浴びるだけでも十分ですし、できることも増えています。自立させるためには皆と生活する経験が大切だと考えます。」などと応戦。通常級にいて、どのように成長しているかを伝え、課題も含めて現状を共有し、転籍をすすめる退任校長には、「先生の指導方法を皆さんに教えていただけませんか?」とお願いし、晴れて2年生も通常級で過ごすことになりました。
「お母さんは帰って!!! 甘えるから!!!」
2年生の担任は男の先生でした。ショーゴをクラスの一員として扱うというスタンスは受け継がれ、ショーゴは教室に居場所を見出し、彼なりに学習にも取り組むようになっていきました。皆と一緒に九九を暗唱する練習もはじめました。ただし、苦手なことはサボります。掃除や給食当番になると、ふらふらしてやり過ごそうとするのです。
ある日、給食時に教室を訪ねると、ドアの桟越しに、スーパーマンのように廊下側に両手を伸ばしてうつ伏せになっている息子の姿が目に飛び込んできました。教室の中では、誰かが必死にショーゴの足を持って引きずり込もうとしています。その子は、私を見つけるやいなや、「お母さんは帰って!!!甘えるから!!!」と叫び、次の瞬間、息子は教室の中に引きずり込まれ、連係プレーよろしくドアはピシャリと閉められました。呆気にとられて教室のドアの小窓から中をのぞくと、諦めたように立ちん坊で給食衣のボタンを留めてもらっている息子の姿が見えます。着替えが終わると、ショーゴは女の子と一緒に重い牛乳箱の片方を持ち、牛乳を配り始めました。女の子はショーゴの給食当番のパートナーで、彼女は自分で考えたやり方でショーゴに任務を遂行させてくれたようです。「こういうことなんだよなあーーー。」と、感心するやら嬉しいやら、目頭も胸も熱くなりました。
高学年になったら・・・転籍?
3、4年生の担任は、ユーモアに溢れ、どの子にも寛容なタイプのベテラン男性教諭K先生でした。正論だけで子どもを動かそうとせず、ギャングエイジに突入したクラスの子どもたちの心に刺さる言葉選びをされる先生のおかげで、クラスは良い雰囲気になっていました。遠足の説明の後に、ショーゴが手を挙げて、滑舌悪く素っ頓狂な質問をしたのですが、「はい、そうですね。それはこういうことだと思いますが、いいですか?」と、ストライクゾーンを大きく広げて、何事もなかったように受け答えをしてくださいました。「この先生すごいなあ。」廊下で聞き耳を立てながら感心しました。この先生が担任してくださった3、4年生の2年間は、私はとても安心して心穏やかに過ごすことができました。
それでも、学年が進むにつれ漠然と心配になり、“転籍”が頭をよぎりました。あるとき面談で、「5年生になったら更に学習は難易度を増すので、もう通常級での在籍は無理かなと思ったりするんですよね。」と弱音を吐きました。するとK先生は、「出来ることを一つでも増やしていきましょう。算数も割る数が二桁になれば商を立てるのは難しいけど、一桁の計算は出来ますもんね。ひっ算が定着するよう工夫しますよ。勉強も大切ですが、社会に出るということは人との関わりが大切ですよね。経験を積ませていきましょう。」と、励ましてくださいました。入学当初は理解されなかった私たちの主張を、現場の先生が理解して逆に言ってくださっていること、通常級に在籍することが彼の成長にプラスになっていると先生が認めてくださっていること、支援の方法を提案してくださっていることに感動を覚えた瞬間でした。 本人はといえば、相変わらず自分なりに学校に楽しみを見出し元気に通っていました。勉強もすべてわからないわけではありません。授業中も理解できることは何かしらあります。でも、一番好きなのは“怒られているクラスメイトの姿を観察すること。”「今日は誰が何をやって先生に怒られたんだ!」と、ケラケラ笑いながら楽しそうに報告してくれました。が、もちろん、自分が怒られたことは絶対に話しませんでした。

付き添い、支援員は?
登校
1年生の時は、朝教室まで一緒に行き、教科書を出して机にしまい、ランドセルや上着をロッカーに片付けて椅子に座って先生を待つ準備が完了するところまで手伝って、先生がいらしたら廊下に出て、少し様子をみてから帰宅していました。担任から「後ろに椅子を用意しますから、中へどうぞ。」と、誘われましたが、それは固辞して廊下へ退散。少し見守って帰るのが日課でした。2年生になると、朝のお支度は本人がすべてするようになり、その姿を廊下で見届けて帰宅しました。3年生になっても一緒に登校して校門まで行っていましたが、しばらくして本人から「もう大丈夫だから来なくていいよ。」と言われたのをきっかけに朝の付き添いをやめました。“お母さんと一緒に登校するのは恥ずかしいこと。”という気持ちも芽生えてきていたのだと思います。登校時の付き添いで、私が学んだことは、「何もかも出来ないのではなく、薄紙を積むように確実に成長し、自分の意見が言えるようになるのだ」ということです。
授業中
入学当初は通常級に知的障害児が在籍することは想定されておらず、支援体制は整っていませんでした。支援員も配置されなければ、通級指導学級も措置されませんでした。一年生前期は一年生全体につく支援員が臨機応変に対応し、後期からは、学校が支援員配置要望を出してくれていたおかげで、息子にも週4時間の支援員が配置されました。
ところが、二年生になって担任から「お宅のお子さんは知的障害者枠ですから、本来支援員配置適応外です。もう、支援員はつけられないかもしれません。」という説明を受けました。“知的障害者枠”という言葉に怒りと哀しみを感じ、混乱しながら、家に帰ってすぐに管轄窓口に電話をしました。「今日、担任から知的障害枠のお子さんだから支援員はつけられないと言われましたが、納得できません。それって、障害種差別ではないですか?知的障害も広義の発達障害だと学びました。発達障害があるお子さんに準じて対応していただけないのですか?」泣き怒りながら話す私の剣幕に圧倒されたのか、「差別はしていません!検討しますので、お待ちください。」と担当者は消え入りそうな声で言い、電話はきられました。
ショーゴのお母さんになっていなかったら、世の中がこんな風になっているって知らなかったなあ。差別について考えることも、憤ることもなかっただろう。知的障害がある生徒に支援員を配置してほしいという私の意見は、行政にとっては言いがかりめいた主張だったかもしれません。でも、伝えることは大切で、それから2週間後、「二年生の9月からは週2時間増えて支援員が週6時間つくことになりました。」と、担任から連絡がありました。一歩前進です。それでも1日に1時間多くて2時間の支援員配置では学校としては足りないという判断だったようで、「手が足りないので危険を伴う図工には付き添ってください。」と、言われました。保護者が付き添うことには抵抗がありましたので、私からは「朝、送り届けて準備して着座させるまでは保護者の責任でやりますが、子どもの自立を促すために付き添いはしたくありません。学校でお願いしたいです。」こんなやりとりを数回経て、制度が整うまでの過渡期と割り切って、図工の時間の親の付き添いを開始しました。 週に2時間付き添ってみてよかったことは、私が教職員の皆さんと顔見知りになり、学校の様子を把握できたことです。一方、子どもにとっては、お友達と関わる機会が妨げられ、些細な失敗や振る舞いを家でも蒸し返されるので迷惑だったと思います。支援員は障害がある子どものための支援をするだけでなく、支援者である先生のサポートとしても大切な存在です。クラス経営が円滑に運べばクラスメイトのためにもなります。行政には教育現場のチームの一員として適切に支援員を配置していただきたいと思います。
選択する力
「中学校の方が自由度が増して楽しいみたいだよ。」中学校も通常級に進学した方から時々聞こえてくる声を聞いても、私には中学校の通常級に行くショーゴの姿は想像できませんでした。勝手なもので、子ども同士の育ちあいも、地域とのつながりも小学校生活で十分。本音をいえば、毎日の学習サポートに疲れ、あとは学校で面倒見てくれる支援級でお願いしたいという気持ちになっていたのです。でも、「選択する権利」は、私の中で重要なテーマですから、中学校進学に当たっても通常級と支援学級の両方を見学し、息子の意見を聞くことにしました。
支援級の授業を体験した日、「どうだった?お勉強もわかりやすかったんじゃない?」と、半ば誘導するように話しかける私に対してショーゴは「女子がいない!」私は沈黙。「???」ショーゴは「女子がいなかった!!」と、ケラケラ笑いながら繰り返します。小学校生活で、何かにつけて気を配ってくれたのは確かに女子でした。女子がいなければ自分の生活が成り立たないと感じているのか、男子の直感なのか、「女子が少ないから支援級にはいきません。」という意思表示のようです。私はむきになって食い下がりました。「でもさ、大人がたくさんいたじゃない。6人のお友達に一人の先生だよ。手厚くていいんじゃないの?」と、たたみかけると、「え〜!?あんなに見張られていたらボーっとできないじゃん♪」「・・・。見張られてって、ボーっと、って。あなた、授業中ボーっとしてるの?」「そうだよお〜♪エヘヘ。」それが何か?的な息子の反応にあたふたしながら、「でもさ、みんなに会いたければ渡り廊下を通って会いに行けばいいじゃない!!!」とちょっとキレ気味に詰め寄る私に、息子は心底あきれた顔で大きなため息を一つ。「ふうっっーーー。」「お母さんって、ほんとにわかってないんだなあ。そんなことできるわけないじゃん。」確かにショーゴの言う通り、一人で通常級の集団に遊びに行くのは勇気がいります。私の方がショーゴに論破されてしまいました。

中学校時代
自分で決めた彼の意思は固く揺るがず、2017年4月地域の中学校の通常級へ入学しました。前年2016年に障害者差別解消法が施行されていたので、中学校の受け入れはスムーズだったと記憶しています。クラブ活動への参加は苦笑いしながらやんわり断られましたが、授業は皆と一緒に受けました。支援員配置時間数については保護者に連絡はなく、学校内で適宜調整してくださっていたようです。
本人に伝えた学校での目標は着座で話を聞き寝ないで板書をとること。定期テストの得点は難しいけれど、たまには小テストでは満点をとることもありましたので、小テストを大切にしました。家庭学習は本人の力量を伸ばすことに主眼をおき、漢字検定10級から順番に挑戦、四則計算の定着、作文、お金や時間管理などを目標にしました。
相変わらず連絡帳で担任の先生から連絡はありましたが、日々工夫してくださいました。体育祭や文化祭他学校行事も、どうしたらショーゴが参加できるか皆でアイデアを出してくれました。ショーゴの頑固さや予想しない反応に面食らいながらも、先生やクラスメイトは柔軟に対応してくださいました。日々の生活では面倒見の良い女子たちが、同じ班になってサポートしてくれたおかげで、校外学習や修学旅行にも普通に参加しました。 印象的なのは学校の校風です。統合されて数年の比較的新しい公立中学校でした。初代校長先生がつくってくださった明るくおおらかな雰囲気は2代目校長先生も受け継がれ、子どもたち一人一人を大切にするあたたかい雰囲気がありました。安心できる環境で、先生方もリラックスして仕事をしているようにみえまし、子どもたちも寛容でした。その雰囲気の中で中学校生活を過ごせたことはしあわせでしたし、何より、親子とも気後れせずに社会の中で生きる大きな自信になりました。

進路選択
中学校3年間はあっという間です。2年生になると高校進学を考えて学校訪問をします。ショーゴは支援学校、定時制、全日制高校を見学しました。支援学校の文化祭では、「どう?こういう舞台に立ってみたい?」に、「ちょっと違うと思うんですよねえ・・・。」定時制高校見学では「お母さん、ここは何時まで勉強ですか?9時まで勉強するのは僕には無理です。さあ、ラーメンでも食べて帰りましょう!」全日制高校見学では「うわっ、礼儀正しいですねえ!?」すべての学校見学が終わる頃には、「僕はみんなと一緒に昼間の学校に行きます。昼間の学校を探してください。お願いします。」と、宣言。ショーゴは積み重ねてきた経験の中で自分の価値観にあった学校は全日制高校だと見極め、進学先を自分で選択したのです。
現在高校2年生。おかげさまで毎日一番最初に登校して楽しく生活しています。すでに次の進路選択に向けて模索が始まっており、地域の障害者就労支援センターでお仕事体験積み重ねつつ、福祉型カレッジ、都立職能開発センターなどを候補にあげて考えています。今の段階では決まっているのは、きっぱりと「大学には行きません!」潔い回答です。きっと、これからも自分で次の居場所を決めるのだろうと楽しみにしています。

失敗する権利
通常級に行かせてよかったことは何ですか? と聞かれることがあります。
あえて一つあげるなら、「小さな失敗をたくさんしながら社会性を身につけるチャンスがたくさんあること」です。皆と共に生活する場所には、目には見えないルールや不文律がたくさんあります。本人は自分が失敗したとか、ルールや慣習を破っているとは、わかっていないことがありますので、その都度膝をつき合わせて、本人はどういう気持ちなのかを聞き、周りはどう思ったのか、何がどうだめだったのか、代わりにどう言えばいいのか、どうしたらいいのかなどを提案して、一緒に考えました。日々、トライアンドエラーを繰り返しながら社会性を身につけていく姿を目の当たりにするにつけ、失敗を成長につなげるよい経験に昇華させるのか、失敗をなじって悪い経験に終わらせるのかは、周囲の捉え方と寛容さ、共感と励ましの力量次第なのだと考えるようになりました。そして、それは障害がある無しに関係なく、人が育つ過程で常にとても大切なことなのではないでしょうか。
特別支援教育より当たり前支援教育を
ショーゴの就学にあたり、教育委員会の方、校長先生をはじめとする専門家の皆さんからは通常級に在籍する弊害を聞かされていました。「通常級にいったらいじめられますよ。」「お子さんが在籍することで保護者の方からクレームがあるかもしれません。」「お子さんは空間認知が悪いので字は書けるようにならないでしょう。」「学校は学習の場です。想像してみてください。通常級の学習はお母さんが東大で講義を受けるようなものです。」「力量に合わせた指導がお子さんを伸ばします。通常級にいくのは時間の無駄です。」「通常級で過ごしたお子さんが支援学級や支援学校に転籍すると、勝手な行動が目立ちます。なるべく早い時期に適切な環境においたほうがお子さんのためです。」「通常級では、周りの子と比べて自分はできないので自己肯定感が下がります。」「支援のないところにいかせるのは虐待です。サファリに子羊一匹放り込むようなものです。」「二次障害をおこしたら大変ですよ。」などなどなど。
ショーゴはいろいろやらかすし、定期テストのような膨大な処理能力を求められるテストでの得点は難しいです。でも、日々成長しているし、学習内容も無駄にはなっていません。専門家は無理だと言ったけど、字は書けるようになりました。思ったことはペラペラとよく話します。年齢なりの自信の無さは垣間見えますが、自己肯定感が高い子どもに育っています。北村小夜先生の言葉、「何事もできたっていいけど、できなくたっていい。能力主義はだめ。」「今いるところをよいところに。」その言葉通りに、変わるべきは子どもを評価する大人の価値観であり、通常級の在り方なのではないでしょうか。
息子を通常級に入学させ過ごしてきた十数年を振り返り、可能性を潰さないでよかった。これでよかったんだという思いがあるだけで、後悔はありません。
これから就学する方へ
迷いながらやってきて思うのは、「地域の子どもを育てる地域の学校には、すべての子どもを大切にする安心安全でユーモアに包まれた楽しい生活の場であってほしい。先生も楽しく過ごせる場所であってほしい。」ということです。
専門家は「学校は学習の場」です。といいきりますが、果たしてそうでしょうか?学校は塾ではありません。クラスという小さな社会で、その在り方を大人も一緒に模索しながら各々が経験を積んで人間が育つ場所です。学習は挑戦してみても良いことの一つに過ぎないのです。
子ども時代は誰もが様々なことに挑戦して成功体験を積み重ね、できない時は周りが寄り添って共感し励ませばいいし、失敗からは教訓を得て学びを深め、うまくいく方法を共に探り、次につながるように寛容に見守ればいい。時に厳しく叱咤するも、個人の在り様を尊重し、選択の積み重ねからそれぞれの道を歩んでゆけるよう必要に応じて手をかせばいい。
障害者差別解消法施行後も教育現場は残念ながら旧態依然としています。大きく発想の転換をする時期にきているのではないでしょうか?「学籍を一元化し、地域の子どもは地域の学校に籍を置いてそれぞれが当たり前に配慮を受けて生活をする。主体的に希望する人には副籍で支援をうけられるように選択肢をつくる。」という制度への転換を願っています。
これから就学を迎える方には、当たり前に堂々と生きていく一歩として、地域の通常級を選択肢に入れてほしいと思います。ぜひ、生きる居場所をよい場所にしていってください。