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「共に学び、共に育ち、共に生きる」が支える「真のインクルーシブ教育」を目指して(佐々木サミュエルズ純子)

 長男ジェイミーは現在中学校1年生。地域の中学校の支援学級に籍を置きながら、通常学級で過ごすことを学校にお願いし、出来る限り通常学級で学ぶ日々を過ごしている。

幼少期のこと

 ジェイミーはダウン症という個性をもって生まれてきた。心室中隔欠損や鎖肛、ヒルシュスプルング病など、私がジェイミーを生むまでの人生で聞いたことがなかった様々な合併症を持ち合わせていた。手術の合間に数カ月自宅で過ごせていた時などにダウン症の親の会の集まりに呼んでもらい、他のお子さんが赤ちゃん体操や「療育」というものに通っているという話を聞いたりすると、そういうところへ通えない息子は大丈夫だろうかと不安になった。首もなかなか据わらない、寝返りもうたない息子のことが心配で心配でたまらなくなり、そういうところへ電話して断られたり、主治医に相談して「それよりも命を助けることが先でしょう」とたしなめられたりした。小さな命の火が消えそうになった事を何度か経験し、心が砕けそうな気持になったこともあるがジェイミーはそのたびに生きることを諦めずにかえってきてくれた。「生きてさえいてくれれば。」という極限に置かれた時の気持ちの大きさからか、自然と他のダウン症のお子さんの発達と我が子の発達の遅さを比べて落ち込んだり、焦る気持ちになったりはしなくなっていった。この子に「健康で幸せに過ごして欲しい」、というのが大きな願いだったし、それは今でも基本のところでは変わっていない。目の前の曇りや「出来て欲しい煩悩」を息子に払ってもらったように思っている。ジェイミーは、立てるようになるのも歩けるようになるのも他のお子さんに比べたら特段に遅かったが、とびきりの笑顔をコミュニケーションツール(?)として駆使しながら、地域の子どもたちと一緒に保育園・幼稚園に通った。

小学校に行きたい

 小学校の就学相談の時に、入学を拒まれていると感じる対応を受けたことで、一時は地域の学校への入学を諦め、年長の秋に行政に提出した学校の進路希望調査票に「支援学校への入学を希望します」に丸をつけて提出した。身体の発達が他の子どもたちよりも極端に遅く、言葉もほとんど持たず、周りのお友だちに手が出たりもしてしまう息子は、親のひいき目で見ても、知的な発達が大きく遅れていた。周りのお友だちの迷惑になっては申し訳ないという気持ちもあったし、ジェイミーと関わることになる先生方にも迷惑と思われては…という気持ちや、妊娠する半年ほど前まで永住者として生活の基盤を置いていた英国では考えられないようなことも、日本ではあると聞いて、尻込みする気持ちもあったと思う。実際、保育園を探していた時には対応に出た園の管理職と思われる方に「この子は無理」と指を指され絶句した。親の会のメンバーの先輩保護者の方たちから、障害のある子どもたちの就学については学校へ相談に行くと良いよ、とか区役所で相談したら、と教えていただいたが、明文化されたパンフレットや資料などはどこにも見当たらないようで、どのようにしたら息子が地域の学校へ安心して通えるようになるのかといった情報にはたどり着けなかった。極端な言い方で誤解を招いてしまう表現かもしれないけれど、親たちが手探りで就学先を探して決定し、支援に関しては学校の温情にすがるしかない、という風に感じた。

 ただ、希望調査票を記入する前の夏休みに訪れた英国で、ロンドンの小学校で教頭職についていた友人から「インクルーシブ教育」という言葉を聞いていた。息子の次年度の入学について既に悩んでいた私が、特別支援教育に関するガイドラインはあるの? と聞いた際に、「そういうものはないのよ。だってインクルーシブ教育なのだから。みんなが配慮されて当然でしょう」というのだ。彼女の学校には「インクルージョン・ポリシー」(包括的な教育のポリシー、というのが適切だろうか)があり、学校は地域に向けて開かれた場であり、いかなる子どももウエルカムであると明言している。特別な支援を必要とする障害のある子どもも(そして無い子も)そのポリシーにのっとって地域の学校へ入学し、教育の機会が保障されているのだという。私が、子どもを地域の学校へ入学させたいのだけど、必要な支援をしてもらえるかの確約はしてもらえないみたいだということや、彼女がみせてくれた「インクルージョン・ポリジー」みたいなものが学校にも自治体にもないみたいで保護者たちには示されていないことを嘆いていると「おかしいわね。法律で決まっていないの?」ととても不思議そうにしていたことが印象的だった。

 今は息子が、地域の学校で地域のお友だちと一緒に育ち、地域で生きて行くことが彼の「健康で幸せな人生」にきっとつながるだろうと覚悟が据わっているが、当時の私は、「当たり前に学校へ進ませてあげたいし世の中がそうであって欲しい。幼稚園で一緒に過ごしたお友だちと違うところへ行かせることは何かおかしい」という漠然とした気持ちで地域の学校へ行かせたいと考えていたため、地域の学校へ行かせる事に迷いが無かったと言えば嘘になると思う。でも、インクルーシブ教育がこれからのあるべき教育の姿だと聞かされたことで大きく背中を押された。

 そして、「息子が学校に行けないことより怖いことなんてないよ。」という夫の言葉に勇気づけられ、「ともに学び ともに育つ」環境づくりをお願いします、という署名運動を夫婦で開始した。まさか自分が署名運動をすることになるなんて考えたこともないし身がすくむような思いだったが、社会で弱い立場の人たちが「物わかりよく」していたらメインストリームから押しやられてしまう状態は良いわけがない、という気持ちが大きかった。署名のために大阪府や市の資料を色々と調べているうちに、大阪の教育の基本方針は「ともに学び ともに育ち ともに生きる」であるということを知った。そしてその方針にもまた大きく背中を押された。大阪市の教育委員会に障害のある子どもの就学に際して、特に就学相談の流れを明確化・公表してくださいと訴えかけた。作ってそれで終わり、ではなく持続可能なものにしてくださいとも。

 息子や障害をもつ多くのお子さんが保育園などから酷い言葉をかけられたり、仕打ちをうけたりしても周囲から同情されはしても、その状態は放っておかれたのと同じように、署名についても大した反響はないものだろうと思っていた。ところが署名はあっという間に数千を超える数が集まり、テレビや新聞などでも取り上げられることになった。学校は息子に地域の学校へ来てほしいと願っていると言ってくださり、大阪市は「大阪市の就学相談~障害のあるお子様のよりよい就学に向けて~」というパンフレットを作成し市内のサポートを必要とする保護者に周知することを約束してくださった。そして、両親たちの内心はおっかなびっくりではあったが、ジェイミーは地域の小学校へ入学した。

2歳下の弟のジョシュアと小学校へ登校するところ

息子は迷惑なのじゃないかな?小学校時代

 小学校の低学年の時から(今もそれは続いているが)ジェイミーの学校での一番の大きな目標は「みんなと一緒に過ごすこと」だ。小学校低学年の1、2年生の時は特に噛みつきが酷かった。小学校のお友だちは幼稚園の時からのお友だちも、新しく出来たお友だちもみんな優しく「ジェイミー、ジェイミー」と息子に関わってくれた。そして優しくてジェイミーによくかかわってくれる子に限って「ガブッ」とやられてしまうのだ。痛い思いをさせてしまって本当に申し訳ないし、みんなと一緒にいることがジェイミーの幸せになってもこれでは、みんなが幸せではないじゃないかと切なくて仕方なかったし、一緒にいるというのが本当に良いことなのかと不安がよぎったこともある。でも、2年生になって字を習った子どもたちはジェイミーに盛んにお手紙をくれるようになった。お手紙をくれるのは主に女の子たちで、可愛らしい便せんに可愛らしい文字で「ジェイミーのお父さんお母さんへ ジェイミーとあそんでいたらたのしいです。もっとあそびたいなぁと思っています。前かんだところをなでてくれたりしてくれます。ケガをしたときもそのところをなでてくれるのがうれしいです。 ジェイミーへ もっと一緒にあそぼうね。これからもともだちだよ。」「わたしはジェイミーくんがすきです。ジェイミーに、かまれていたかったってお父さんお母さんゆってください。でももういたくないです。ジェイミーがだいすき。」と、読んだこちらが泣けてしまうようなお手紙をいくつもいくつも持ち帰って来てくれた。

 担任のしほ先生の連絡帳アイデアにもとても助けられた。1年生の間は支援学級の担任の先生に支援ノートを通じて学校の様子を知らせていただいていたが、2年生になってからは、支援ノートに加えて、しほ先生の呼びかけでクラスメイトが連絡帳を書いてくれるようになった。そこにも、連絡事項と一緒に先生や子どもたちのコメントが書いてある。子どもたちのコメントは歯に衣着せぬ純粋さで、身がすくむような思いになったり笑ったり、学校の様子が分かったのと同時に、2年1組の一員だよと思わせてくださって、本当にありがたかった。支援の先生からの支援ノートももちろんとても有難かったのだが、何だか特別扱いしていただいていて申し訳ない気持ちと一緒に、みんなと同じように用意していた連絡帳が使われないことで息子が普通の学校生活を送っていないことを突き付けられているような寂しい気持ちもあったのだ。

 その頃、じっとしていられないし、大きな声が出てしまったりお友だちに噛みついてしまったりする息子が、多くの時間を支援学級で過ごしている様子なのはうすうす感じていた。しほ先生は「ジェイミーは2の1の子やから連れて行かんといてください」とベテランの支援担当の先生にお願いしてくださっていたものの支援ノートにはクールダウンしましたというコメントやナントカ法という療育で行われている訓練のようなものをしましたということが毎日書かれていて、普通教室で過ごしている様子があまり見受けられなかったが、支援学級で過ごすことは仕方のないことなのかな、と思っていた時のこと、クラスのお友だち何人かから「ジェイミーママ。ジェイミーいつもどこ行っちゃうの?」と聞かれてハッとした。子どもたちは一緒にいるべきクラスメイトが「いなくなる」と感じているのだ。大人は迷惑をかけたらいけないからと別の場所へ連れて行く発想でいるけど、子どもたちの視点ではどういう風に映っているのだろう?ジェイミーが度々いなくなることで、教室にいる子どもたちは心配以外に何を感じて何を学ぶのだろう、と考えるきっかけとなった。悩み抜いて考えた結果、3学期からは可能な限り普通学級で過ごさせてくださいとお願いをした。

 当時の事を思い出して本当に楽しかったですねぇ、とおっしゃるしほ先生に、一番ご苦労なさったのは何ですか?と質問をしたところ、噛みつきですねぇと、と答えてくださった。続けて、子どもたちは分かってくれるんです。いつも一緒にいるからジェイミーの事を分かっているんです。でも大人たちに分かってもらうのがとても難しかったです。と教えてくださった。

 3年生の時、ジェイミーの忘れ物を届けに学校へ行くと、ちょうど休み時間で、ジェイミーは教卓の下に何人かのお友だちと入り込んで何やら遊んでいた。一緒にいた子のうち一人は2年生の時にしょっちゅうジェイミーに噛まれていた子だった。今年はクラスが違っちゃったけど休み時間ジェイミーと遊びに来たの、と説明してくれた。あんなに何度も噛まれたし、そばに居たら手が出てくるのに、それでも一緒に居たい気持ちを持ってくれるなんてすごいことだと思った。その子も他の子も、ジェイミーが言葉を持たないことなど全く問題になっていないようだった。教卓の下でギュウギュウになって一緒に遊んでいる子どもたち。うまく言葉にできないけれど、子どもたちの世界は私たちには手の届かないとても尊いものが存在していると感じた。

 その時の担任の先生は、子どもたちのコメントと一緒に連絡帳にこう書いてくださった。

「ジェイミー君が言葉がだんだんに出るようになってきて、自分の子どもが言葉を獲得していくのを目にして、とてもうれしかったのを思い出します。その喜びをもう一度、いま教室で、ジェイミーくんとクラスの子たちといっしょに体験できるのは本当に幸せなことです」

「別に。普通。」

 小さいうちは赤ちゃんのような様子の息子を甲斐甲斐しくお世話してくれていたお友だちも、成長していくにつれて、次第に息子の事を疎ましがったり、迷惑に思ったりしないだろうかと、正直不安はあった。小学校4年生の時の参観日、クラスでは5つぐらいの班に分かれてグループワークをしていた。隣の班のメンバーにいたアヤトくんが気になるようで、先生が説明している間も、グループワークが始まってからも「アヤト―! アヤト―!」とアヤト君に手を振り、注意を引こうとしていた。私はクラスのみんなにもアヤト君にも申し訳ない気持ちになって他の保護者の方たちの目も気になり、小さくなりながら廊下でその様子をみていると、アヤト君がサッと立ち上がって、ジェイミーの机のところまで行った。そして、ジェイミーの机の脇にかけてあったハンドタオルを取ってジェイミーのよだれを拭いて、ジェイミーと一旦肩を組むと何事も無かったかのように自分の席に戻って行った。ジェイミーはそれで気が済んだのか落ち着いて、そばについてくださっていた支援学級の先生の言うことを聞いていた。ジェイミーの豹変にも驚いたが、4年生の男の子ってこんな風に優しく出来るんだと胸が熱くなった。今回、この原稿を執筆させていただくにあたり、その時のアヤト君の気持ちってどうだったのだろうと思い、現在中1のアヤト君にお母さん経由で聞いてもらった。お母さんはその時のことを覚えていてくださったが、肝心のアヤトくんは「覚えてない。ヨダレが出たから拭いただけ、普通に」というお返事。アヤト君のお母さん曰く、「当時本人に(ジェイミーママが)ありがとうを言っていたよと伝えたときもそうだったんですが、」という前置きで、「本人は何か特別なことをしたつもりはなかったと思います、自分の息子もだけど、きっとみんな小さいころから一緒の環境で育ってきた幼馴染だし特別な壁は存在してないように思います。やった側としては友達にサッと手を貸しただけ、ごく当たり前なことをしただけの感覚なんだと思います。日常的にみんなやってる行動をたまたま参観の日に息子がやったことを感謝してもらえただけでありがたいし、自分の子どもの悪いところばかりに目が行ってしまうので純子さんにいいところだよ、褒めてあげてって教えていただいて本当に嬉しかったです。ジェイミー君は助けてもらうこともあるけれど、逆に周りの事も助けてくれてるんですよ。進んだ道に自信もってください。」と、とても心強いメッセージを送っていただいた。そのお母さんとは普段からお茶を飲みに行ったりするような間柄ではないのだが、そんな風に思っていてくださったことを今回初めて知ってとても嬉しかった。お友だちにも、子どもたちの成長を温かく見守ってくださっている保護者の皆さんにも恵まれて、改めて幸せだと感じている。

 小学校4年生の時と5年生の時に同学年の男子たちに囲まれて「なぁなぁ、ジェイミーって僕らと一緒の中学校行かへんの?」と聞かれた事がある。少しドキッとして、それは、息子が支援学校へ行くっていうことなのかな? ジェイミーは中学校へ行けない子、と思うのかな? と思いながら「なんでそう思うの?」と聞いてみた。すると、どうやら彼らは我が家が入学後に隣の学区に引っ越したことを知って、隣の学区の中学に行ってしまうのかと思ったらしいという事が判った。「みんなと一緒の中学にも行けるって引っ越す時に役所や学校に確認してるから大丈夫だよ。みんなと同じ中学だよ。」というと、「あー良かった」と去って行った。大人は頭であれこれ考えて心配するけれど、一緒に育った子どもたちは一緒にいられなくなることを心配してくれるのだなぁと思った一瞬だった。

 小学校の卒業式ではみんなと一緒に入場し、きちんと自分の席についていた。コロナ禍のお式でソーシャルディスタンスを維持するため、長椅子に1人で座っていて、お友だちやいつもついていてくださる支援学級の先生がそばにいないから心配でフラフラしたり、思いもしない行動を起こすのではないかと内心ヒヤヒヤしたが、びっくりするぐらいみんなと一緒に行動出来ていた。壇上で名前を呼ばれて「ハイ!」と答え、自分の卒業にあたってのコメントを言うときは、支援学級の先生がそばに立って代理で言ってくださったが、みんなが一瞬「ジェイミーがしゃべった!」と思ったぐらい息が合っていた。そして先生のそばを離れ、1人でステージ中央に向かった。校長先生から卒業証書を受け取り、深々とお辞儀をして、くるっと振り向くと、会場にいる私たちの方に向けて、壇上から転がり落ちてくるのではないかと思うほど深々とお辞儀をして、堂々と自分の席に戻って行った。卒業生が立ち上がって唄を歌っている間に、席から立ち上がりフラーっと歩き始めた時は、ヒヤリとしたが、卒業する友達みんながちゃんと歌っているかチェックして回っているみたいに一巡すると、歌が終わるタイミングで自分の席に戻って来て着席した。お式が終わった時に、たくさんの保護者の皆さんにジェイミーの成長を喜ぶ言葉を口々にかけていただいた。自分の子どもの番が来る前にジェイミーの姿で号泣しちゃったわ、と言って私を号泣させてくれた人もいた(笑)。小学校の入学を迷っていた当時に、重度の知的障害のあるお子さんを地域で育ててこられた先輩保護者さんから、「悩む気持ちはとてもわかるけど、みんなと一緒に地域の学校へ行くのは当たり前のことだからね。私たちの子どもみたいな手のかかる子どもは、たくさん心配事もあるし色んなことがあるけどその分たくさんの感動体験が学校では待っているよ。」と言っていただいた事が昨日のことのように甦ってきた。本当にその通りだった。だから、入学を前に悩んでおられる保護者の方がどこかにおられたら、彼女が私にしてくれたように伝えてあげたい。「たくさんのご苦労と一緒に、たくさんの感動体験が学校では待っていますよ」と。

地域の子ども会行事でお正月のお餅つき

いよいよ、中学校へ

 中学校にあがる時は、もう迷わなかった。ジェイミーにとっては小学校時代を共に過ごした仲間と一緒にいることが当たり前のことになっている。相変わらず言葉は少ないし、急に怒り出して大きな声を上げたりすることもある。小学校と違って中学校の生活は厳しいと聞いているが、ジェイミーなら頑張れるだろうし、それを成長の機会にしてくれるのではないかと思う。学校の準備がなかなかできずにいる弟に向かって「ガッコいこ!」と自ら声掛けをすることはあっても、登校の時間に「いかない」とは言わない。

 同じ小学校の仲間が心配してくれていた通り、隣の学区に引っ越してしまっている我が家からの通学はみんなより少し遠くて、つい道草をしたくなるジェイミーが歩くとものすごく時間がかかることもある。いつもより調子が良くて早めに今春卒業した小学校の前を通ることが出来るときは、6年生になった後輩が肩を貸してくれて、肩を組んで一緒に歩いてくれる事もある。小学校の前を通る時は、お世話になった先生たちに挨拶していただいて、上手に返すことが出来ないこともあれば、笑ってご挨拶できる事もある。(でもどちらかと言えば照れているのか知らんぷりして通り過ぎることが多いが…)

 中学校が始まってまだ1学期が終わったばかりだが、学期末の懇談では、改めてジェイミーを普通教室でみんなと一緒に過ごさせてくださいと先生たちにお願いすることに加え、みんなと一緒にいることの意味を考えてくださいと次のようにお願いをした。

 障害のある子どもの親は親亡きあとの事を考えて色々と心配をし、生活の自立や職業訓練などを考えて、分けて特別支援教室で「その子どもに合った訓練」のようなものをと考えるご家庭もあるかもしれません。ジェイミーがみんなと離れたところで集中してそういった訓練を受けたら、もしかしたらひらがなの半分ぐらいは書けるようになるかもしれません。もしかしたらもっと書けるようになるかもしれません。でも全てのひらがなが書けるようになったらジェイミーの人生は幸せで豊かなものになるのでしょうか?義務教育で過ごす学校生活は9年、高校へ行っても12年で、その後には長い長い人生が待っています。その長い人生の中でジェイミーが幸せに暮らせる術を学校生活で学んで欲しいと考えています。大切な子ども時代、学生時代をみんなと過ごした経験を持っていることや、その経験から学んでゆくことの方が、ひらがなが書けるというスキルよりずっとずっとジェイミーの幸せな人生につながるのではないかと思うのです。そしてジェイミーのような子どもと分離されることなく一緒に育った子どもたちが大人になっていくことで、社会は変わっていくと思います。ジェイミーがひらがなが書けるようになろうと、カタカナが書けるようになろうと、今の社会の在り方が変わっていくのを見届けるまでは、私はジェイミーを残して安心して先に逝くことが出来ません。

…と話しているうちに泣けてきた。

 私は泣きながらこう続けた。

 教育や学校というのは社会が変わる大きな鍵だと信じています。

 いま学校で学んでいる子どもたちはこの先20年、30年先の将来を担っていく人たちです。我が家が典型的な例だと思いますが、私は日本国籍、主人はイギリスとニュージーランド国籍者です。これからの日本はもっともっと国際化が進むでしょう。自分たちと文化や様子が違う人たちと社会の仲間として当たり前に一緒に生きていけるような人が求められるというか、そういうことが出来る人が幸せな社会を実現するヒントを持っているのではないかと思えてなりません。今はジェイミーみたいな子どもが教室に居たら、他の子が集中する邪魔になるとか、進路をそれぞれ考えて勉学に勤しむお友だちの中で浮いてしまう面がとても目立ってしまうかもしれませんが、ジェイミーや、ジェイミーと一緒に当たり前に過ごした子どもたちが巣立っていった後の20年、30年先の社会は、「一緒に過ごすことが当たり前ではなかった社会」とは少しでも違うものになっているのではないでしょうか? 大阪の教育の基本方針は「ともに学びともに育ちともに生きる」だと聞いています。それは教育に長年携わってこられた現場の先生たちが、ともに学びともに育つ子どもたちの姿を実際に見て、ともに生きることのすばらしさに意義を見いだしてそうなっているのではないかと思うのです。先生たちもどうか「ともに学ぶ」意義を考えてジェイミーを他の子どもたちと一緒に育ててあげてください。

…というような風にお願いしたと思う(が、泣くのに忙しくなってきてきちんと伝わったかは定かではない。ジェイミーが、先生たちと、お友だちと、そして子どもたちに関わってくださるあらゆる方たちと一緒にこれからの3年間を歩んでいけるよう、何度でも学校に足を運んで対話を続けていくつもりだ。)

中学校の校舎を前に入学後すぐに撮ったもの

「共に育った」おとなの人たち

 ジェイミーが小学校へ入学した当時、署名活動がきっかけでつながった保護者のみなさんと一緒に「インクルーシブ教育をすすめる会」という保護者の会を作った。(現在は「わくわく育ちあいの会」に改称)以来、会のメンバーがランチを囲んでざっくばらんに自分たちの子育てや悩みを話しあったり、近況を報告しあったりする一方で、大阪市教育委員会と定期的に懇談させていただく機会をつくっていただいてもいる。別の会の方たちとつながって、大規模なシンポジウムと映画「みんなの学校」上映会を行ったこともある。

 会のメンバーになってくださっている方たちの中には、支援を要するお子さんを育てている保護者の方たちもいるし、お子さんが特に支援を要するわけではないけれど、どの子も一緒に過ごすことが当たり前の社会が実現することが、みんなが生きやすくなる社会の実現につながると確信して、私たちの会の主旨に賛同してくださった方もいる。主に大阪で生まれ育った方を中心に、「子どもの時、クラスメイトがどんなに重度の障害をもっていても自分たちと同じ学級で過ごした」という方がとにかく多い。

 会のメンバー以外でも、ジェイミーのクラスメイトのお母さんたちや地域の保護者さんたちの中には、ジェイミーがクラスで大声を出したり立ち歩いたりすることで、普通教室で過ごさせるよう先生たちにお願いをすることの葛藤などを話すと「ジェイミー君にも、みんなと一緒に教育を受ける権利があるんだから、そこは迷ったり遠慮することじゃないと思う」ときっぱり言ってくださる方たちがいる。そういう方たちにお話をもう少し詳しく聞かせていただくと自分たちの子ども時代・学生時代の「共に育った」話をしてくださる。やっぱり一緒に子ども時代の時間を過ごすという事は何物にも代えがたいものなのだろうと思う。そして、そういう考え方の「おとな」の方たちがジェイミーやジェイミーのような子どもの成長を優しい眼差しで見守ってくださることが、そういう子どもたちだけでなく子どもたちを育てている親や家族にとってはこの上なく幸せなことであるというのは言うまでもない。

インクルーシブな社会を目指して

 「みんな仲良くしましょうね」とかいう言葉だけのきれいごとじゃない、本当の意味での仲間は、一緒に育っていく過程を良いところも悪いところも一緒に共有しながら、お互いぶつかり合うときはぶつかり合い、困ったときは傍にいる「おとなたち」に、あるべき仲間の在り方に導いてもらうことで育つのではないだろうかと思う。弱者だと思っていた子がそうでもない力を発揮することもあるだろうし、多数派で支援など絶対に必要としない、と思っていた子が、ある日何らかの原因で支援が必要な側に回ることだってあるだろう。お互いにいたわり合い助け合う術を身につけ合うような場が子どものうちに準備されていて欲しいと心から願っている。大阪の教育の基本方針である「共に学び 共に育ち 共に生きる」は、先人たちのそういう思いから生まれたのではないかと思う。大阪だけじゃない、これからの将来が「インクルーシブな社会」であるよう目指すのであれば、日本の教育の基本方針がそうなっても素敵なのじゃないかと本気で思っている。そういう環境で育つ子どもたちが増え、おとなになり、社会が変わってゆくまで、私には何が出来るか考え続け行動しつづけたいと思っている。



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