〜開かれた学校づくり〜
1、序
これまでの学校は、「教育」という名の下での規律や訓練によって、子どもたちを自発的に権力に従う存在とならしめ、既存の社会システムに組み込んでいくことを役割としていた。こうした役割を果たそうとすればするほど、「教育」の場である学校施設はそれこそ監獄のように無味乾燥なものへと画一化していくのは当然のことであろう(南側教室北側廊下という定型)。そこでは、効率と秩序が最重要視されているからである。
これまでも、この定型を改革しようとする試みも幾度か行われたが、画一化した定型の主流はほとんど影響を受けることなく今日に至っていることは、自らの学校体験を想起されればお分かりいただけるだろう。
しかし、これまで見てきたように、近年になってようやく、諸外国に学んで、我が国においても全国各地で、様々な工夫を凝らした新しい型の学校施設が数多く建設されている。こうした背景には、これまでも何度か述べてきたように、時代、社会の変化に伴って、学校に期待・要請されることが大きく変化したためであるようだ。こうした変化を読み解くキーワードとして、わたしたちは「生涯発達」という発達的視点に注目したい。
2、生涯発達
「生涯発達」とは、単に子どもが大人になる過程だけではなく、おとなの時期における変化や老人期の衰退を中心とした変化をも発達という概念に含み込む。つまり、人の変化をよくなる方向だけで解析するのではなく、変わらないこと、衰えてゆくことの価値をも検討していこうとする。
この大きなポイントは中年期や老年期といった、比較的今まで議論の対象となっていなかった時期を含めて、「人の一生の道筋」を研究するようになったことである。そもそも発達という言葉にはよりよい状態へと適応していくという、前向きな変化の意味があるが、それを今までは青年期で区切って、あとはないものと考えてきた。有名なピアジェの「認知発達理論」は、順次に高いレベルの認知発達を遂げていくという、段階的で前向きな変化である。
しかし、中年期以降は必ずしもすべてが「前向きな変化」ではない。どちらかといえば、いわゆる老化などのマイナス面も増える。こういう変化を、衰退や老化といったマイナス面で捉えるのか、加齢現象として価値は置かないのか、はたまた、成熟という意味でプラスに捉えるのか、これが生涯発達というときの、かなり大きなキーとなる。
少なくても「生涯発達」では、「人は一生発達する」ということがモットーとなっている。 それでは、どうしてこうした「生涯発達」という発達的視点が近年になって必要となってきたのであろうか?それは、先にも出てきたように、時代と社会の大きな変化が関わってくる。
まず、日本の人口構造の大きな変化が挙げられる。この高齢化社会の進展という現代社会における大きな変化は、日本だけでなく経済の近代化を果たした国々では同じようにみられる。寿命が長くなり、健康的に、しかも経済的にも裕福に、長い人生を生きるようになったことが生涯発達という見方を多くの人に説得的にした。これまでの「老年期=喪失の時代」という図式ではなく、多く残された老後の人生をいかに自分らしく生きるか、という「老人たちの主体的な生き方」を考える心理的研究の必要性が増大してきた。
次には、高度情報化・産業化社会が挙げられるだろう。どのような生き方を選ぶかは現代社会では簡単なことではない。高度経済成長が達成された豊かな国においては、豊かになる、ということだけでは個人の人生を規定しにくくなっている。つまり経済的な豊さ以外の価値を見出さなければならなくなっているのだ。ところが、現代社会においては、その価値が見出しにくくなっている。新聞・雑誌・テレビそしてインターネットなどの情報メディアの普及によって、人生のあらゆる年齢の人々に対して、生き方のモデルの幅を広げ、モデルの変遷をつくり出し、さらにその迷いを生み出している。伝統的な社会でのように、親やその地域での生き方をたんに受け継げばよいのではないのだ。自分自身の生き方や価値観が問われる。人生の選択幅の個人差は増大している。
最後に、伝統的なコミュニティの崩壊について触れておく。社会のポストモダン化やグローバル化により、地域社会や家庭・人間関係の解体が、少子化や核家族化を背景として起こっている。それらによって、共在する時間や空間の消失、規範の解体・共有される文化の消失などの社会の全員がやりとり可能なコミュニケーションメディアとしての文化の消失がおこり、それに伴ったアイデンティティ不安が引き起こされた。
以上のような、現代社会の要因というか現実の変化は、発達的視点として生涯発達という見方を必要とする。現代社会の急速な変化が、生涯にわたる安定した年齢的な変化としての発達の見方だけでは対応できない様相を人の生き方にもたらしているので、生涯発達という発達的視点が現代社会においては必然であることが分かるだろう。
3、生涯発達と開かれた学校づくり
このような「生涯発達」という発達的視点に立つと、学校における「教育」に対する観点も変化する。これまでの学校教育の根底を流れる人間発達観というのは、従来の「子どもという未完成から、大人という完成に向かう」という前向きで単線的な発達であった。この発達観に従えば、冒頭で述べたような「教育」やそれに裏打ちされた学校施設は利にかなっている。
しかし、「生涯発達」は、人の一生の道筋に多様なあり方を認める。したがって、これからの学校は、これまでのように、大人として既存の社会で生きていく上で必要最低限な技術・規律・秩序を教え込むのに終始するのではなく、子どもたちの発達の多様なあり方に対応する形で、多様な教育方法を採用しなければならないし、子どもたちが生涯に渡って自分の道を自分で歩いてゆく力を育成することに主眼を置かなければならないだろう。
そして、これらのことを実現するためには、これまでの閉鎖的な学校からの脱却が期待される。閉鎖的な学校は、子どもたちの生活場面とは乖離した場であって、子どもたちが1日の大半を過ごす生活の場としての側面が軽視されてきた。そこでは、「生きる力」を育むことは到底できないであろう。したがって、学校は、学びの環境として、学校内部で豊かな環境づくりに励むことはもちろん、子どもたちが実際に生活を送っている外部環境に対して開いていくといった、開かれた学校づくりをしていく必要がある。このことは、「生涯発達」に基づいた「生涯学習」の視点からも重要であり、その地域に住む人々(もちろんその学校に通う子どもたちも含んで)が学び合うような、地域の学習センターとしての機能も期待されるであろう。
すなわち、これまでの一方向的な「教育」から、子どもと教師、子どもと子ども、子どもと地域住民、地域住民同士…がお互い学び合うといった「開かれた学び」へ出発するために、開かれた学校づくりをしていく必要があり、そうした発想に基づいた学校建築がこれから多く建設されていくことがそのスタートラインとなる、と考えるものである。