コンピュータの発展がすすめる「ヒトのからだの理解」: 複雑系としての身体観序章

山本義春 (東京大学大学院教育学研究科)

June 6, 1998

コンピュータの発展が「ヒトのからだの理解」に変革をもたらすと いう場合、大きくわけて2つの側面があるように思える。そのうち まず思いつくのは、コンピュータによって込み入った(complicated) 計算や大規模な情報処理が可能になり、方法論上の変革がもたらさ れたというものであろう。(運動)生理学やバイオメカニクスの分野 で身近な事例を挙げれば、コンピュータ断層撮影法(CT)や 映像解析における3次元(3D)解析法の普及、 事象関連電位の解析におけるデジタル信号処理の応用などが無難な ところであろうか。大規模情報処理という観点からいえば、多変量 解析法の普及などを含めてよいかも知れない。

ほんの5,6年前ならば、例えば「コンピュータ・シミュレーション による動作解析」というようなトピックを加えて特集を組んでおけ ば、ゲスト・エディタとしてもギリギリ及第点であっただろう。 それに対して、今回の特集では、このようなコンピュータの発展に よる技術的あるいは方法論的な進歩に関するトピックは、ほとんど 出てこない。「みかけ倒し」との批判を恐れてという訳ではないが、 少し事情を説明しておこうと思う。

いま一つの側面は、コンピュータの発展がすすめた「複雑系(Complex Systems)」の科学というものと関連している。複雑系とは何か、と いう問いに答えるのは未だ時期尚早なのであるが[1, 2]、その イメージをつかむために「単純な系」との対比を試みると以下の ようになる。

  1. 冒頭でCTや3D解析法における計算を込み入っている(complicated) と表現したが、まさにここが複雑(complex)と最も異なる点である。 確かに低次元の計測値から高次元の空間イメージを再構成するという 作業は込み入っているが、その原理は至って単純である。逆に 複雑系においては、低次元の系から構成したはずの高次元系が、元の 構成要因からは予想もできない多様性を呈することが多い。多数の ニューロンが構成する脳神経系の挙動をイメージしていただきたい。 人によっては、この現象を「自己組織化」と呼ぶ。
  2. デジタル・フィルタリングにせよスペクトル解析にせよ、その 理論の前提となっているのは、系自体の性質が時間経過に依存しない という「定常性」の概念である。対して複雑系では、特に外的要因が なくともこの定常性が破れることがあり、さらには生物進化や歴史の ように時間発展をともなうこともある。生物進化とのアナロジーから であろうか、「適応的システム」などとも呼ばれる。
  3. 一般に多変量解析は、一見デタラメなデータを多数の構成要素 の線形和として表現する手法である。構成要素が多数なので ``complicated''かも知れないが、線形和なので本質的には単純と考え られる。対して、カオスと呼ばれる現象では、ほんの数個の構成要素の 非線形結合が一見デタラメな挙動を生み出す。複雑系においては、 「非線形性」が本質的な役割を果たすのである。

ヒトに限らず、生物のからだが自己組織的で適応的であり、本質的に 非線形であるということは、改めていわれるまでもないことであろう。 それではなぜこれまで「(ヒトの)身体を複雑系の視点で捉える」と いう考え方が希薄であったのか。それは、以下のような記述[3]に つきるように思える。

カオスを含む非線形現象は非線形方程式が「方程式を解く」という 従来のやり方では手に負えないために未開拓のまま残されている。 最近のコンピュータの目覚しい発達のおかげで、この非線形方程式を、 数値計算によって扱うことができるようになった。しかも、少し前 までは、大きな組織しか利用できなかった高性能のコンピュータが、 今では、研究室の中で自由に使える。研究者の立場からしても、大集団に 埋没して大プロジェクトのほんの一部を研究するよりも、自分独自の 研究を進める方がよい。

かくして、(中略)コンピュータを主要な武器に、カオス現象を中心と する複雑な非線形現象を扱う革命的科学として、複雑系の科学が登場した。 そう私の目には映る。

すなわち、「複雑系の科学」の成立にコンピュータの発展が不可欠だった のである。

いったん複雑系という切り口がみえてくれば、そこから新たに(ヒトの) からだを見直すことができる、というのがここでの基本的なスタンスで ある。そんなわけで、本特集では、「複雑系としての身体」を目指し 研究を続ける若手研究者に、その一端を紹介していただくことにした。 以下の研究内容は、必ずしもコンピュータを駆使したものではなく、 更には発展途上のものであるかも知れないが、複雑系(自己組織系、適応的 システム、非線形系)というキーワードを頭の隅に置いてお読みいただけ れば、少しは興味を感じていただけることと思う。なお、それでもピンと 来ないという方は、末巻の参考文献に平易な解説を載せておいたので、 それらを参考にしていただきたい。

  1. ヒトの中枢神経系は複雑系の代表であるが、初めからそのように 作られているわけではなく、特に生後1年の間に、急激な成長を遂げる。 Edelman[4]は、このような神経発達のプロセスとして「神経Darwinism」 を提唱し、まさにDarwinばりの(適応的)淘汰プロセスが神経系の 成長に不可欠であるとした。一方、この間新生児は原始歩行→つかまり 立ち→つたい歩き→独立歩行とその行動様式を激変させるが、このような 行為の変化が(ひょっとすると適応的に)行動を司る神経回路の発達に影響を 与えているのではないかとの興味も持たれる。実際、生後1年間の脊髄相反性 神経支配の発達を縦断的に調査すると、神経回路自体が実にダイナミックに 変化していることがわかるのである(北城、山本、宮下)。
  2. 神経系・免疫系など、要素がネットワーク化されて出来上がった 系(身体)において、個々の要素の結び付きが強すぎると、構造的には安定で ある(秩序だっている)が可塑性に乏しくなり、逆に結び付きが弱くそれぞれ がデタラメに(カオス的に)動けるとすると、一定性というかidentityが保て ない。この秩序とカオスの狭間に「カオスの縁(Edge of Chaos)」[5] とか「自己組織化臨界(Self-organized Criticality)」[6]と呼ばれる 複雑系特有の領域があり、そこでは秩序と可塑性のせめぎ合いが行われて いるとされる。生体に遍在するとされるフラクタルゆらぎ[7]がこの 領域を特徴づけるものであることから、「カオスの縁」や「自己組織化臨界」 はしばしば生命現象のメタファーとして用いられてきた[1, 2]。福崎論文 では、心拍数の変動を例にとり、このような臨界的現象が、成長とともにどの ように出来上がり、加齢とともにどのように崩壊していくかについて述べられ ている(福崎、山本、川久保)。
  3. Penfieldの体部位局在マップというのをご存じだろう。大脳皮質運動 野(4野)の表面に、やけに顔とか手指が大きなサルが描いてあるアレである。 いわんとするところは、随意運動においてある筋が活動する場合、対応する 神経細胞(いわゆる「お婆さん細胞」)に活動がみられるということである。 ところで、ヒトの随意運動は実に多様である。多様な筋活動パターンを無数の 皮質細胞がつくり出すという場合、これらの細胞群に何らかの協動・同調 (組織化といってもよい)がないと、無限の自由度に対応するメモリが必要になり 現実的ではない(いわゆるBernstein問題)[8]。ヒトの動作に対応した 皮質細胞の機能的結合とはどのようなものか。山中論文では、この困難な問題 へのアプローチとして、経頭蓋磁気刺激法を用いる際の基本的問題点が検討され ている(山中、山本)。
  4. もし身体が複雑な(神経系の)ネットワークによって維持されているの だとすれば、個々の要素(神経細胞)は絶えず他の部分のダイナミクスに影響 されることになる。その場合、単一神経細胞が本来行わなければなら ない情報のコーディングが、直接には無関係な部分の影響で阻害されるという ことが起こらないのであろうか。実は近年、この心配は無用であるどころか、 むしろ他の部分の複雑なダイナミクスがあった方が、かえって単一神経細胞 の情報コーディング能力が高まるということがわかってきた[9]。この 現象は「確率共振(Stochastic Resonance)」と呼ばれ、ここでも神経細胞の 非線形性が本質的な役割を果たす[9]。上記のフラクタルゆらぎの存在下 では、一層このような現象が加速されるのである(野崎、山本)。
  5. 最後の東郷論文では、身体活動と睡眠−覚醒リズムとの関連が議論 される。活動的な一日を過ごせばよく眠れるというのは誰もが経験的に 知っていることであるが、なぜそうなるのかということになると、 実はよくわかっていないのである。そもそも、一口に睡眠といっても 様々な段階(状態)があり、覚醒という脳の一状態からどのように睡眠という 状態に移行するか、睡眠段階はどのように遷移するか、という問題は、 まさに脳という非定常なシステムの振るまいを調べることと同等である。 人によっては、これを「意識」のメカニズムと称している[10] (異を唱える哲学者も多いが...)(東郷、澤井、山本)。

(Jap. J. Sports Sci. 16: 35 より)

References

1
Waldrop, M.M. (田中三彦, 遠山峻征訳) 複雑系. 新潮社, 東京, 1996.

2
金子邦彦, 津田一郎. 複雑系のカオス的シナリオ. 朝倉書店, 東京, 1996.

3
雨宮民雄. 複雑系の科学と現実. 現代思想 24(13): 110-122, 1996.

4
Edelman, G.M. Neural Darwinism. Basic Books, New York, 1987.

5
Ruthen, R. Adapting to complexity. Sci. Am. 268(1): 130-134, 1993.

6
Bak, P., Chen, K. Self-organized criticality. Sci. Am. 264(1): 46-53, 1991.

7
野崎大地, 山本義春. 生理学とカオス. 数理科学 1997 (印刷中).

8
佐々木正人. アフォーダンス -- 新しい認知の理論. 岩波書店, 東京, 1994.

9
Moss, F., Wiesenfeld, K. The benefits of background noise. Sci. Am. 273(2): 50-53, 1995.

10
Crick, F. (中原英臣, 佐川 峻訳) DNAに魂はあるか--驚異の仮説. 講談社, 東京, 1995.

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1998年06月06日 (土) 14時23分42秒 JST