生体にみられる``ゆらぎ''

山本義春 (東京大学大学院教育学研究科)

February 1, 2000

真値と誤差

何らかの測定値が得られたとき、これを

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のようにモデル化するという行為は、いわゆる分散分析 などの例を出すまでもなく、今世紀の統計学では常識で ある。さらにつけ加えるなら、このとき誤差は正規分布に従う とされることが多い。その理由は、以下のように説明 される[1]。

いまサイコロを投げて、偶数が出たら真値に tex2html_wrap_inline99 を足し、奇数が出たら tex2html_wrap_inline99 を引くとする。 この試行をn回行い、奇数がr回、偶数がn-r回出た とすると、真値からのズレは tex2html_wrap_inline109 であり、 その確率分布は、二項分布の近似として、 平均0、分散 tex2html_wrap_inline113 の正規分布となる。言い換えれば、 ``大勢のヒトが一斉に真値からこの操作を始める''と、 蓄積された誤差の分布は正規分布になる、というわけである。

至極当然のような議論ではあるが、この状況をもう一度 図1で確認しておこう。サイコロの連投によって微小誤差 tex2html_wrap_inline99 を蓄積していくという過程は、ヒトによって 異なるであろう(あるいは同一の人間が何度も連投をくり返すと いうことでもよい)。しかしながら、n回目における ズレの分布を大勢のヒトについて考えた場合、nによらず 正規分布になるということである。真値を知りたい場合は どうするか。n回目に得られた測定値から``標本平均''を 計算し、それをもって推定値とすればよい。もちろん 推定の精度は、分散 tex2html_wrap_inline113 が大きくなると 悪くなる。

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ゆらぎとは何か

上記の例で、あるヒトがサイコロの連投を1回だけ 行ったときの(ズレの)変化を考える。これは(1次元の) ブラウン運動であり、逸話的に次のように説明される[2]。

水面に浮かべた微粒子(花粉?)が熱運動している水の分子に 衝突される。1回の衝突では動きもすまいが、ときに同じ向きの 衝突が重なる。そうすると微粒子は少しだけ動く。しかし、 動けば水の抵抗を受けるから、すぐに動きは止むだろう。 また、いくつか水の分子の衝突が重なって tex2html_wrap_inline127 、 (くり返し)微小偏位が観察される。

お分かりのとおり、この微小偏位は上記の例における tex2html_wrap_inline99 であり、温度が高く水の分子の熱運動が 激しい程、あるいは粘性抵抗が小さいほど大きいと考えられる。 事実Tを温度、 tex2html_wrap_inline133 を粘性係数とすると、

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が成り立つ。ただしここで、Rは気体定数、 tex2html_wrap_inline137 は アヴォガドロ数、aは微粒子の半径である。この関係式は、 ブラウン運動の``ゆらぎ(fluctuation)''とエネルギーの ``散逸(dissipation)''すなわち粘性抵抗を結びつけるもので、 揺動散逸定理(fluctuation-dissipation theory)と 呼ばれる[2]。

これは統計物理学の基本定理であって、生体とは直接関係ない と思われるかも知れない。ここで揺動散逸定理を 持ち出してきた理由は、これが``ゆらぎ(fluctuation)''という 言葉が自然科学用語として用いられている(唯一とは敢えて言わないが) 数少ない例の1つだからである。強調すべきは、通常我々が 誤差と呼んでいるものは、微小なゆらぎ tex2html_wrap_inline99 を (大勢のヒトがサイコロの連投を行うように)``あらゆる場合 において''寄せ集めたものだということである。この意味で、 誤差とゆらぎは本来区別されるべきものかも知れない。

真値はあるのか

いま、図1のブラウン運動の軌跡をnの関数とみて、 B(n)と書くことにしよう。2つの整数i < jを取ってきて、 B(n)の局所平均、すなわち

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を考える。これはnを時刻とみなせば、``時間平均''とでも 呼べるものである。

図1から直感的に分かるとおり、この tex2html_wrap_inline159 は、 もはや真値Tを与えない。これは、大勢のヒトによる サイコロの連投の結果を平均すると真値が推定できたのとは 対照的である。このように、例えば(局所的)時間平均が時刻に依存 する変動を、通常``非定常的''であるという[3]。 ブラウン運動のような非定常的な変動では、1本の有限の 軌跡から、真値を求めることが不可能である。

ところで、冒頭で述べたブラウン運動の分散は、

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と書けるが(ただしここで、 tex2html_wrap_inline163 は大勢のヒトに よるサイコロの連投の平均、 tex2html_wrap_inline165 は比例を表し、 tex2html_wrap_inline167 は省いてある)、フラクタルで有名なMandelbrotは、このブラウン運動 の性質を拡張して、

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フラクショナルブラウン運動と呼んだ[4]。 H = 1/2の場合がブラウン運動である。彼の著書[5] では、このHを様々な値に変えることにより、自然界に 存在する複雑なかたちを表現できるという例が、美しい コンピュータグラフィクスとともに多数示されており、 フラクタルあるいは自己相似という概念の普及に役立った。 ブラウン運動(H = 1/2)の場合と異なり、 tex2html_wrap_inline175 の場合は、``ゆらぎ tex2html_wrap_inline99 が積み重なって誤差となる 過程がランダムではない''ことを示している。そして 重要なことは、 tex2html_wrap_inline179B(n)と同様に非定常な変動で あり、1本の有限の軌跡から、真値を求めることが不可能なのである。

そして、生体ゆらぎである。 過去10年間の研究によって、自律神経の支配を受ける 心拍動間隔のゆらぎ[6]、感覚神経における発火間隔の ゆらぎ[7]、脳波のアルファ波のゆらぎ[8]や 覚醒を司る中脳ニューロンの発火間隔のゆらぎ[9]、 運動神経の興奮性のゆらぎ[10]、姿勢動揺[11]や 歩行間隔[12]のゆらぎなど、神経系における 様々なゆらぎが、フラクショナルブラウン運動によって 表現できるということが明らかになってきた。 これらの事実は、神経系の活動は、たとえ生体が一定の状態に 保たれているようにみえても本質的に非定常であり、 1個の有限長の記録から、例えば平均発火率などの``真値''を定義 できないということを示している。というよりも、果たして 真値なるものが果たして存在するのか、という点を考慮する 必要性を示していると考えられる。

サイコロの連投と異なり、生体観測の場合、同一の条件で何度も 記録を得ることは困難である。かといって、時間平均は一定値に 落ち着かず、時刻に依存する。生体、特に神経系の活動にみられる ``フラクタルゆらぎ''は、かくして生体時系列の解析や 生体信号の誤差論に大きな問題を提起するのである。

ゆらぎは確率的か

これまで、ゆらぎは統計的雑音によって駆動されるという 前提で論を進めてきた。ブラウン運動の例でいえば、 水分子の熱雑音が微粒子を( tex2html_wrap_inline99 だけ)駆動すること によってゆらぎが生成されたのであった。これに対して、 ここ15年あまりの、カオスの理論を始めとする非線形力学の 諸理論の発展は、生体ゆらぎの研究に新たな視点を提供しつつ ある。

カオスとは、比較的単純な非線形微分方程式で表される システムが、一見確率的ともいえるような複雑な変動を示す という現象を指す[13]。いかに非線形といえども、 微分方程式自体は完全に決定論的であり、雑音による駆動は 必要としない。それでも、結果的に現われる変動が 確率的なものと区別がつかないというのであるから、 カオスの発見がいかに近代科学に影響を与えたかは容易に 察することができる。

当然のことながら、複雑な生体のゆらぎが実は決定論的 カオスなのではないかとの予想を立てる研究者が相次いだ。 脳波[14]や心拍動[15]のゆらぎが、このような 予想の道具建てとなったのである。予想を実証するためには、 いわゆる``カオスを判別する方法''(例えば[16])が必要 なのであるが、生体ゆらぎの観測データのように、データ長に 限りがあり、かつ測定自体に起因するノイズが少なくない場合、 これらの方法が満足できる解答を与えることは稀で ある[17]。

むしろ、一見複雑にみえる生体ゆらぎが決定論的なシステムに 起因するのではないか、との予想に対して有効なのは、 モデリングによるアプローチであることが多い。 事実、生体ゆらぎに初めてカオスを見いだしたとされる MackeyとGlassの研究[18]では、白血球の変動の 生理学的(というよりも経験的)モデルとして、

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という非線形微分差分方程式が用いられた。この高度に非線形 な方程式の出力が、実際の白血球の変動を表すかについては、 例えば``実測値との比較''などの手法で検討されたわけでは ないが、ある種の病理学的な状態を再現するという基準 によって受け入れられているのである。

同様な例は、最近のTagaの研究[19]にもみることが できる。彼は、二足歩行のモデルを非線形振動子と筋骨格 システム、および地面反力の結合として表現した。この モデルをコンピュータ上で実現し、シミュレーションを 行ってみたところ、``歩く''のはもちろんのこと、 ``つまずく''、``坂道で歩幅を変える''などの柔軟な 動作が可能になったという。さらにある条件下では、 一歩一歩の歩行パラメータにゆらぎがみられた。

このように、単にゆらぎの源泉を統計的雑音に求めるので なく、複雑あるいは非線形システムでモデリングすること によって、``ゆらぐ''構造自体を明らかにしていく 試みも行われているのである。

おわりに

心拍動の間隔は1拍1拍変動するのだが、通常我々は、 そういうことには目をつむって1分間の拍動数を数え、 心拍数とする。それはそれで良いのだが、なぜ1拍ごとに ゆらぐのか、と問うことによって``心拍数とは何なのか'' という新たな視点が加わる[20]。ことによると、 血液を採って成分分析を行う場合であっても、採血という 行為自体がある種の平均化を伴うものであるから、 意味のある情報を見逃しているかも知れない。生体ゆらぎ の研究は、普段は気にすることの少ない我々のからだの働き に注目する、オタクな営みなのである。

以上、かなり大雑把になってしまったが、生体にみられる ``ゆらぎ''についての研究の現状を紹介した。これ以上 詳しい内容の説明は、気鋭の執筆者が揃った今回の特集では、 不要だろう。

(Jap. J. Sports Sci. 14: 471 より)

謝辞: 執筆に際して貴重なご意見を いただいた、南風原朝和 助教授(東京大学大学院教育学研究科)に 謝意を表します。

References

1
小針明宏. 確率 tex2html_wrap_inline187 統計入門. 岩波書店, 東京, 1973.

2
江沢 洋. 確率過程とは何か. 別冊 tex2html_wrap_inline187 数理科学 -- 数理物理の展開, サイエンス社, 東京, pp86-93, 1990.

3
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4
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Mandelbrot, B.B. The Fractal Geometry of Nature. Freeman, New York, 1982.

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Inoue, T., S. Ukai, K. Shinosaki, A. Iyama, Y. Matsumoto, and S. Toi. Changes in the fractal dimension of alpha envelope from wakefulness to drowsiness in the human electroencephalogram. Neurosci. Lett. 174: 105-108, 1994.

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Yamamoto, M., H. Nakahama, K. Shima, T. Kodama, and G. Mushiake. Markov-dependency and spectral analysis of spike-counts in mesencephalic reticular neurons during sleep and attentive states. Brain Res. 336: 279-289, 1986.

10
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Hausdorff, J.M., C.K. Peng, Z. Ladin, J.Y. Wei, and A.L. Goldberger. Is walking a random walk? Evidence for long-range correlation in stride interval of human gait. J. Appl. Physiol. 78: 349-358, 1995.

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Mackey, M.C., and L. Glass. Oscillation and chaos in physiological control systems. Science 197: 287-289, 1977.

19
Taga, G. Emergence of bipedal locomotion through entrainment among the neuro-musculo-skeletal system and the environment. Physica D 75: 190-208, 1994.

20
中村好男, 山本義春. 心拍変動のスペクトルとフラクタル. 体育の科学 41: 515-523, 1991.

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