ノイズでヒトの機能を高める-ヒトの中の確率共振-

山本義春 (東京大学大学院教育学研究科)

October 31, 2001

確率共振とは、微弱な入力信号に対する非線形系の応答がノイズによって 増強されるという現象である。ヒトの生体機能が確率共振によって向上した という実例を示し、その基礎的・応用的意義について解説する。

感覚生物学における確率共振現象

過去10年間、微弱な入力信号に対する非線形系の応答がノイズによって増強 されるという、確率共振(Stochastic Resonance; SR)の研究が注目を集めて きた。SRは、元来氷河期の周期的到来を説明するために考え出された概念で あるが、その後幅広い物理系でその存在が確認されるとともに、いくつかの 実験研究によって感覚神経細胞におけるノイズ印加が閾値下入力信号の検出 力を高めることが明らかになり、感覚生理学の分野にも大きな話題を提供し た。この間の経緯はモス(Moss)とウィーゼンフェルド(Wiesenfeld)の解説 記事[1]に詳しいが、ここではもう少し具体的に見て行こう。

図1に、神経細胞におけるSRを模式的に示した。よく知られているように、 神経細胞は閾値型の入出力特性を有するため、閾値下の微小な入力信号に よって発火することはない。しかしながら、ランダムな広帯域ノイズを 同時印加した場合、膜電位が閾値を超える瞬時確率は入力信号の強弱を反映 することができる。一方、ノイズ強度が膜電位に届かないほど小さすぎたり、 あるいは入力信号の強弱とは無関係に閾値を超えるほど大きすぎたりした 場合、出力信号の信号雑音比(S/N比)が低下することが予想されるので、 出力S/N比を最大化する最適ノイズ強度が存在し、「出力S/N比-ノイズ強度」 曲線は釣鐘型になることも分かる--これが``Resonance''ということばの 由来である。

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Figure 1: 神経コーディングの観点からみた確率共振現象の模式図 (説明本文)。

もちろん、神経モデルとして実際のニューロンを模したダイナミクスを持った ものを使っても良いし、入力信号自体も正弦波に限るわけではない[2]。 また、定量的にも、入力信号が低周波に帯域制限されている場合は閾値 までの距離を障壁の高さとする逃避確率問題を、あるいはより一般的には、 入力信号を強制外力とする確率微分方程式の閾値到達確率問題などを応用 したアプローチがなされている[3]。したがって、(統計)物理の専門家に とってはさほど興奮するようなことではないのかも知れないのだが、1993年、 米国ミズーリ大のモスたちのグループが、ザリガニの感覚細胞でSRを発見 した[4]と報告した際は、さすがに多くの生物学者・物理学者が驚いた ようだ。

彼らは、ザリガニの尾の有毛細胞--毛状の組織が力学的入力を感知する--に 取り付けたトランスデューサに微細な正弦波状入力信号とノイズを印加し、 その求心性神経活動を記録した。そして、入力信号帯域における神経活動の 出力S/N比を測定したところ、SRの存在を示唆する釣鐘型の曲線が得られた ことを報告したのである。すなわち、ザリガニの尾は、天敵の魚が 生み出す微細な水の動き(信号)を、周囲の環境ノイズをむしろうまく 利用することによって敏感に感知しているとの可能性が示されたわけだ。 そういえば子どもの頃、ザリガニや昆虫は、捕まえようとするとこちらの 心を見透かしたかのように逃げてしまうと不思議に思ったものだった。事実 その後、同様なシナリオはコオロギの尾の気流感知細胞やラットの皮膚感覚 受容器などにも見出されており、個人的にも「昔の謎が一つ解けた」などと、 ただただ感心していたgif

ところが、当の研究者たちは遥かに冷静だったようだ。というのも、彼ら はすでに同論文中で、外部ノイズが(感覚細胞レベルだけではなく)個体と してのザリガニの感受性を高め得るか、との問いを発していたのである。

機能的確率共振

ノイズが生体のマクロな機能、例えば知覚・調節・行為などを高めるという 現象を、ここでは仮に「機能的確率共振(Functional SR; FSR)」と呼ぼう。

本論文の主題と直接関連するのだが、恐らくこのようなFSRを初めて示したの は、米国ボストン大のコリンズ(Collins)たちのグループであろう[5]。 彼らは、ヒトの指先に与えた微細な力学的触覚刺激を被験者に知覚させる という簡単な心理物理実験を行った。その際、被験者の知覚閾値をあらか じめ同定しておき、その上で閾値下の刺激と同時にノイズを入力、知覚 弁別能力が向上するかを調べたのである。結果として、弁別課題の正答率が 最適なノイズレベルでいったん上昇し、過大なノイズで再び低下するとい う、SR特有の応答曲線が得られたとしている。

FSRは、その名の示すとおり機能的なレベルで観察されるため、生体への ノイズ印加による機能向上などの生体医工学的応用に直接つながる可能性 を秘めており、事実、彼らの論文においても、老年医学への応用などが 展望されている。加齢とともに各種感覚閾値が相対的に上昇すること--簡単 にいえば感覚が鈍くなるということ--はよく知られているが、外部から ノイズを加えることにより低下した感覚感受性を補うというような装具の 開発基盤を、FSRが与えるということだ。

また近年、モスたちのグループは、ヘラチョウザメ(paddlefish)の捕食 行動が、適度なノイズを印加することによって促進されるという現象を 見いだした[6]。ヘラチョウザメは、北米の泥川の限られた視界の なかで、餌であるプランクトンを捕食することにより生息している。 この目的のために、この動物は、頭部の棹状突起にプランクトンの発生 する電気信号を感知する受容器を備えているのだが、彼らは、水槽内に ランダムな電場を発生させ、その捕食行動がどのように変化するかを 調べた。その結果、本来ならばプランクトンの位置情報を撹乱するはず のノイズを加えた際、むしろ捕食範囲が広がることを発見した。さらに 過剰なノイズ印加に対しては捕食範囲が再び狭まることが示され、捕食 行動という機能的レベルでSRが観察されると結論づけた。

生体の置かれている環境の多様性は、時として予測不能でランダムに 見えることが多い。その後彼らは、多数のプランクトンの動きは実際 にランダムであり、それをノイズ源とすることによってヘラチョウザメ は特定のプランクトンを捕食できるというシナリオを提案している (AIP Physics News Update, #522-2)。モスたちは、泥川という環境に ヘラチョウザメの感覚器が適応した結果としてこの現象を捉えて いる[6]ようであるが、もしこのシナリオが本当であるとすると、 原因の一端は「捕食されるために動き回るプランクトン」にあるとも 考えられ、その利他的個体行動の意義は、「利己的遺伝子」を彷彿とさせ 大変興味深い。

近年における研究の動向は、このように、ノイズによる神経系の感受性 向上が生体にとって何らかの機能的意義を持ち得るか、との観点に移行 しつつあるといえる。

ヒトの脳における機能的確率共振

以上がFSR研究の簡単な歴史的背景なのだが、本論文ではさらに、現在 筆者らが進めている研究を紹介しようと思う。

実は、FSRがノイズによる末梢感覚細胞の感受性向上によるものか、 あるいは中枢神経系においてもそのようなノイズの「効果」が認められる のかは、明らかではなかった。FSRは、知覚・調節・行為などの 高次機能に見られると定義したわけであるから、中枢神経系内、とりわけ 脳内でノイズが機能的役割を果たし得るかは気になるところである。 そして、これまでの研究は、この問題に答えるべく計画されたものでは ない。というのも、これらの研究では、ノイズも入力信号も同じ感覚 受容器に加えているため、仮に生体機能の向上が観察されたとしても、 その解釈は「SRによる感覚細胞の感受性向上が求心性神経活動を増加させ、 結果としてFSRが観察された」となるからだ。したがって、「脳におけるFSR」 の存在を実証するためには、入力信号およびノイズを明らかに異なる 末梢神経系より入力することによって脳が身体機能を向上させる、という 実例を示す必要があった。

そこで筆者らは、健康な被験者を対象に、ヒトの「圧反射」系について 研究を行った[7](AIP Physics News Update, #509-1も参照)。 図2に示すとおり、圧反射系は、2種類の圧感受性神経細胞を受容体として 持っている。一つは動脈圧受容器、もう一つは「心肺圧受容器」と呼ば れるもので、それぞれ動脈血圧、(中心)静脈血圧をモニタしている。 両者の求心性信号は別経路を介して脳の神経核で初めて統合され、自律 神経活動を反射性に変調する。その結果心拍数と末梢血管抵抗が変化し、 例えば起立による重力の影響で血圧が急激に低下した場合でも、血圧は 自動的に補償され、脳への血流が確保される(図2a)。逆に、この「調節系」 がうまく働かないと、いわゆる立ち眩みが生じるというわけだ。

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Figure 2: ヒトの血圧調節系における確率共振現象のメカニズム。 a: 信号とノイズの入力経路。b, c: 定圧負荷に対する 動脈圧反射(b)と心肺圧反射(c)の応答特性。CSP: 頸動脈洞内圧、CVP:中心静脈圧。文献[7]より引用。

ところで、この2つの調節経路は、その動作特性が多少異なることが 知られている。すなわち、動脈圧反射の入力(動脈圧)-出力(心拍動間隔) 特性は、生理学的な変動範囲では線形性が強いが(図2b)、心肺圧反射に おいては、受容器がある程度以上脱負荷されてはじめて心拍数の上昇 (心拍動間隔の短縮)が起こるという、閾値型の非線形性を有している(図2c)。 したがって、中心静脈圧を閾値下で微小に変化させた時の心拍応答が 動脈圧受容器を介して印加されたノイズによって増強することを確認 できれば、閾値下入力信号に対する出力応答のノイズによる増強という SR的シナリオを、脳内で確認できると考えた。

実験では、水平なテーブルに被験者を寝かせ繰り返し傾斜角を加える ことによって、被験者の下半身に血液を移動させた。胸部からの血液の 汲み出しにより、心肺圧受容器がこのような繰り返し信号(周期約30秒)に より刺激され、その結果、脳は静脈血圧が周期的に低下したと解釈する。 一方、神経ノイズを作り出すため、頚部への機械的加圧および減圧を 一心拍毎にランダムに行った(図2a)。これにより動脈圧受容器がランダム に刺激される。なぜなら、通常は動脈血圧と一致する動脈壁の圧力が、 ランダムに増減させられるからである。その上で、静脈圧の変化に対する 心拍数の補償的応答を観察した。実験前に個別に求めた(図3a)閾値 下振幅で心肺圧受容器に信号を入れながら(図3c)ノイズの強度を漸増 させていくと(図3b)、中間的なノイズ強度において周期的姿勢変換に 対する心拍応答が増強した(図3d)。さらに、出力である心拍動間隔 時系列の信号帯域における瞬時振幅を求めると、調べた6名の被験者全て について、SRに特有な釣鐘型応答曲線が観察されたのである(図3e) gif

  figure35
Figure 3: 漸増ノイズが圧反射性心拍応答に及ぼす影響。 a: ノイズ無印加時の周期的姿勢変換に対する心拍動間隔(RRI)、 収縮期血圧(SBP)の応答(信号帯域でのWigner-Ville分布: WVD)。実線: tex2html_wrap_inline174 、破線: tex2html_wrap_inline176 。矢印で示した閾値下 の振幅を持つ信号を以下の実験で採用した。b-d: ノイズ漸増時 の閾値下信号に対する心拍応答の例。ノイズ(b)、傾斜角(c)、 帯域フィルタを通過したRRI(d)。中間的なノイズ強度において、 周期姿勢変換に対する心拍応答が増強した。e: 6名の被験者に おける漸増ノイズに対する心拍応答。左下のパネルは、上記: a-d の被験者の結果。全ての被験者において確率共振に特有の釣鐘型応答 曲線が観察された。文献[7]より引用。

論議と今後の課題

この結果はいくつかの点で重要な問題を提起する、と筆者らは考えている。

まず、脳は、電磁波のような電気的ノイズの影響を受けながらも、なお かつ正常に動作していると考えられており、筆者らが見出した脳における FSRは、その情報処理過程の理解に新たな枠組みを提供するものと思われる。 ただし、上述の圧反射系におけるFSRは、脳の様々な機能のうち、主と して調節機能にのみ関わるものであった。今後の課題として、ヒトあるいは 動物の知覚・行為といった高次脳機能においてもFSRが観察されるかとい う問題が残されている。ただし、その場合でも、上述の研究で用いた ような「入力信号およびノイズをそれぞれ別の末梢受容器から加える」 という実験デザインは、脳におけるFSR研究のガイドラインとなるで あろう。実際、未だ不十分と言わざるを得ないものの、同様なデザイン での「知覚-行為連関」の研究がすでに開始されている[8]。

次に、上述の結果は脳研究の方法論にも大きな問題を提起するものと 思われる。というのも、ある刺激に対する脳の出力を観測するというような 実験を行っていると、一見不可解な結果に遭遇することも希ではない。 従来、このような脳の因果律の不定性--同一処遇に対して系統的に 異なる結果が得られるということ--は、カオス力学との関連から議論 されることが多かったが、別の解釈として、背景のノイズレベルに 応じて(非線形)系の入出力関係が異なるという、SR的シナリオの存在も 十分に考えられる。実際のところ、現在までに蓄積されてきた脳機能 に関する知見には、周囲の環境(背景のノイズ特性)に関する記述が少ない、 あるいは周囲から隔絶した標本のように非常に限定的な環境下での 結果が多いように思われる。そして、得られた応答特性をみると、 SRが存在し得るような非線形性を有するものが多い。したがって、 これらの応答特性が、系が埋め込まれている環境を考慮しなくては ならないほどノイズに依存するかどうか、今一度検討する必要があるの ではないだろうか。「環境」(通常の意味でも、また数理的な意味でも) を無視した脳機能研究、あるいは広い意味での生体機能研究の方法論を、 再考すべき時に至っているのかも知れない。

最後に、ヒトにおけるFSR研究が進めば、ノイズ印加による機能向上と いった生体医工学的応用の可能性が開けてくることを強調したい。 先に述べたコリンズたちの研究[5]もこの一例であるが、 補聴器[9]や、(神経系ではないが)生命維持装置の換気パターン[10] にノイズを混入させ機能向上を図ろうとの試みも始められつつある。 圧反射系との関連では、思春期の青少年や高齢者の一部、ある種の中枢 神経疾患、さらには起立性頻脈症候群、慢性疲労症候群といった機能性 疾患においては、姿勢変換や立位維持時に失神、立ち眩みといった起立性 調節障害が生じやすいことが知られているが、このような患者の脳幹に 何らかの方法でノイズを送り込み、中枢圧反射感受性を向上させると いうような機器の開発も可能かも知れない。

もちろん、補聴器の例から想像できるとおり、感覚感受性の向上は、 別にノイズによるものでなくとも構わない。すなわち、神経細胞の促通 入力方向があらかじめ分かっている場合は、それを用いれば良いでは ないかとの考え方もできる。しかしながら、ノイズの無方向性--特に 調節機能に関しては、促通・抑制両方向の感受性向上が必要となる場合が 多い--、あるいは順応耐性--神経系は持続的入力に対しては不感と なってしまうことが多いが、少なくとも上述の圧反射系についていえば、 直流の緊張性入力ではノイズと同様の効果が得られないとの成績を、筆者らはすでに 得ている--を考えると、生体へのノイズ印加は、幅広い生体機能の向上に 役立つものと考えられる。

稿を終えるにあたり、本研究の遂行に中心的役割を果たした2名の共同 研究者、日高一郎氏(現国立循環器病センター研究所)および野崎大地氏 (現国立身体障害者リハビリテーションセンター研究所)に謝意を表します。 なお、本研究は、文部科学省科研費補助金の助成により行われた。

(パリティ. 16(11), 2001より)

References

1
F. Moss, K. Wiesenfeld: The benefits of background noise. Sci. Am. 273(2): 50-53, 1995.

2
J. J. Collins, C. C. Chow, A. C. Capela, T. T. Imhoff: Aperiodic stochastic resonance. Phys. Rev. E 54: 5575-5584, 1996.

3
L. Gammaitoni, P. Häggi, P. Jung, F. Marchesoni: Stochastic resonance. Rev. Mod. Phys. 70: 223-287, 1998.

4
J. K. Douglass, L. Wilkens, E. Pantazelou, F. Moss: Noise enhancement of information transfer in crayfish mechanoreceptors by stochastic resonance. Nature 365: 337-340, 1993.

5
J. J. Collins, T. T. Imhoff, P. Grigg: Noise-mediated enhancements and decrements in human tactile sensation. Phys. Rev. E 56: 923-926, 1997.

6
D. F. Russell, L. A. Wilkens, F. Moss: Use of behavioural stochastic resonance by paddle fish for feeding. Nature 402: 291-294, 1999.

7
I. Hidaka, D. Nozaki, Y. Yamamoto: Functional stochastic resonance in the human brain: Noise induced sensitization of baroreflex system. Phys. Rev. Lett. 85: 3740-3743, 2000.

8
M. Usher, M. Feingold: Stochastic resonance in the speed of memory retrieval. Biol. Cybern. 83: L11-L16, 2000.

9
F. -G. Zeng, Q. -J. Fu, R. Morse: Human hearing enhanced by noise. Brain Res. 869: 251-255, 2000.

10
B. Suki, A. M. Alencar, K. M. Sujeer, K. R. Lutchen, J. J. Collins, J. S. Andrade, Jr., E. P. Ingenito, S. Zapperi, H. E. Stanley: Life-support system benefits from noise. Nature 393: 127-128, 1998.

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ノイズでヒトの機能を高める-ヒトの中の確率共振-

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The translation was initiated by Yoshiharu Yamamoto on 2001年10月31日 (水) 09時46分06秒 JST

...ただただ感心していた
素朴な子ども心が満足させられたという 意味であり、ザリガニや昆虫の感受性が本当にSRによって高められている かは、保証の限りではない。
...について、SRに特有な釣鐘型応答曲線が観察されたのである(図3e)
文献[7]では、様々なノイズ強度をランダムな順序で 与えた際も、同様の応答が観察された。すなわち、この釣鐘型応答は 純粋な時間効果ではない。
 


Yoshiharu Yamamoto
2001年10月31日 (水) 09時46分06秒 JST