脳と心 -水中と陸上でのヒト-

山本 義春 gif

March 25, 1999

はじめに

この小文は、昨今流行の「脳と心(こころ)」についてのものではない。 心といっても心臓のことである。

私事で恐縮だが、今を溯ること15年あまり前、初めて本格的に読んだ 科学論文が、Physiological Reviews誌の``Physiological adaptations in diving vertebrates.''[1]というものであった。 当時の指導教官の一人であった宮下充正教授(現東洋英和女学院大)から、 ヒトの水中運動の生理についてテーマをいただき、測定した心拍数をあれこれと いじっていた関係で目に触れたということである。水中での運動では呼吸に 制限がありgif、常識的にはより 「苦しい」はずなのに、運動中の心拍数があまり上昇しないという 観察結果が得られた。学部学生の私にはどうにも解釈できない結果で あった。この潜水動物の生理的適応に関する論文には、ちゃんと答えが 載っていた。もちろん当時の私が納得した答えであったが。

潜水動物とは、イルカやクジラなどの哺乳類やカモなどの水棲鳥類を 指すのであるが、これらの動物は体内の酸素貯蔵量と安静時代謝の比を はるかに凌ぐ長時間、潜水を行うことができる。潜行中、これらの 動物の体内では、徐脈や活動筋を含む各臓器の血管収縮が起こり、 致命的臓器である脳に血流を確保するような反射、すなわち潜水反射 (diving reflex)とか酸素節約反射(oxygen conserving reflex)と 呼ばれている反応が起こる。運動中の活動筋の血流さえも犠牲にする (もちろん活動自体は無酸素性代謝でまかなわれているのであるが)と いうこの反応は、潜行中のペンギンを捕獲し直ちに羽を切り落とした ところ、絞っても血液が出てこなかったという象徴的な記述とともに、 「致命的臓器としての脳」を私の脳裏に焼き付けた。ヒトにおいても 同様な反応が残存するという記述もあり、私の観察結果は、比較的 強度の高い運動中でもそのような反応がみられることを意味するのでは ないかなどと思い、本誌にささやかな論文を書いた[7]。1984年の ことである。これが私の初めての論文だった。

今回、編集委員の加賀谷淳子教授より、「研究生活のスタートにおいて 関わったテーマであると伺っております。その後、今日までの成果も 含めて、やさしく解説していただければ幸いです。」というお申し出を いただいた。どこでお聞きになられたのかは不明だが、それ以降この 問題にはあまり正面から取り組んでいない、という事情も出来れば お調べいただきたかった、などと愚痴をこぼしていても仕方がない ので、本題に入ることにしよう。

15年後

つい最近、同じPhysiological Reviews誌に、 ``Physiology of diving birds and mammals.''[4]と いう総説が発表された。

冒頭で述べたような潜行中の生体反応、およびその生理学的意義に関する 仮説を発見者の名にちなんでIrving-Scholander仮説と呼ぶ。代表的な 例としてWeddellアザラシの潜行中のデータを図1に示すが、潜行開始と ともに、60拍/分あった心拍数が10拍/分まで急激に低下していることが 分かる(図1C)。このとき各臓器への血流量は、脳を除いて大幅に減少する (図1A; -100 %に近い減少ということは「血流がほとんどない」という こと)。これは主として末梢血管抵抗の増大によるものとされるが、血管 抵抗の増大により、心拍数(一回拍出量はあまり変化しないので心拍出量 と言い換えてもよい)が低下しても脳への潅流圧が維持されるのである。 潜行中に血流が制限されるため、活動筋は無酸素性代謝を余儀なくされる。 その結果、潜行終了とともに動脈血乳酸濃度の急激な上昇が認められる (図1B)。

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Figure 1: Weddellアザラシの潜行中の生体反応。(A)各臓器への血流量、 (B)動脈血乳酸濃度、(C)心拍数。文献[4]より引用。

この最近の総説の著者であるButlerとJonesによると、Andersenの 総説[1]が発表された1966年から30年間の進歩は、 主として生理学的データの計測技術の発展により、自然界に生息する 潜水動物のありのままの姿を捉えることが可能となったことである という。その結果以下のような事実が明らかになった[4]。

  1. Irving-Scholander仮説は、主として実験水槽においてこれらの 動物を強制的に潜行させた際に得られたデータに基づくものであった が、自然界で観察される潜行において、それほど極端な潜水反射・ 酸素節約反射がみられるということはない(表1)。すなわち、ほとんどの 潜水動物は、有酸素性代謝の範囲内で潜行を行っている。ButlerとJones は、Scholander自身もこのことに気づいていたと指摘している。
  2. この自然潜行と強制潜行との差異は、動物種により様々である。 例えば表1をみると、強制潜行時に極端な徐脈がみられたアザラシの ような動物では自然/強制潜行間の差異が認められるが、より大脳の 発達したイルカやマナティのような種では、この差異が消失している。 マナティについていえば、いわゆる潜水徐脈がほとんど認められない。
  3. 長時間に渡る自然潜行においては、強制潜行時と同様の呼吸 循環系の応答がみられる。例えばアザラシにみられる自然潜行時の 最低心拍数は強制潜行時とほぼ同程度まで低下するが(表1)、これは Irving-Scholander仮説に合致した反応で、Andersenの時代から知られて いたとおり、その応答(徐脈)の遠心路は副交感神経系である。ただし、 このような反射とみなせるような生体反応であっても、いわゆる ``trained dive''を調べてみると、潜水という行動の条件づけ (conditioning)や習慣化(habituation)により変化することが分かった。
  4. 潜行中のこれらの動物では、潜行にともなう体温低下により、 代謝水準自体が低下し、潜水反射・酸素節約反射のような循環応答に 加えて、このことも長時間潜行を可能にする要因となっている。

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Table 1: 各種潜水哺乳類の潜行時心拍数。文献[4]より 抜粋。

ButlerとJonesは明記していないのだが、私は、この結果を酸素供給システム に起こった進化論上の変化として捉えたら面白いのではないかと考えている。 すなわち、これらの動物において、致命的臓器である脳を守る潜水反射・ 酸素節約反射は、どうやればうまくエサを捕れるかなど行動の進化により その基本的反応としての意義を失いつつあるのではないだろうか。いわゆる 大脳化の進行したイルカやマナティの例を出すまでもなく、動物はその行動 が洗練されればされるほど、捕食のために生存を脅かすというような危険な 状況を避けるようになると言えるのかも知れない。そして、この調節システム の大脳化という事態(もしあるとすれば)により、生命維持を目的としたより 基本的な反射がどのような系統発生的運命をたどるのか、興味が持たれる のである。このことをより詳細に調べるためには、表1で抜け落ちているイルカや マナティの自然潜行時最低心拍数を調べる必要があることは言うまでもない。 すなわち、これらの動物が本当に必要なときには潜水反射を用いて長時間 潜行を行うことがあるのか(あるいはその潜在能力があるのか)否かは、 その行動をつぶさに観察しないと何とも言えないのである。これらの動物の 行動範囲は広く、その観察は決して容易ではないが、その結果は、ヒトに おける酸素節約システムの意義を考える上でも貴重な資料になるものと 期待される。

余談だが、本年4月のアメリカ生理学会大会(Washington, D.C.)において、 このButler氏とJones氏によって、``Remote monitoring of physiological function''というオーガナイズド・セッションが開催されることになって いる。上述した通り、潜水動物の生理学に関する近年の進歩は、これらの 動物を、自然のままで遠隔モニタリングできる技術の発展なしには達成 されなかった。ある時はGPSを利用し、潜水のみでなく飛行さえ行う水鳥を 追跡したり、荒波にもまれるクルーザーからイルカに取り付けられた発信機の電波を 追いかけたり、北極海の氷上で穴掘りをしてアザラシが潜ってくれるのを じっと待っていたりと、実験水槽とはかけ離れた過酷な条件下で得られた データが進歩を演出したということである。実験的研究が隆盛の生理学で あるが、自然の理解のためにはこのような「フィールド・ワーク」が依然 として有効であることを物語っているようにも思える。セッションでは、 このような遠隔モニタリング技術に関する最近の話題が討論される予定である。 かく言う私も、約3ヶ月間に渡ってヒトの心拍数、体動を記録できる開発中の 携帯型生体信号記録装置[2]について紹介しようと思っている。 世間の「荒波」にもまれるヒトの行動・心理生理的特性については、やはり ありのままをモニタリングしてみないと何とも言えないような気がするから である。

もう一つ、この30年間の進歩が顕著であったのは、脳・神経科学の分野で あり、この分野でも潜水反射・酸素節約反射の脳内機序が次第に明らかに されつつある[5]。ただし、そこで得られた実験動物についての知見と、 例えば冷水への転落とかある種の極限状況におかれたヒトが奇跡的に一命をとり とめたという逸話的報告との間の距離は、未だ大きいと言わざるを得ないgif。 水中でのヒトの生体調節に潜水反射・酸素節約反射がどの程度の役割を 果たしているのかという点については、依然として十分に解明されていない ように思える。

脳か心か

再び私事となるが、その後Waterloo大学(Ontario, Canada)でのポスドク時代は、 上記のテーマと離れて重力負荷に対する心臓血管系の応答に関する研究を行う ことになった。いわゆる下肢陰圧試験とかティルト試験を用いて、下肢への 血液の貯溜を物理的に促進させ、その際脳灌流を確保するためにどのような 生体反応が起こるか調べるというものである[3]。大学院時代に はやったことのない実験だったので、いかにも頑丈そうな被検者の青年が最初 の実験で失神した時は驚いた。私は心拍数を見張っている役だったので、 彼の瞬時心拍数が、一拍毎に60(拍/分)、30、15、と低下して行き、最後には 10〜15秒間に渡って完全に停止したとき、その反応の異様さゆえ、コトの重大さ を忘れて、コンピュータの画面に見入っていた記憶があるgif

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Figure 2: 重力負荷時における血管迷走神経性失神発生のメカニズム。 文献[6]より引用。

この反応は、血管迷走神経性失神(vaso-vagal syncope)と呼ばれているもので、 朝礼中に子どもが立ち眩みを起こしたりするという起立調節障害との関連が 示唆されている。その大まかな機序を図2に示す[6]。要約すると、

ステージI
起立による重力負荷などによって血液が下肢へ貯溜し中心 循環の血液量・圧が低下すると、静脈還流の低下により一回拍出量(心拍出量)が 低下する。このとき生体は、主として右心房・肺動脈に存在する容積受容器 からの信号をもとに交感神経を緊張させ、筋や内臓への血管を収縮させること により(脳循環の)血圧を維持しようとする。
ステージII
この反応が間に合わなくなり動脈圧の低下が顕著になって くると、動脈血圧反射が加担してくる。その結果、心拍数が上昇、昇圧ホルモン の分泌が促進され、脳循環圧が維持される。
ステージIII
それでも間に合わなかった場合どのようになるかというと、 生体は緊急事態としてエピネフリンを分泌し、心臓の促進にかかる。しかしながら エピネフリンは末梢血管のβ受容体に作用し血管を拡張させてしまうため、 静脈還流量はむしろ減少する。心臓では、血液の還流がないのに(駆出)促進だけが 起こることになり、左心室の容積が次第に減少する。そしてこのことによる 左心室の変形を食い止めるため、心室に存在する機械受容器からの信号が 迷走神経反射を引き起こし、心臓が急激に抑制される。その結果脳循環圧が 低下し失神を起こす。

ということになる。 したがって血管迷走神経性失神の直接的な原因は、最後の心臓迷走神経性反射 ということになるのだが(これを発見者の名にちなんで「Bezould-Jarisch反射」 と呼ぶ)、良くよく考えてみると、この反射は脳を犠牲にして心臓を守っている と言えないこともない。少なくともこの場合、前節の潜水反射・酸素節約反射の 場合と異なり、「致命的臓器としての脳」という印象はかなり薄いものといえる だろう。

よく知られているように、進化論上のヒトの大きな特徴は、大脳皮質の発達 および直立姿勢の獲得である。特に後者と関連して、起立調節障害のような 事態は、循環系が重力の影響をまともに受けて脳循環の安定性を脅かされた 結果と考えられるのであるが、その場合なぜ最も重要な(はずの)脳を守らない のか、私には理解できないのである。脳の重要性が増した(はずの)ヒトに このような反応がみられるというのだから、なおさらである。脳はそれ自身の 死活が心臓に握られているという事情を認識しているとでもいうのだろうか。 この私の疑問は取るに足らないものかも知れないが、誰か答えをご存知の方が いれば、是非ともお教えいただきたいと思うgif

謝辞

資料収集にご協力いただいた北出篤史氏(東京大学大学院教育学研究科) に謝意を表します。本研究の一部は、文部省科学研究費補助金基盤研究B (課題番号10480005; 1998年)、宇宙環境利用に関する公募地上研究 (財団法人日本宇宙フォーラム; 1997年)、および科学技術庁振興調整費 (1996年)の補助により行われた。

(体育の科学, 1999 (印刷中) より)

References

1
Andersen, H. T. Physiological adaptation in diving vertebrates. Physiol. Rev. 46: 212-243, 1966.

2
青柳直子ほか. 心拍変動長期モニタリングシステムの開発. 生体・生理工学シンポジウム論文集 13: 307-310, 1998.

3
Butler, G. C., et al. Heart rate variability and fractal dimension during orthostatic challenges. J. Appl. Physiol. 75: 2602-2612, 1993.

4
Butler, P. J. and D. R. Jones. Physiology of diving of birds and mammals. Physiol. Rev. 77: 837-899, 1997.

5
Reis, D. J., et al. Central neurogic neuroprotection: central neural systems that protect the brain from hypoxia and ischemia. Ann. N. Y. Acad. Sci. 19: 168-186, 1997.

6
Rowell, L. B. Human Cardiovascular Control. Oxford University Press, New York-Oxford, 1993.

7
山本義春. 水中運動における呼吸制限の影響. 体育の科学 34: 518-523, 1984.

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脳と心 -水中と陸上でのヒト-

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The command line arguments were:
latex2html -split 0 jres_12.

The translation was initiated by Yoshiharu Yamamoto on 1999年03月25日 (木) 14時41分45秒 JST

...義春
東京大学大学院教育学研究科
...制限があり
実際にはこの制限をきつくしてみた。
...とめたという逸話的報告との間の距離は、未だ大きいと言わざるを得ない
この現象には、体温低下の影響や被害者の多くが子どもであること など、Irving-Sholander仮説では考慮されていない多くの要因が絡んでいる。
...を忘れて、コンピュータの画面に見入っていた記憶がある
もちろん私以外が適切な処置を施した。
...いれば、是非ともお教えいただきたいと思う
Bezould-Jarisch反射のような生理学的知見も、所詮イヌなどの実験動物での 観察によるものである。ヒトの生体調節系が「なぜ」現在のような構造をしている のかという問いについては、実験室に篭っているだけでは答えが見えてこないのでは ないか、というのが、潜水反射の研究からスタートして15年経た、現在の私の 実感である。
 


Yoshiharu Yamamoto
1999年03月25日 (木) 14時41分45秒 JST