March 25, 1999
ヒトの心拍変動は一見不規則である。この不規則性が何に由来するのか、 これが本論文のテーマである。筆者らのものを含めて、いくつか最近の アプローチを紹介する。
心拍変動とは一拍毎の心電図R-R間隔(RRI)のゆらぎのことであるが、 これは一回拍出量(SV)、総末梢抵抗(TPR)などとともに、動脈血圧調節 システムの制御量である。制御対象はもちろん動脈血圧、特に収縮期 血圧(SBP)である。このシステムは、典型的な負のフィードバック調節 を実現している(図1)。
Figure 1: 動脈血圧調節システムの概念図(説明本文)。
血圧の変化が脳幹反射により交感・副交感神経系を介して制御量に反映
される際の伝達関数をG、および制御量の変化が主として心血管系の
機械的な特性に従って制御対象である血圧に反映される際の伝達関数を
Hとする。これらの伝達関数はもちろん生理学的な実体があるのだが、
それにはあまり深く踏み込まずに適当な数学モデル、例えば自己回帰(AR)
モデルとか自己回帰−移動平均(ARMA)モデルを仮定し、これらの要素が
といった無相関な白色ノイズにより駆動された結果と
して制御量・制御対象にみられるゆらぎを表現しようというのが、これ
まで頻繁に用いられてきた手法であった。この正統(?)なモデリング手法
に関する最新の知見は、例えば文献[7]などに詳しいので、ここ
では敢えて触れない。
もう少し生理学的実体に踏み込むと、有名なDeBoerらのモデル[6]と なる(図2)。多少の正確さを犠牲にしてこのモデルの要点を挙げると、
Figure: DeBoerらのモデル[6](透過ブロック)のその後。
○1〜○4はSeidelとHerzel[19]
による改変、○5および○6は筆者らの最近の
成果による。
このモデルのよいところは、より生理学的であるという点に加えて、図1の ような駆動ノイズ源を必要としなくてもSBPあるいはRRIの変動を作り 出せるという点にある。図1のようなフィードバック・システムのモデルに おいて「駆動ノイズ自体がどこから来るのか」と問うと、何しろ心拍変動は 健常成人では標準偏差〜100 msのオーダーになる[24]ので、 このような明らかに生理学的範囲の頻脈/徐脈を例えば熱的な環境のゆらぎ 等に帰することは困難であると思われるからである。そしてこのDeBoer らのモデルは、心拍変動にみられる呼吸と同期した変動や周期10秒程度の 血圧と同期した変動[12, 17]を、駆動ノイズなしに再現する。
一方でこのモデルは、RRIにみられる上記の規則的な変動
再現しない。呼吸と同期した変動については図2のResp.として天下り式に与えて
いるのであるから当然のことであるが、周期10秒程度の変動の出現についても、
6拍(〜5秒)前までのSBPの移動平均としてRRIが決まるのであるから、(最初の
5秒分が低ければ次の5秒分が高いというように)ある意味で当たり前とも
いえる。そして、ヒトの安静時心拍変動は一般に広帯域で、特に観測時間に
比例してゆらぎのパワーが増大するようなフラクタル的性質をもつという
観察結果[11, 24](図7B)を再現できないのである
。
最近、SeidelとHerzel[19]は、広帯域な(すなわち一見不規則な) 心拍変動をモデルにより再現するために、DeBoerらのモデルに改変を加えた。 DeBoerらのモデルと異なる点は、
生理学的により現実味のある仮定を取り込んだ代償として、このモデルには
積の効果、
位相特異性、むだ時間といった、生体におけるカオスのレシピとして知られて
いる[9]様々な要素が混入している。このモデルでシミュレーションを
行うと、呼吸性不整脈が現れるのはここでもResp.を天下り式に与えている
ので当然であるものの、交感神経伝達のむだ時間を大きくしていくと、周期約10秒
のRRIの変動が自然に発現するようだ[19]。自然にという意味は、
これがリミットサイクルへの分岐として観察されるということで、一度分岐
すれば、むだ時間の多少の変化があってもその周期はあまり変わらないという
ことである。また、圧受容器の求心性信号から迷走神経トーヌスへの比例定数
を変化させていくと、リミットサイクル、トーラスと分岐をくり返し、値に
よってはカオス的な変動とそれにともなう広帯域スペクトルが観察されると
いう(図3)。
Figure 3: 圧受容器の求心性信号から迷走神経トーヌスへの比例定数を
変化させた際のRRIのスペクトル(上からトーラス、リミットサイクル、
カオス; 文献[19]より引用)。
SeidelとHerzelの論文は、一般に規則的なリズムであるとされているSBP、RRI の周期約10秒の波(Mayerの波)と一見不規則でノイズ様の心拍変動が、同じ システムからノイズ源を必要とせずに発生する可能性を示したとの点で 画期的である。がしかし、図3下段のスペクトルをみると、いかに広帯域と いっても、実際のヒトの心拍変動のスペクトル(図7B)とは未だほど遠い との印象は拭えない(文献[24]も参照)。これはいかなる理由による のであろうか?
理由の一つは、DeBoerらのモデルにしてもSeidelとHerzelのものにしても、
図1でいう伝達関数Hには非線形性をふんだんに取り入れているものの、
脳幹の制御中枢の伝達関数Gは線形(かつ単純)であるという点が挙げられる。
確かに動脈血圧反射曲線がシグモイド型をしていても、正常動作点まわりに
限っていえば線形システムとみなせないこともない。しかしながら、反射
曲線がシグモイド型を呈する背景に、そもそも圧受容器や昇圧/降圧中枢の
神経細胞の非線形性が存在することを考えると、定常反応曲線の形状のみ
から線形性の仮定を置くことが出来るかどうか、今一度検討が必要なように
思われる。
今一つは、ノイズ源なしの決定論的モデルのみでヒトの心拍変動の多様性を 説明しきれるかどうかという点である。複雑な生体システム全体の中では 動脈血圧(反射)調節システムというのはあくまでも一部分システムであり、 この部分システムにとってはノイズ様の変動であっても、システム全体から みれば意味のあるゆらぎである(しかし白色ではない)といった事情が十分に 考えられる。以下では、この問題にアプローチする。
ところで、筆者らのこれまでの成績では、広帯域スペクトルを持つノイズ様 変動としての心拍変動のフラクタル成分は、副交感神経遮断でその性質が変化 する[25]ので、その媒体(mediator)は自律神経系であること、 しかしながら、血圧[4]や呼吸[8, 21]の変動との同時 測定を行った限りは、これらの信号との関連は希薄であること、循環系の 運動負荷[13, 22]や重力負荷[5]によってその性質が 変化することより単なる(無秩序な)ノイズであるとは考えづらいこと、 などが明らかになっている。さらに、ある種の精神作業によっても心拍変動 のノイズ様成分に変調がみられること[10]を考え合わせると、 このような心拍変動の不規則性の一端は、視床下部など高次中枢の活動 を反映しているものではないかとの仮説が立つ(図2、○5)。この仮説は、 睡眠モデルを用い、脳の様々な部位の活動レベルに乖離がみられた際の 心拍変動を調べることによって、より直接的に調べることができると 考えられる。
Figure 4: 睡眠段階別にみた脳波(EEG)、眼電図(EOG)、心電図R-R間隔(RRI)の
記録例(睡眠段階については本文参照)。
そこで若年健常成人9名について、夜間の睡眠中に脳波(EEG)、眼電図(EOG)、 一拍毎のRRI、SBP、瞬時呼吸曲線(ILV)などを連続的に記録し、EEG、EOGなどの データをもとに睡眠段階を覚醒期(Awake)、軽睡眠期(Light; 第1および第2段階)、 深睡眠期(Deep; 第3および第4段階)、およびREM睡眠期(REM)に分類、その際の 心血管系諸変量の変動を調べてみた(図4)。これをみる限り、大脳の深い休息期で あるとされる深睡眠期の心拍変動の時系列にはフラクタル成分特有の低周波・ 長周期の「うねり」(英語では``waxing and wanning''などともいう)がみられず (図4C)、逆に夢見との関連が深いとされるREM睡眠期の心拍変動(図4D)は、覚醒 期の心拍変動パターン(図4A)に類似しているとの傾向が認められる。また、 一過性の眼球運動と前後して、相動性の頻脈(RRIの減少)が観察されることも みてとれる。
Figure 5: 睡眠段階別にみた心電図R-R間隔(RRI)、収縮期血圧(SBP)、および
瞬時呼吸曲線(ILV)のパワースペクトル。スペクトル密度は被検者毎に総パワー
で標準化してある。
各睡眠段階が10分以上持続した部分から10分間のRRI、SBP、ILVデータを 切り出しそのパワースペクトルを求めると(図5)、心拍変動については、 覚醒、軽睡眠、深睡眠と眠りが深くなるにつれて低周波領域のパワーが 相対的に減少し、規則的な呼吸性変動(0.2〜0.3 Hz)が主な成分となる様子 が示される。そしてREM睡眠期においては、再び覚醒期と同様に広帯域な 低周波成分が強調されていることがわかる。一方でSBPのスペクトルは、睡眠 段階によらず概して広帯域なノイズ様成分の存在を示唆している。また ILVについては、睡眠深度の上昇とともに呼吸自体の規則性が上昇するとい う結果が得られたが、フラクタル成分特有の低周波・長周期ゆらぎはほとんど みられなかった。
Figure 6: 心電図R-R間隔(RRI)、収縮期血圧(SBP)、および瞬時呼吸曲線(ILV)
の総パワーに占めるフラクタル成分の割合。A, L, D, Rはそれぞれ覚醒期、
軽睡眠期、深睡眠期、REM睡眠期を表す。値は9名の平均値 標準誤差で、
; P < 0.05 from A and R,
; from A, L, and R, *;
from A.
このことを定量的に表すために、主としてRRIやILVの呼吸性変動にみられる 規則的な成分波と不規則なノイズ様成分とを周波数領域上で分離評価できる 粗視化スペクトル法[23]を用い、RRI、SBP、およびILVの各時系列 に占めるフラクタル成分の割合を評価すると(図6)、確かに睡眠深度が上昇 するにつれて、心拍変動すなわちRRI時系列における低周波・長周期ゆらぎの 主因であるフラクタル成分の割合が有意に低下していることがわかる。 SBP時系列についてはこのような傾向は認められず、またILV時系列は概して 規則的であるが、睡眠深度の上昇にともなってその規則性が増すとの結果が 得られた。
特別な認知活動を行わなくとも覚醒時のヒト大脳皮質の活動には常に背景活動
が存在し、近年ではこの``ongoing activity''の重要性が指摘され始めて
いる[1]。本研究の結果は、このような大脳皮質の(背景)活動が
視床下部などの情動脳を介して直接的に、あるいは呼吸パターンを修飾する
ことにより、脳幹中枢における反射システムにノイズ様の変調を与えている
可能性を示唆するものと思われる。ただもしそうであるとして、これが
何のためなのか、どのような機能的意義を持っているかについては、現在の
ところ全く不明である。
前節において対象としたRRIの変動は、記録時間が10分ということもあり、 低周波・長周期といってもせいぜい周期5分程度の変動であった。最近では これを``very-low frequency (VLF) oscillation''と呼ぶようであるが[14]、 そもそも観測時間に比例して心拍変動のパワーが増大する(べき型のスケーリング則 をもつということ)という観察結果は、数時間〜1日という時間スケール (``ultra-low frequency; ULF''とも呼ばれる)で得られたものであった [11, 18]。このULF帯域のパワーが低いほど心筋梗塞患者の生存率が 低くなるとのBiggerらの報告[2, 3]も影響してか、近年、ULF帯域 における心拍変動の起源についての研究が盛んになりつつある(ように思える)。
ULF帯域における心拍変動の解析は、単にRRIを沢山集めなければならない という技術的な問題の他に、図1のような比較的単純なシステムに、活動−休息や 睡眠−覚醒といった行動のリズム、内因性の概日リズムなどの要素が入り込む というような基本的難点を抱えている。また信号処理の立場からみても、概日 周期に近い心拍変動の大きさを精度良く推定しようとすれば、従来のホルター 心電計の記録時間(24〜48時間)では不十分である。
このような観点から、最近筆者らは、半導体メモリを用いた小型生体信号
記録装置(縦120mm×横65mm×幅22mm、重量200g)を作成し、RRIを精度1 msで、
内蔵の加速度センサーにより鉛直方向の体動(BM)を1秒毎に、約1週間に渡り記録
するという試みを行っている。図7Aに記録例を示すが、一拍毎の
微細な心拍変動に加えて、起床にともなうRRIの一過性の減少、就寝後の
緩徐な増加が、それぞれBMの増加、減少と同期して観察される。活動−休息の
反復する時間帯を詳細にみても同様の傾向があり、被検者の生活リズムや行動
リズムによるRRI、BMの変化を十分に反映するデータが取得されていることが
わかる。
Figure 7: (A) 約6日間に渡る心電図R-R間隔(RRI; 実線)と体動(BM; 破線)の記録例。
(B)10秒間の平均値から構成した時系列のパワースペクトル(両対数表示
で対数周波数-5が概日リズムに相当する)。被検者は4名。(C)RRIとBM
(10秒平均値)のコヒーレンス。クロススペクトルの推定精度を上げる
ために、約2日分のデータから時間シフトをともなった20個の部分列を
取り出し、その集合平均として計算してある(Bも同様)。
さて、ULF帯域におけるパワースペクトルであるが、先行研究[11, 18] 同様べき型の一様なスケーリング則を満たしているようにみえる(図7B)。 BMについても同様な結果であった。ただし対数周波数-5という、いわゆる 概日リズムの周波数より低い周波数帯域ではスペクトル密度が低下する傾向 がみられる。約一週間という記録長からいっても、この最長周期の成分の 推定精度はある程度の水準を満たしていることが期待されるので、ULF帯域 における心拍変動がべき型のスケーリング則を持つといっても、それはせい ぜい一日以内の周期に関するものであるといえそうである。
興味深いことに、RRI、BM両者のクロススペクトルを計算しコヒーレンスを 求めると(図7C)、概日リズムの周波数において非常に高い(ほぼ1である)こと は予想されたことであるが、対数周波数-4.5〜-4.0(周期2.8〜8.8時間)およ び-3.8〜-3.4(0.7〜1.8時間)の周波数帯域で、両者の相関が高くなるという 傾向がみられた。
この結果をどのように解釈すべきか、実に悩ましいのである。脳波からみた
日中の覚醒水準の変動に1.5〜3時間の周期性があるという報告[15]を
考えれば、活動・頻脈/休息・徐脈の規則性が現れたものと理解できないこと
はないが、それならばなぜパワースペクトルにそのような規則性(周波数特異
性)がみられないのか、説明が困難である。小さな規則波で両対数表示をする
と隠れてしまうほどのものなら、なぜ二乗コヒーレンス〜0.5もの相関(相関
係数に直せば〜0.7である)が出るのか、これも不明である。穿った見方をすれ
ば、元々図7Aのような時系列は基本周期すなわち概日リズムの周期性が強いの
でその高調波が現れたのであろうとなるが、そもそもこれはコヒーレンスに
ついてのみであり、本来高調波がみられるはずのパワースペクトルについてで
はない。さらに、図7Cの横軸は対数表示であり、これがもし高調波であると
すると、その周期が基本周期の となっているようにみえる。もしこのような奇妙な周波数構造が
本当にべき型にスケールされたRRI、BM双方のパワースペクトル背後に存在する
とすると、それはRRI、BMの時系列が
のような成分を含んでいることになる(これはWeierstrass関数そのもの である![20])。我々の行動/活動(BM)にこのような決定論的フラクタル 則が隠されているとでもいうのだろうか?
少し頭が痛くなってきたので、この辺りで終わりにして、心拍変動の長周期 ゆらぎには行動リズムの微妙な影響が背後に存在するかも知れないという 仮説(図2、○6)だけ加えておく。
本研究は、文部省科学研究費補助金基盤研究B(課題番号10480005; 1998年)、 宇宙環境利用に関する公募地上研究(財団法人日本宇宙フォーラム; 1997年)、 および科学技術庁振興調整費(1996年)の補助により行われた。
(Therapeutic Research, 1999 (印刷中) より)
心拍変動の起源をめぐって-最近の話題
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latex2html -split 0 jres_11.
The translation was initiated by Yoshiharu Yamamoto on 1999年03月25日 (木) 14時41分41秒 JST