インターネット時代におけるいじめ被害の影響に関する研究:感情制御に着目した介入可能性の検討
第I部 本研究の問題意識と構成
近年いじめの様相は多様化しており,学校内だけではなくネット上でも生じるようになっている。いじめ被害がもたらす影響に関する先行研究をレビューした結果,いじめ被害経験は長期に渡り当事者を苦しめることが,実践現場で指摘されているだけでなく,大規模調査においても実証されていることが示された。以上を踏まえ,本稿の全体的な目的はいじめ被害経験者が短期・長期的に悩まされる悪影響の背景にある介入可能な共通因子を探り,その悪影響を緩和するような援助アプローチを検討することであることが示された。
この目的に基づき,本論文は7つの研究からなる6つの部で構成されている。まず第II部では,研究1として本邦におけるいじめの多様化に関する実態調査を実施し,続く第4章では研究1の結果を踏まえ,本研究で着目する介入ターゲットを設定した。第III部と第IV部では,対人的感情制御方略を測定する尺度を新たに作成し,第4章で生成された仮説モデルの検証を行った。続く第V部では,高い感情制御能力がいじめ被害の悪影響を弱められるか否かについて検討した上で,感情制御能力の向上可能性について検討した。第VI部では総合考察として,本論文の学術的意義と臨床的意義を論じるとともに,今後の課題と展望について言及した。
第II部 本研究の着眼点
国内のネットいじめ経験に関する実態把握やその影響に関する検討が寡少と考えられたため,まず研究1として中高生を対象とした大規模横断データを用いて国外で得られている結果と同様のものが認められるかを検討した。その結果,ネットいじめ被害(CV)と加害(CP)が国内の中高生においても経験されていること,また,国外研究と同様に本邦においてもCV経験の有無が抑うつ・不安と関連することが示唆された。
いじめ被害は様々な悪影響を及ぼすことが示唆されているが,全ての当事者がこれらの悪影響に悩まされるわけではないであろう。このような「傷つき体験」とその「悪影響」における個人差を説明するレジリエンス要因の検討が進められているが,いじめ被害に関する研究ではソーシャルサポートの知覚や利用がいじめ被害の影響を緩衝しうることが示唆されてきた。しかしながら,対人関係で傷つきを経験した当事者は,必ずしもサポート資源を有していないと考えられるため,今後は向上可能な内的資源に着目することが重要と考えられた。この点を踏まえ先行研究をレビューしたところ,当事者が悩まされる感情に関わる精神病理の背景要因として,感情制御能力の不全や困難さがこれまで議論されてきたことが示された。感情制御能力に関する研究をレビューした結果,感情制御能力が種々の適応指標と関連すること,また,トレーニングや日常経験により高められる能力であることが示され,以上の点からいじめ被害の影響を緩衝しうる要因として着目する意義は大きいと考えられた。
感情制御能力を高めるために,これまではプログラムの開発・実施が進められてきたが,このようなオフライン(日常生活から切り離された状況)な体験よりも,オンライン(日常生活)な体験を通した感情制御能力の向上が,応用の容易さを考慮すると有効であることが先行研究にて指摘されている。日常経験を通した感情制御能力の向上可能性を検討した研究をレビューしたところ,いずれの研究も「適切な」感情制御方略の使用経験が感情制御能力の向上に寄与することを示唆していた。これらの研究は,いずれも事前に方略の「適切さ」を仮定し調査を実施していたが,近年は方略の「適切さ」が様々な要因に規定されること,また,感情制御の社会的側面に着目した研究の不足が指摘され始めている。そのため,感情制御能力の向上可能性を検討するにあたっては,まずこれらの課題について検討することが必要と考えられた。また,支援アプローチの検討にあたって,本研究では特にICTを活用した経験サンプリング法(ESM)に着目した。これは,ESMが日常経験の測定にとどまらず,自らの感情・思考・行動パターンへの認識を高める方法としても注目を集めていること,また,ICTを活用することで対人関係の傷つきから身近なサポート資源が乏しい人にも働きかけることが可能になると考えられたためである。
以上を踏まえ,本稿で実施される研究は,(1)近年注目を集め始めている対人的感情制御(IER)と認知的感情制御(CER)の関係について検討することで個人と環境との相互作用により展開する日常的な感情制御プロセスについて示唆を得ること,(2)いじめ被害経験がもたらす悪影響を緩和する上で情動コンピテンス(EC)が重要な介入ターゲットであると確認すること,(3)ICT活用によるECの向上可能性を検討することを目的とした。第III部 対人的感情制御方略の使用傾向に関する基礎研究(研究2,3)
第III部の研究2では学生310名を対象とした質問紙調査を実施し,分析の結果,自らの感情の制御を目的とした7種類の対人的感情制御方略を測定できる34項目の項目群が得られた。7方略は,「相手を不快にする」,「一緒に楽しいことをする」,「笑い話にする」,「一緒に考え込む」,「安心を確認する」,「一緒に問題解決」「不満をこぼす」であった。また,使用傾向における性差や,精神的健康指標との関連からその適応性について示唆を得た。次に研究3では20代から60代の1000名を対象とした質問紙調査を実施し,対人的及び認知的方略の使用傾向における年齢差・性差を検討したところ,国外の先行研究の指摘と同様に,本邦においても加齢とともに適応的な方略の使用傾向が高まる可能性が示唆された。このことから,先行研究が示唆するように,加齢とともに比較的適応的な感情制御が行なわれている可能性があること,また,成人期以降の中でも特に若年層において感情制御困難が顕著である可能性が考えられた。
第IV部 ICTを介した感情制御の測定に向けた研究:対人的感情制御の機能の検討(研究4,5)
第IV部では,対人的感情制御(IER)の機能を検討することを目的に,認知的感情制御(CER)と抑うつ・不安の関連を媒介・調整する要因としてIERを想定し,検討した。まず研究4では研究3と同様のデータを用いて検討したところ,CERと抑うつ・不安の関連が対人的方略の使用傾向により媒介・調整されていることが示唆された。このことから,改めて「感情制御方略」と「精神病理傾向」の関連が単純な対応関係にないことが示唆された。本研究の結果のみから媒介及び調整モデルのどちらがより妥当かを判断することはできないが,抑うつ・不安と直接的な関連を示す対人的方略が少ないため有意な媒介効果を示したのが2方略のみである一方,有意な調整効果を示したのが5方略であったことなどを踏まえると,IERの機能を捉える上では調整モデルを想定することが有効である可能性が考えられた。
次に,研究5ではCERと日常的な気分との関連におけるIERの機能の検討を目的に,大学生・大学院生40名(分析対象者はn=32)を対象として1週間(1日4通知)のESM調査を実施した。なお,分析に際しては研究4の結果を踏まえ,調整モデルを想定した。分析の結果,質問紙調査で得られた結果と同様に,CERとネガティブ気分の関連をIERが調整していることが示唆された。以上の結果から,認知的方略と「精神病理傾向」や「気分」が従来想定されていたように単純な対応関係にはなく,認知的方略の適応性を議論する上では認知的方略に加え,対人的方略の使用傾向やそれぞれの使用方略のバランスを考慮する必要性が考えられた。
第V部 ICTを用いたいじめ被害経験者への支援可能性の検討(研究 6, 7)
研究6では,いじめ被害と抑うつ・不安の関連における情動コンピテンス(EC)の緩衝効果を検討することを目的に,中高生を対象とした大規模調査データを分析した。その結果,CVは従来型いじめ被害(TV)を統制した上でも抑うつ・不安と正の関連を示し,このことからCVはTVと同様にメンタルヘルスに悪影響を及ぼす可能性があると考えられた。また,ソーシャルサポートの影響を統制した上でも,TVとEC(自己領域)の交互作用が有意であり,単純傾斜検定の結果,EC(自己領域)の高さはTVが及ぼす悪影響を弱める可能性が示唆された。すなわち,ECのうち,自己情動を扱う能力を高めることが,特にTVの影響を緩衝するのに有効であることが示唆された。
以上を踏まえ,研究7ではいじめ被害経験者のECの向上可能性の検討を目的に,18歳から39歳のいじめ被害経験者を対象として,ICTを介したESMの効果に関する研究を実施した。対象者は介入群(ESM実施群)と統制群にランダムに割り振られ,介入群に割り振られた対象者には2週間のESM調査(1日5通知)への回答を求めた。分散分析の結果,介入群におけるEC(自己領域)得点の時点間の有意な変化は認められなかった。しかし,個人差要因の影響を考慮した解析を実施した結果,過去に受けたいじめ被害の辛さが低い場合,もしくは最も直近に経験されたいじめ被害が高い年代においてであった場合にのみ,ESMの回答経験が有意にpost時点での感情制御困難性(DERS)得点を高めることが示唆された。このことは,以上の条件に当てはまる場合においてのみ,感情制御経験について振り返り回答することが自らの感情制御の困難さ(苦手さ)への認識を高める可能性がある,ということを意味する。以上から,自らの感情制御経験を振り返り回答する経験が,いじめ被害経験者のECを高めるわけではないものの,一定の条件下においては,自らの「感情制御の苦手さ」への認識を高めることが示唆された。
第VI部 総合考察
本論文が持つ主な学術的意義として,(1)従来型及びネットいじめ被害がもたらす影響やその緩衝要因について大規模な調査データを用いて示唆を得た点,(2)対人的方略について,認知的方略との関連からその機能について示唆を得た点,(3)ECの向上可能性について従来とは異なるアプローチで検討を行った点が挙げられた。臨床的意義としては,感情制御方略のアセスメントや介入と臨床心理実践におけるICTの活用可能性について示唆を得た点が挙げられた。本研究の課題・展望としては,(1)研究によってサンプルサイズが小さい,属性に偏りがあること等が課題であり,引き続き異なるサンプルに対して同様の調査を実施し知見の妥当性を確認する必要があること,(2)本研究で着目した情動コンピテンス(EC)概念や関連する研究が近年注目され始めた新しい概念であること,(3)ESM調査で使用された自己報告式の調査に加え,今後は対象者の主観が介在しないデータを自動検知・取得し多角的に経験を捉える試みが求められること,(4)感情制御能力の向上にはESMだけではなく専門家の関与や専門知識の提供が必要と考えられること,などの点が考察された。