Shimoyama laboratory, Department. of Clinical Psychology, Graduate School of Education, The University of Tokyo, Japan

樫原潤 博士論文要旨(2016年)

うつ病罹患者に対する信念の構造の解明とスティグマ低減に向けた方策の効果検討


第1章 序論

うつ病を含む気分障害の患者数は,日本において110万人以上にのぼる(厚生労働省,2014)。罹患者に対する知識啓発と非罹患者の間でのゲートキーパー機能の充実化を柱とした厚生労働省(2010)の指針に代表されるように,近年のうつ病対策においては,罹患者と非罹患者の双方への働きかけが重視されている。

上記を踏まえ,うつ病罹患者と非罹患者の双方への働きかけを進める上で障壁となる,非罹患者が抱くスティグマ的信念(偏見)の問題に着目し,先行研究のレビューを実施した。レビューの結果,先行研究のほとんどが,社会的望ましさバイアスの影響が懸念される質問紙尺度を用いた検討を行うにとどまっていたことが示された。この点を踏まえ,1潜在尺度(刺激語をすばやく分類する課題を実施する際の反応時間を指標とする尺度)を新たに用い,従来の知見を批判的に検討する必要がある,2うつ病の場合に特有のスティグマ的信念は何か,スティグマ低減に有効な方策は何か,先行研究に代わる知見を実証的に示す必要がある,といった研究課題を提示した。

具体的には,以下の4点のように本論文の目的を設定した。

  1. うつ病罹患者に対するスティグマ的信念を検討する際,「罹患者の責任」や「危険」という内容の信念に着目することが適切なのか,潜在尺度を用いて批判的に検討する(→第2章)。
  2. うつ病に関する知識啓発のもつスティグマ低減効果が潜在尺度上でも確認されうるの か,批判的な検討を行う(→第2章)。
  3. うつ病罹患者の場合に特に抱かれやすい信念としてどういった内容のものがあるか, そのうちスティグマ的といえるものは何か,探索的に検討する(→第3章)。
  4. どのような方策を用いれば潜在尺度上でもスティグマ低減効果を確認できるのか,実 験を実施して検討する(→第4章)。

第2章 既存のスティグマ理論に対する批判的検討―BriefIATを用いて―

研究1:予備研究a

潜在尺度のひとつである簡略版潜在連合テスト(BriefIAT)の開発に向け,うつ病になる原因を「罹患者の責任」に帰属する際にどのような要因が挙げられやすいのかを検討した。大学生71名から,「うつ病になる原因に関する偏見」についての自由記述を収集し,カテゴリ分類を実施した。その結果,「罹患者の性格・資質の問題」に言及する大カテゴリの中で,「心の弱さ」に該当するラベル数が最も多いことが示された。

研究1:予備研究b

BriefIATにおいて用いる刺激語の選定を行うことを目的とした。「うつ病―身体疾患」,「心が弱い―心が強い」,「危険な―安全な」という3種類のカテゴリ対について20個ずつの刺激語候補を事前に作成した。大学生・大学院生25名を対象に調査の結果をもとに,カテゴリの内容を反映している度合いの評定値が大きいなどの基準を 満たした候補の中から,24個の刺激語を選定した。

研究1:本研究

130名の大学生に対し,生物学テキスト,心理社会テキスト,生物・心 理・社会テキストのうちいずれか1種類の知識啓発テキストを提示し,スティグマ的信念が変化するかどうかを検討した。啓発前のデータのみを用いた分析では,主な結果として,「危険」という信念に関しては,質問紙尺度とBriefIATの平均値がどちらも0点より有意に小さい(うつ病罹患者を「危険」とはみなさない傾向が存在する)ことが示された。啓発直後と1か月後を含めた3時点のデータを用いた分散分析では,BriefIAT上で時点の主効果や群×時点の交互作用効果が有意とならなかったことが示された。以上を踏まえ,1「危険」というスティグマ的信念は,うつ病罹患者に対してはそもそもあまり抱かれないものである,2うつ病発症の原因論に関する知識啓発テキストを提示しても,潜在的なスティグマ的信念を顕著に低減させることは困難である,と考察した。

第3章 うつ病罹患者に対する信念の構造に関する検討―プロトタイプ分析と質問紙実験を用いて―

研究2a,2b

うつ病罹患者に対する信念の中でプロトタイプ(典型)的なものを明らかにすることを目的とした。研究2aでは,大学生136名を対象とした調査を実施し,うつ病になる原因とうつ病罹患者の特徴に関する自由記述を収集してカテゴリ分類を行った。研究2bでは,大学生182名を対象とした調査を実施し,研究2aで検討したカテゴリ内容を反映させた質問項目を回答者に提示して,各項目に記載された考えをどの程度支持するかの量的な評定を求めた。その結果,「ものごとを抱え込む傾向」や「まじめ・がんばりすぎる」という内容がプロトタイプ的であることが示された。

研究3a,3b

うつ病罹患者に対する偏見の中でプロトタイプ的なものは何かを明らかにすることを目的とした。研究3aでは,大学生74名を対象とした調査を実施し,うつ病になる原因とうつ病罹患者の特徴に関する偏見として何を想起するか,自由記述を収集してカテゴリ分類を実施した。研究3bでは,大学生155名を対象とした調査を実施し,研究3aで検討したカテゴリ内容を反映させた質問項目を回答者に提示して,各項目に記載された考えをどの程度典型的であるとみなすかの量的な評定を求めるとともに,内容がネガティブでない項目があった場合にはその項目を報告するよう求めた。これらの評定の結果から,プロトタイプ的な偏見とみなせるものは「心の弱さ」や「暗い」という内容であると考察した。

研究4

研究2aから研究3bにかけて検討した信念と,うつ病罹患者に対する対人的拒絶・サポート行動の意図との関連性を,質問紙実験(N=186)を用いて検討した。参加者には,うつ病罹患者と接して特定の信念(「ものごとを抱え込む傾向」「まじめ・がんばりすぎる」「心の弱さ」「暗い」)を抱いた場面を想定させるシナリオ4種類をランダムな順番で提示し,対人的拒絶の意図(3種類)とサポート行動の意図(6種類)の強さを評定するように求めた。その結果,「心の弱さ」「暗い」という偏見を抱くシナリオにおいては,対人的拒絶3種類の意図が強いものとなり,「自己対処をするよう促すだろう」以外のサポート行動5種類の意図が弱いものとなることが示された。この結果から,うつ病罹患者に対して特有のスティグマ的信念と呼べるものは「心の弱さ」「暗い」という2種類であると考察した。

第4章 うつ病罹患者に対するスティグマ的信念を低減する方策の効果検討―反ステレオタイプ法に着目して―

研究5:予備研究a

小規模の実験室実験(2群でN=50)を実施し,「明るいうつ病罹患者」「心が強いうつ病罹患者」の想起を求める手続きの効果を試験的に検討した。その結果,実験群の手続きによる「暗い」「心が弱い」というスティグマ的信念の有意な低減効果を確認できないことが示された。この結果から,本研究の実施に向けて,「明るいうつ病罹患者」等をシンプルに想起するだけでスティグマ的信念が大きく低減してしまうことは考えづらいという前提を確認できたと考察した。

研究5:予備研究b

4節で用いるBriefIATの妥当性を高めるため,BriefIATの中で「うつ病」と対比させるカテゴリと,「暗い」「心が弱い」カテゴリの刺激語の選定を行った。各種の疾患・健康状態についての印象を尋ねる質問紙調査(N=342)の結果を踏まえ,「うつ病」と対比させるカテゴリとしては「健康」適切であると判断し,「暗い」「心が弱い」カテゴリの刺激語としていずれの語を用いるかを決定した。

研究5:本研究

実験群と統制群をおいた事前事後デザインの実験(N=105)を実施し,反ステレオタイプ法の持つスティグマ低減効果を検討した。実験群では,「どのような病前性格の人でもうつ病になり得る」という前提知識を解説し,続けて反ステレオタイプ法に基づく一連の手続き(反ステレオタイプ的な架空の事例2件の紹介,事例の人物について想起し記述する課題の実施,BriefIATの事後測定において反ステレオタイプ的な連合を想起させ続ける追加教示の実施)を実施した。統制群では,前提知識の解説のみを行った。実験群の手続きによるスティグマ低減効果を検討した主な結果として,1BriefIAT上で実験群内の有意なスティグマ低減効果を確認でき,効果量も中程度付近かそれを上回る値を示していた,2実験群におけるスティグマ低減効果は統制群の場合よりも大きいものであった,3実験内で測定したいずれの個人差変数も,群分けの効果との間で有意な交互作用効果を示さなかった,といった結果が得られた。これらの結果から,本研究では反ステレオタイプ法の持つスティグマ低減効果を多角的に示すことができたと考察した。

第5章 総合考察

本論文が持つ主な意義として,1統合失調症罹患者に対するスティグマの理論を援用するという従来の研究の限界を超え,うつ病罹患者に対して特有のスティグマ的信念とは何かという理論的視座を新たに示した,2うつ病発症の原因論に関する知識啓発に代わる新たなスティグマ低減の方策として,反ステレオタイプが有効であると新たに示した,312の知見を示す過程で,社会心理学の理論や方法論を踏まえた多様なアプローチがスティグマの研究において有効活用できることを示した,という3点が挙げられると考察した。

今後の課題としては,うつ病罹患者に対するサポート行動を促進するための教育実践研究の文脈において,反ステレオタイプ法が持つスティグマ低減効果の持続性や,スティグマ的信念の低減と現実場面の行動変容との関連性を明らかにしていくことが必要であると考察した。