Shimoyama laboratory, Department. of Clinical Psychology, Graduate School of Education, The University of Tokyo, Japan

梅垣佑介 博士論文要旨(2012年)

うつ病・抑うつについての援助要請に関する実証的研究

認知的要因に注目して


第1部 問題設定

「うつ病100万人時代」と言われる現代において,うつ病・抑うつは多くの人を苦しめる非常に深刻な問題であり,その社会的な影響も甚大である。この問題に対し,医学的な治療方法や心理的援助技法が多く開発され,一定の効果を示しているが,多くの人が治療・援助を受けられていないというサービス・ギャップが存在する。必要な人に適切な援助を適切なタイミングで提供するという援助資源マッチングの第一歩として,援助要請行動を促進することでサービス・ギャップを埋め,うつ病や抑うつに苦しむ者に治療・援助の選択肢を多く提示することが求められる。

本研究は,うつ病・抑うつにおける援助資源マッチングの実現を最終的な目標として見据え,うつ病・抑うつの問題に関する援助要請を促進するための知見を得ることを目的とする。その際に,援助要請の意思決定プロセスに影響を及ぼすと考えられる認知的要因について積極的に検討を行う。

そこで,インターネットを活用した自殺の危険の高い者の自助グループ活動の影響及びコミュニティの効果的な運営方法について検討するため,先行研究をレビューした上で,本研究の目的を以下のように設定した。

本研究の目的は以下の通りである。

  1. うつ病罹患者の受療行動が生起する第一歩となる問題への気づきに関する先行研究をレビューした上で,問題への気づきが生じる認知的プロセスを質的に検討する。また,気づきのプロセスにおいて周囲の非専門家がどのような影響をもつかを探索的に検討する。(→第2部)
  2. 抑うつ症状や援助要請に対する認知において生じる認知的なバイアスについて検討する。また,そういった認知に影響を及ぼす変数を検討し,抑うつ傾向のある者においてもそういった認知的なバイアスが見られるかを検討する。(→第3部)
  3. 受療行動との関連が考えられるインターネット検索行動について検討し,抑うつ症状がどのように認識されているか,抑うつ症状関連語の検索状況がうつ病・抑うつに関する受療ニーズの推移を予測できるかを検討する。(→第4部)

第2部 うつ病罹患者の問題の認識に関する研究

第2部では,うつ病・抑うつに苦しむ者の援助要請行動の前提となる「問題の存在への気づき」に焦点化し,文献調査と実際のうつ病罹患者・経験者を対象としたインタビュー調査による質的研究を行った。

第3章では,うつ病における「問題の存在への気づき」と類似の概念である病識・疾病認識に着目し,それらを扱った研究を概観した。その結果,①未受療者の早期受療の上で病識・疾病認識形成が重要であること,②病識・疾病認識と抑うつ症状との関連の理解が治療や心理援助に貢献しうること,③回復・寛解期における患者の自らの状態やうつ病についての認識が再発・再燃予防において重要であること,④一部の患者に見られる「過剰な病識」の問題に対応できること,という観点から,うつ病において病識・疾病認識概念に着目する意義を述べ,今後の展望として,①疾病認識の形成・変容のプロセスを理解する質的なアプローチにより適切な治療・援助を早期に提供する示唆が得られること,②うつ病の病識・疾病認識の明確な定義づけと尺度作成により抑うつ度や症状の経過との関連がより明確になること,という2点を示した。

第4章では,受療前のうつ病罹患者の「問題の存在への気づき」のプロセスを明らかにすることを目的として研究を行った。うつ病患者・経験者11名を対象とした半構造化面接を実施し,得られた発話データをグラウンデッド・セオリー・アプローチを用いて分析した。分析の結果,①違和感の認識,②異常性の認識,③ストレスとの関連付け,④うつ病かもしれないという自覚,⑤受療の必要性の認識,という5つのカテゴリー・グループからなるプロセスモデルが生成された。また,精神面の症状の異常性の認識の難しさ,身体面の症状と精神的ストレスとの関連づけの難しさが問題への気づきを妨げることが示された。さらに,当事者と比較して,周囲にいる者はより早期に症状に気づきやすいことが示され,受療行動を促進するうえで周囲による働きかけが重要である可能性が示唆された。

第5章では,罹患者の周囲の非専門家がどのように働きかけることで本人の問題への気づきを促進し,受療を促進しうるかを探索的に検討した。12名のうつ病患者・経験者の発話データをKJ法を援用し分析した結果,465の切片と27のグループが編成された。分析の結果,症状の自覚がない場合に異変を指摘したり,ストレスと症状の関連付けがなされていない場合に関連を指摘することで問題の認識が促進され,受療を促進しうることが示唆された。第5章の結果,うつ病罹患者の周囲にいる人を資源として早期受療を促進するための示唆が得られた。

第3部 抑うつ症状の援助要請における楽観的認知バイアス

第2部から,うつ病・抑うつの問題の存在への気づきに関して,当事者と周囲との間で認識のずれ(相対的な楽観性)が認められた。そこで第3部では質問紙調査を実施し,そのような相対的楽観性が量的に認められるかを検証した。

第6章では,抑うつ症状に関するフォーマル・インフォーマルな援助要請に楽観的認知バイアスが及ぼす影響を明らかにすることを目的とし,研究を行った。場面想定法を用いた質問紙調査(N = 462)の結果,フォーマル・インフォーマルな援助要請に関して楽観的認知バイアスが認められた。また,先行研究の知見と異なり,インフォーマルな援助要請と比較してフォーマルな援助要請において必ずしも強い自尊心への脅威を伴うわけではないことが示唆されたが,これは自尊心脅威理論と衡平理論の観点から解釈可能と考えられた。

第7章では,援助要請における楽観的認知バイアスや症状の深刻さ,予後の認識と評定者の心理社会的属性との関連を探索的に検討することを目的とした。20~30代の男女を対象とした場面想定法による質問紙調査(N = 850)の結果,抑うつ・不安傾向が高い者において予後の評定における楽観的認知バイアスが弱いこと,抑うつ・不安傾向は深刻さを媒介として援助要請を促進するが,同時に孤独感を媒介として深刻さの認識や援助要請を妨害すること,孤独感が高い者ほど自分は援助要請しないし友人にも勧めない傾向があることが明らかとなった。抑うつ・不安傾向が高い場合には深刻さの認識を促すことが重要と考えられ,孤独感を低減させる働きかけは援助要請行動や援助要請を勧める行動の促進にもつながる可能性があると考えられた。

第8章では,援助要請における楽観的認知バイアスが,悲観的思考を持つことに特徴づけられる抑うつ傾向のある者においても見られるかを検討した。大学生を対象とした場面想定法による質問紙調査(N = 471)を実施し,SDS得点に基づいて対象者を抑うつ傾向あり・なしに分類し検討した結果,抑うつ傾向あり群ではなし群と同等かそれ以上に自己の状況を楽観的に認識する傾向が認められた。抑うつ傾向を示す大学生においても,自他比較という観点からみたときに症状に対する認知に相対的楽観性が生じることが示された。この結果から,うつ病罹患者の受療行動の妨害要因として楽観的認知バイアスが働くことが示唆された。

第4部 抑うつ症状の援助要請とインターネット検索行動

第9章では,うつ病・抑うつに対する情報疫学的アプローチの展開可能性を検討することを目的とし,わが国における抑うつ症状関連語の検索量の指標を用いて,抑うつ症状関連語の検索状況とその季節性を検討した。また,うつ病・抑うつと関係の深い経済指標との相関を分析することで,抑うつ症状関連語の検索状況がうつ病・抑うつへの治療・援助ニーズの推移を近似できる可能性を考察し,検索行動に応じた予防的アプローチの可能性を検討した。検索状況に関するデータは,Google Insights for Searchを利用して収集した。抑うつ症状に関する検索語を多次元尺度構成法を利用して分類した上で,自己相関を用いて検索状況の季節性を検討し,季節性を除去した上で経済指標との相関を検討した。分析の結果,抑うつ症状関連検索語は,「身体」,「絶望・希死念慮」,「感情・精神」を表す3つのグループに分類された。「身体」と「感情・精神」グループの検索状況は明確な季節性を持っていた。また,季節要因を除去した「身体」「感情・精神」の検索状況と経済指標との間に中程度から強い負の相関(-0.76‹ r ‹ -0.37)が示された。「身体」及び「感情・精神」関連語の検索量が経済状況の悪化に従い増加傾向にあることが明らかになったため,同関連語の検索状況がうつ病・抑うつへの治療・援助ニーズの推移を反映している可能性があると考えられた。「身体」及び「感情・精神」関連語の検索に対する検索連動型広告等の活用により,インターネットを利用したうつ病・抑うつへの予防的アプローチを展開できる可能性が示された。

今後の課題としては,実際の援助要請行動を測定し,介入研究を行うことで援助要請の改善状況をチェックすること,単に援助要請を促進するという観点のみからでなく適切な援助資源を適切なタイミングで提供するという視点に立った臨床・研究・専門活動を行うこと等が示された。

第5部 総合的な考察と今後の課題

第5部では,本研究から示された結果の臨床心理学的意義を臨床・研究・専門活動の観点からまとめるとともに,これらの知見をもとにうつ病・抑うつに関する援助資源マッチングの実現のためのコミュニティ・モデルの提案を行った。具体的には,コミュニティや成員の心理社会的特性を考慮した属性別情報提供によるアウトリーチ的アプローチによって援助要請行動を促進することに加え,周囲をインフォーマルな援助資源として活用し,かつフォーマルな援助資源への「つなぎ」役として重視し,コミュニティ全体への働きかけを通してコミュニティ全体のフォーマル・インフォーマルな援助要請を向上させる可能性を論じた。

今後の研究課題としては,コミュニケーションのプラットフォーム(例:電子掲示板)から受ける制約や影響の検討,コミュニティ内でのコミュニケーション規範の生成過程やその影響の検討などが挙げられた。


審査の結果の要旨

うつ病・自殺による経済損失が2.7兆円(厚生労働省2010年)とされる今日、うつ病・抑うつ(depression)の問題改善は社会的課題となっている。うつ病・抑うつの治療や援助については、薬物療法に加えて認知行動療法等の心理社会的方法の効果も実証されている。しかし、援助を必要とする者に対して適切なサービスが提供されていないサービス・ギャップが存在し、問題の改善が進んでいない。そこで、本論文は、援助要請行動に焦点を当て、ギャップ解消のための知見を得ることを目的とした。論文は、問題の背景としてうつ病罹患者の援助要請行動を検討し、研究課題を明らかにした第1部(1-2章)、うつ病の問題認識が生じる認知プロセスを質的に検討した第2部(3-5章)、援助要請における認知バイアスを量的に検討した第3部(6-9章)、受療と関連するインターネット検索行動を検討した第4部(10章)、研究を総括する第5部(11章)から構成されている。

第1章でうつ病・抑うつを取り巻く現状を概観し、治療・援助サービス改善のため援助要請概念に着目する意義を述べた。第2章で援助資源のマッチングに向けて援助要請促進の知見を得るという研究の目的と方法を明らかにした。

第3章ではうつ病の問題認識に関する文献研究を行い、第4章でうつ病罹患者11名の面接データを質的に分析し、「違和感の認識」「異常性の認識」「ストレスとの関連付け」「うつ病かもしれない自覚」「受療必要性認識」から成るプロセスモデルを生成した。第5章では12名の面接データを質的に分析し、周囲の働きかけが受療を促進するとの示唆を得た。

第3部では若年者(大学生~30代)を対象とした場面想定法による質問紙調査を実施した。第6章では抑うつ症状を呈した際の援助要請意図を検討し、自己のリスクを楽観的に評価する認知バイアスが確認された(N=462)。第7章ではインターネット調査(N=850)により、抑うつ・不安傾向や孤独感と自他に対する援助要請意図との関連を明らかにした。第8章では、抑うつ傾向のある者においても楽観的認知バイアスが認められ、認知バイアスがうつ病罹患者の受療行動の妨害要因となっていることが示唆された(N=471)。第9章では、若年者コホートを対象とした6-8章の調査結果の一般化可能性の限定を論じた。

第10章では、抑うつ症状関連検索語を多次元尺度構成法により分類し、経済指標との相関を検討した。経済状況悪化と連動して「身体」「感情・精神」関連語の検索ボリュームの増加が明らかとなり、両関連語が治療・援助ニーズを反映している可能性が示された。

本論文は、うつ病・抑うつの問題認識プロセスを多角的に検討し、問題への気づきにおいて当事者と周囲との間で認識のズレ(相対的な楽観性)があることを明らかにし、そのような楽観的認知バイアスが援助要請行動を妨げる要因になっている可能性を実証的に示し、さらに検索行動に関する研究からインターネットを利用した予防的アプローチ展開の可能性を明らかにした点で特に意義が認められる。よって、本論文は、博士(教育学)の学位を授与するに相応しいものと判断された。