Shimoyama laboratory, Department. of Clinical Psychology, Graduate School of Education, The University of Tokyo, Japan

エッセイ「風のたより」

下山晴彦


“風”といって思い出すのは、小学校の低学年の頃、学校からの帰り道のバス停で、来ないバスを待ちながら眺めていた豪雨である。その日は、台風の接近ということで学校から早めに帰ることになった。

私は、僻地から通っていたので、1日に4本しかないバスで通学していた。そのため、学校が早く終わっても、家にはすぐに帰ることができず、バス停で一人時間を潰さなければならなかった。午前中の理科の授業で、教師が「風はみえません」と断言していた。私は、バス停で、強風が吹くたびに白いレースのカーテンのように揺らぎながら山肌に激しく吹きかける雨を眺めながら、「風は見えるじゃないか」と思っていた。

今から25年くらい前、修士論文の一部を「教育心理学研究」という雑誌に投稿したときのこと。拙論は、思春期の気持ちの移り変わりを縦断的にとらえるためにSCTを用いて、そこから仮説的分類を提案したものだった。当時流行していた質問紙調査という方法を利用して量的分析をしても、思春期の微妙な移ろい易さはとらえきれないと思って、敢えて質的調査をした。しかし、審査結果は、「科学的論文としては不十分」との理由で、原著から資料に書き換えを命じられた。審査者の目には、SCTの文章の質的分析などは、因子分析に比べたら“たより”ないものとみえたのだろうと、しみじみ思った。

今から10数年前のこと。現場で臨床心理士として働いていた自分が、大学の教師になった。それで、博士論文を書かなくてはと思い立った。臨床心理士として付き合うことが多かったアパシー学生のことをまとめることにした。彼らは、とても正直な性格なのだが、唯一、自分に対しても他者に対しても非常に“たより”ないという問題を抱えていた。困難な現実に直面すると、風のように逃げてしまう。そのような彼らの姿を追おうとして事例研究を活用した。あのとき、質的心理学のことをよく知っていれば、もう少し楽に博士論文がかけただろうと思う。あの頃は、現場(フィールド)心理学といったことばを使っていた。

今は、「日本の臨床心理学は、どのようになっていくのがよいのだろうか」ということを考えている。日本の臨床心理学(多くの人は、それを心理臨床学と呼んだりする)は、世界的にみれば、鎖国状態のまま、プレモダンの、特異な状態に止まっている。

英米圏の臨床心理学先進国は、エビデンスベイスト・アプローチによって近代化している。“科学的に”有効性が検証された認知行動療法が既に天下を取って久しい。日本も開国して、認知行動療法を輸入し、近代化を急ぐのがよいのだろうか。ただし、認知行動療法は、セルフヘルプを基本とする方法である。要するに非常に自己本位な方法である。果たして日本人の気持ちは、科学的研究になじむのだろうか。いや、それ以前に、「無我の境地」を理想とする日本人(最近はそうではないのかもしれないが)に、自己本位の認知行動療法は、なじむのだろうか。

さらにいえば、英米圏の最先端の臨床心理学は、エビデンスベイスト・アプローチと社会構成主義との接点を探る、ポストモダンな動きがかなり強くなっている。認知行動療法とコミュニティ心理学との協働は、かなり進んできている。そのようななかで、自己よりも人に気を使い、コミュニティよりも世間を気にする日本人の問題解決を援助する日本の臨床心理学は、これからどうなっていくのがよいのだろうか。

そもそも日本の気持ちは、風のように“たより”ないものかもしれない(もちろん、グループになると、頼りないどころか、傍若無人になるので一概にいえないが)。そのような日本人の気持ちに関わろうとする日本の臨床心理学は、本来、“たより”ないものなのだろう。威風堂々とする学問ではないのである。

下手に威張ろうとすると、もっと威張りたいグループから反発を食らうこと必定である。質的心理学を見習って、風のように軽やかに自由に学問を発展させられないものだろうか。いずれにしろ、日本の臨床心理学は、プレモダンな鎖国状態からは、そろそろ脱したほうがよいと思うのだが・・・・

最後に季節の一句。 北風の藪鳴りたわむ月夜かな 杉田久女