インターネット・ケータイは新しい活字文化の担い手となりうるか
目次
若年層の「活字離れ」が叫ばれ、出版不況と呼ばれる状況が続く中で、2004年の出版販売額が8年ぶりに前年を上回った。『電車男』などに代表されるインターネットから生まれた書籍のヒット、「ケータイ小説」の普及など、若年層の支持を受けるコンテンツが続々と登場し、読書文化に新しい流れが起きつつあるように見える。さらには、読書文化だけではなく言語形態についてもインターネットは独特な日本語の在り方を作り上げてきた。「読む」や「リテラシー」など既存の受動的な情報への関与とは異なり、自ら情報発信に携わることを容易にするこのインターネット空間は、現在幾何級数的な速度でその独自の文化を築き上げている。そこでは「非音声的なコミュニケーションの手段」としての活字の側面が、特殊な形で追求され、「文化・伝統・習慣などを形成する手段」としての活字はないがしろにされている感があるように感じられる。こうした現状はいったい、国語教育にどのような影響を与えるのだろうか。新しい活字形態の紹介をすることで、その新しい活字との関わり方を模索する手がかりとしたい。
ここでいくつかここ数年で急速に一般化した新しい活字の現象について例を挙げる。
2-1.ケータイ小説
いま、ひとりの女性作家が注目を浴びている。「ケータイ小説の女王」の異名を持ち、1日アクセス最高7万件を誇る売れっ子作家である。
内藤みかさん→http://www.micamica.net/
以下、記事抜粋
ケータイ小説の「女王」が企業から注目される理由
ケータイ小説の分野で、数々のヒットを飛ばしている女性作家がいる。彼女は、2つの方向から注目を浴びているようだ。1つは、彼女の作品のファンから。そしてもう1つは、マーケティング活動としての携帯小説に注目する企業から。
女性作家の名前は、内藤みか氏。携帯サイト1日7万アクセスの実績を持ち、一部で「ケータイ小説のクイーン」の異名をとる。内藤氏に携帯小説を執筆する難しさと、なぜ企業から注目が集まっているのかを聞いた。
先細りの出版業界で、見つけた「生き残り策」
携帯小説を書くようになったきっかけを、内藤氏は「生き残るための策」だったと笑いながら話す。
昨今、出版業界は市場の規模が縮小しているといわれる。本は売れず、文芸誌の勢いにもかげりが見える。「ある文芸誌は、厚さが3分の2になってしまった。偉い人(文豪)の作品を載せるだけでせいいっぱいで、私のような30代の若手作家が小説を載せるスペースがない」
どうすればいいか、と模索していたとき、声がかかったのがケータイ小説というジャンルだった。2003年の9月に「新潮ケータイ文庫」に作品を掲載したところ、特に宣伝しなかったにも関わらず2週間でアクセス1位になったという。
「そこで編集部から召集がかかって、これは連載できると。それで2003年12月に連載を開始したのが『いじわるペニス』という作品」
29歳の女性が、さびしさをまぎらわせるように男娼を買うというストーリーだったが、これが好評を博した。PVは1日1万アクセスを記録し、累計で70万アクセスを達成。編集長からは「人気が落ちたら、即連載終了だ」とおどされたが、人気は衰えることなく、作品は最終的に単行本化されている。
「単に、官能小説だからウケたんだろう」と冷ややかな見方もあったが、続けて執筆した携帯小説「ラブリンク」も1日1万3000PVを叩き出す。こちらはアダルトな表現を抑えたにも関わらず、最終的に累計アクセス数が134万にまで達した。
「それで、周囲は批判することをやめた。その後、6社から連載のオファーがきた」
“携帯向けに書く”ときの工夫とは
もちろん、誰でもこうしたケータイ小説を書けるわけではない。実は内藤氏は、22歳からスポーツ新聞の官能小説などを手がけており、10年のキャリアがあった。しかし携帯向けに書くときは、文体を工夫したという。
ケータイ小説と紙の小説とは「全然違う」と内藤氏。「携帯は、短い言葉で収めなければならない。『そこで私は、こわごわ振り向いた』なのか『そこで私は、振り向いた』なのか、といったように表現も変わってくる」
内藤氏は、5行以内に改行を入れるようにしていると話す。携帯画面の表示は1行がおおむね8〜10文字なので、40〜50字で1行改行される計算だ。「サクサク改行して読みやすくする」
小説のテーマも、慎重に選ぶ必要がある。例えば「Deep Love『アユの物語』」は、援助交際をする17歳の少女の話だった。内藤氏の「いじわるペニス」も男娼の話。多少、“夜の街の刺激的な話”のほうが興味をひく、という面はある。
「私の小説を読んでいるのは、20代から30代の女性が多い。そういう女性は、(アダルトな描写が含まれる)本を持っていたら恥ずかしいので読みたくても読めない場合がある。携帯書籍なら、ブツが家にないし、彼氏に見つかることもない」
内藤氏は、小説にアクセスが集まる時間帯が24時台に集中していたことも紹介する。
「夜、寝る前のひそやかな楽しみになっているのではないか」。こうしたユーザー動向も理解する必要があるとした。
ケータイ小説の未来
ケータイ小説には、さまざまな可能性が秘められている。まず、単純に書き手として実験的な表現手法を試すことができる。
例えば携帯では、表示画面で文字の色を変えられる。これをヒントに、男性と女性のセリフをそれぞれ青字と赤字で表記するようにしたこともある。
読者とのリアルタイムな交流が図れるのも、ケータイならでは。例えば「ラブリンク」では兄弟のキャラクターが登場するが、読者から「兄がいい」というメールでの反応が多かった。そこで、「私は弟が好きなのだが」(笑)兄の出番を増やしたこともあったという。
http://plusd.itmedia.co.jp/mobile/articles/0506/10/news100.htmlより抜粋
この記事だけでも、ケータイ小説というものが、私達が小説といって想像するような一行一行ページをめくって読むというイメージから、いかにかけ離れたものであるかがわかる。友達から送られてくるメールを読むような感覚で味わうことのできる等身大の物語。当然感情移入もしやすいであろうし、「泣ける」ということが現代小説を語る上での常套句となっていることにもつながるように感じられる。読者のアクセスの時間帯がわかったり、読者とのリアルタイムの交流などはデジタルコンテンツならではの特徴であるが、大衆に迎合しすぎてしまうことで、良くも悪くも大衆的な俗っぽい小説の量産にしかならないという危険性も多分に含んでいる。ケータイ小説が新しい活字の「文化」を作り出せるかはまだ難しいだろう。
2-2.携帯で、詩に親しむ女子高生
http://www.voltage.co.jp/keitai/index.html
携帯向けコンテンツプロバイダのボルテージは、メッセージつき待受サイト「恋ウタ」に力を注いでいて、画像に一言メッセージや格言を添えて配信するサービスを行っている。なかでも万葉集の現代語訳を画像と一緒に提供するサービスもあり、それが予想以上に女子高生に人気だという。古典として学校で勉強するのではなく、このように過去の詩と現代の自分たちの気持ちを重ね合わせることで、彼女たちなりに万葉集という一つの文学作品に関心を示しているというのは非常に興味深いことである。
2-3.ケータイ読書サイト
新潮ケータイ文庫、どこでも読書、電子書店パピレス、SpaceTownブックス、いまよむ、など数多くの携帯向け読書コンテンツが展開されている。これらはいずれも若者をターゲットにしたもので、携帯電話を使って小説を読む若者が増えていることを示している。『いま、会いに行きます』『世界の中心で、愛を叫ぶ』など近年大ヒットを記録した書籍の支持層は若者である。果たして、若者に本当に「活字離れ」が進行していると言えるのであろうか。
2-4.2ちゃんねる用語
http://2ch.myu-k.co.jp/2ch_fq.html
http://www.shibukei.com/special/55/index.html
日本最大のインターネット掲示板「2ちゃんねる」は、そこから生まれた『電車男』の大ヒットも記憶に新しい。そこで使われる独特の日本語の言い回しは、急速に市民権を得て、今やいわゆる「2ちゃんねらー」以外でも流行語のような感覚で使っている。代表的なものとしては、「逝ってよし」「すまそ」「マターリ」などがある。既出を「ガイシュツ」と読んだり、雰囲気を「ふいんき」と言うなど、実際小学生などで多い間違いをそのまま使っている。
2-5.ギャル文字
おはよう | ぉレ£ょ | ォ八∋ |
こんにちは | こωL=ちレ£ |
⊃冫二千ハ |
おやすみ | ぉゃ§α | 才ャス彡 |
ゲンキ | レ†’’w(キ | ヶ¨冫‡ |
あそぼ | ぁξぼ | ァヽ丿ホ〃 |
ケイタイ | |ナL丶ナニレ丶 | ヶィタイ |
これは一昨年ごろから登場したギャル文字というもので、半角・全角文字や記号、特殊文字の組み合わせで構成され、二つの文字を組み合わせて一つの文字にする場合もある。いわゆる「ギャル」と呼ばれる女子高生を中心に流行していて、携帯メールなどでは彼女たちは当然のようにこのギャル文字を使う。なぜこのような文字を彼女たちが好んで使うのかについてはいくつか意見があり、インパクトを求めて、仲間内での暗号として、手書きの感じを出したいなど解釈は様々である。絵文字、顔文字などとも併せて、若年層のコミュニケーションツールとしての活字の表現方法が確実に変わってきていることが伺える。
3.まとめ
現代、特にインターネットや携帯などのツールにより変化を見せる日本語の在り方について事例を引いてきた。こうしてみると、若年層の「活字離れ」というものは、必ずしも活字そのものから遠ざかるという形では現れておらず、こうした紙以外の媒体の活字への関心はむしろ高まっているようである。しかし、発信者が大衆であり、流通する情報量が半端なく多いため、その質というものは疑わしいと言わざるをえない。特に、前述したように「文化・伝統」としての日本語の側面は、こうしたデジタルメディア上ではなおざりにされてしまいがちである。かといって、そうした面を考えようとすると、ナショナリズム的なものや日本語カルトクイズじみたものに走ってしまいがちなのは最近の流行から嫌という程実感できるだろう。こうした環境の中で、小難しい言葉の語源は知っているが、絵文字なしでは気持ちを表現できないなどとなってしまったら、それは国語力がないのも同然ではないか。今後、新しい活字文化が「文化」たりうるのかは、現段階では判断は難しい。しかし、国語教育を考える際に、今の子どもたちにこうした言語環境が所与として与えられているということを留意しておくのはとても大切なことであろう。