少年犯罪は凶悪化したか?

担当:日下珠美



1.少年犯罪は凶悪化したか?
2.少年犯罪凶悪化の原因


1.少年犯罪は凶悪化したか?

 近年相次ぐ少年犯罪から、マスコミによって少年犯罪の増加、凶悪化が叫ばれている。日本人の多くがこのような現状に危機感を抱き、少年法の改正や教育改革という現実の動きにもつながった。確かに、ニュースを見れば毎日のように少年による事件が報道されているが、本当に少年犯罪は増加、凶悪化しているのであろうか。
 下のグラフ(法務省『犯罪白書』平成17年版より第4図)を見てほしい。これは、戦後の少年刑法犯の検挙人員および人口比の推移を示したものであるが、昭和26年をピークとする第1の波、昭和39年をピークとする第2の波、昭和58年をピークとする第3の波が見て取れ、そのピークだけを取り上げれば増加傾向にあったといえる。しかしその第3のピーク以降は減少に転じ、平成4年以降は20万人程度で推移しており、増加の兆候も見て取れない。


図1


 このグラフを見て少年犯罪の増加について何かを語る前に押さえておかなければならないのが、この刑法犯の9割近くが、万引きや、バイク・自転車盗といった「窃盗」と、放置自転車の乗り逃げを中心とした「横領」であるということだ。これらの犯罪は「警察の検挙・取り締まり方針に左右されがちな上に、一過性の「初発型非行」という性格の強いものである。」という指摘もあり、これらが大半を占めるグラフを用いて、昨今の少年犯罪の増加言説を支持することはできないであろう。
 そこでこの刑法犯の中から、凶悪犯とされる殺人、強盗、強姦、放火を取り出し、その推移を見たものが以下のグラフである。


(*上のグラフは一般のHPから借用したので、実際にHP公開の段階では公の資料を基に自分で作り直します。)



 図2より明らかなように、殺人は、昭和40年までは、300人台から400人台で推移していたが、40年以降減少し始め、50年以降は100人を切り、以後100人を推移している。少年10万人当たりの人口比も、昭和45年に1人をきって以降0.5人前後という非常に低い水準で推移している。
 また、強姦は戦後直後極めて少なかったが、徐々に増加し、昭和30年代前半から、40年代初めにかけては、4000人を越えるほどであったが、以降減少し続け、50年代初め以降は1000人以下、平成に入ってからは500人以下になり、ここ数年は300人以下となっている。「強姦は警察の検挙体制や世間一般の意識・規範や被害者の事件化への意志や警察の検挙体制などに左右される傾向が強い」という指摘もあり、統計の解釈は慎重にしなければならないが、それでも、減少しているといっていいだろう。
 放火についても同様で、昭和35年ごろピークに達し600人を数えたが、以降は概して減少しており、平成に入ってからは、200人前後で推移している。
 強盗に関しては、上の3つの凶悪犯罪とは違う推移が見て取れる。戦後まもなくの混乱期は3000人弱で、少年10万人当たり15人という水準にあったが、社会の安定とともに減少し、昭和46人には1000人を切ったものの、平成に入ったころから増加に転じ、平成8年には再び1000人を越え、以降1000人後半を推移している。
 以上のことから言えるのが、少年犯罪は、凶悪犯の検挙率を見る限り決して増加してはおらず、むしろ減少しているということである。しかし強盗に関してのみこのことは当てはまらず、平成1年からは増加傾向にある。しかし、これは「取り締まる側である警察の姿勢に変化があったため、検挙数が上がった」という見方もあり、その上、強盗は単独犯よりも共犯が圧倒的に多く、共犯の割合が増加していることから、検挙者数を見るだけで強盗の件数が増加しているということはできないのかもしれない。とすると、統計上少年犯罪は凶悪化していないという結論が導き出される。
 しかし、以上のような分析だけでは、少年犯罪そのものの実態の変化を把握することはできない、量的には減少していても、質的変化があるのは間違いない、といった反論があることは確かである。質的変化といえば、強盗に関して、「戦後荒廃期から昭和30年代までの高い発生率は、貧困や階層差を背景にしたものと考えられる」が、「近年の増加傾向は、遊ぶ金ほしさなど、豊かな情報社会の刺激と誘惑の中で、青少年の規範感覚、金銭感覚や自分たちの欲求や不満を表出するその仕方に質的変化が起こっている」という指摘があるが、このように経済状況が関係するのは強盗(強盗殺人を含む)、窃盗だけであろう。また、「現代の少年犯罪は、凶暴化、残虐化している」、「現代の少年はキレやすく、ちょっとしたことに我慢が出来ず、重大事件を起こすようになった」「現代の殺人は、動機が分かりにくくなっている」などといった指摘があるが、戦後60年の少年犯罪の歴史をたどると、昔も今と変わらない、残虐で、病的で、突発的怒りに任せた事件が数多く起こっており、そのような指摘を裏付けることはできないだろう。
(少年犯罪データベース→http://home.interlink.or.jp/~5c33q4rw/zsyounen.htm)
以上のように、少年犯罪の質的変化に関しても、その妥当性はないといえる。




2.少年犯罪凶悪化の要因

 少年犯罪は凶悪化していないという結論を導いた上で、凶悪化の要因というのもおかしな話であるが、ここでは、少年犯罪の凶悪化を支持する立場に人々が考える要因について分析したい。
 まず、家庭環境における要因としては、核家族化や離婚率の増加などが規範意識を大人から教えられたり、社会の中で学び取ったりできない子供を増やしているという言説や、親の愛情が子供に感じられないため問題行動を起こしてしまうという言説がある。また近親の高齢者とのかかわりが希薄になることで、日常的に近親者の死に触れる機会が減り、死に対する想像力が欠如しているという言説もある。また、学校教育における要因としては、学歴社会であるために競争心ばかりあおられ、人間的な成長がなされず、倫理観や規範意識といった人間にとってもっとも大事なものを学べなかったり、精神的なゆとりが得られなかったり、ということがあげられる。また昨今の自由ばかり強調する教育が、若者の共同体における、モラルを低下させているということも言われる。
また、メディアの発達によって、暴力や殺人、性描写に触れることが多くなり、影響を受けることが多くなっているということも挙げられる。また日本経済の悪化、失業率の増加による社会の不安定なども挙げられるだろう。
 これらはすべて少年犯罪の凶悪化の要因としてたびたび聞かれ、もっともらしく流布しているがこれらの言説は妥当であるといえるのであろうか。結論を言えば、このような社会の変化がありながら、凶悪少年犯罪が増加していない現状を見れば、妥当ではないということになる。核家族の増加、離婚率の増加、失業率の増加といった、数値的変化と少年犯罪の増加に相関がない以上、それを理由にするのは間違っているといわざるをえない。人類の歴史を見てもそれらの社会的変動にまったく無関係に一定の犯罪が存在し、小規模の増減を繰り返しているに過ぎないのだ。とすれば、世間一般に言われる要因というものは、いくつかの少年犯罪の背景や動機を分析する際に似通った特徴を恣意的に抽出して、扱いやすい物語を創造しているだけだといえるのではなかろうか。例え、まったく同じ状況にあった少年が同じような犯罪を起こしても、戦後まもなくであれば、貧困からであると、数年前であれば、受験ノイローゼであると、現在であれば、心の闇がどうといわれる。「犯罪者の内面に見出される「動機」とは、犯罪行為の性質が他者によって解釈され、遡及的に構築されるものに他なら」ず、「後からの言説化の過程を経て言語的に組み立てられるものにすぎない」のだから、少年犯罪や、その背景が変化したのではなく、解釈する側の考え方が変化したと考えるべきであろう。また、この解釈という問題に関連して言えば、少年犯罪は特に、情報公開が制限される傾向にあるため、「動機」を理解できる形で明らかにするのは不可能であり、「動機なき殺人」などといわれる事件が起きているのではないかということも考えられるだろう。
 以上のように、同じような社会のなかにいて、同じような環境におかれながら、事件を起こさない少年がいる以上、一人の少年が起こした得意な事件を通して、普遍的な社会病理を見出そうとすることは間違いであるいえる。マスコミによって報道される少年の特徴から、自己と同一視し似たような事件を起こす少年の存在も無視できない以上、再発の不安から動機を解明しようという試みも慎重になされなければならない。
また昨今の報道に見える動機解明の際の少年の「心」への偏重が、過度の「心」への介入という現在の教育改革につながっているということから、現在の教育現場における少年問題への対策にも目を向けてみたい。


 少年犯罪の凶悪化が叫ばれて久しいが、実際に統計的なデータを見ると、少年による凶悪犯罪(盗難を除く)の検挙数、対未成年人口比ともに戦後一貫して減少傾向にあるということが分かる。また過去の少年犯罪を見ても今と衝動性残虐性などにおいて大して差がないのではないかと思えるものが少なくない。そのようなことを考えると、凶悪少年犯罪が増えたのではなく、単に凶悪少年犯罪をマスコミが報道することが増えたに過ぎないといえるかもしれない。外国の少年犯罪発生件数などを見ても日本の少なさは顕著であるし、何故そのように少ない水準に抑えることができてきたのかということを考えずに、昨今のセンセーショナルな報道を鵜呑みにして、安易に現在の教育を批判し、改革へ向かう現在の流れは果たして正しいのだろうか。一度立ち止まって考える必要があるように思う。
 そしてその改革の一つとして注目される道徳教育だが、国、文部科学省を中心に一斉に心について教育していこうというのは、やはりあまり好ましくないように思う。一人一人が抱える問題や、育っている家族、境遇、など全く違う子どもたちの心について授業で取り扱うのは難しいのではないだろうか。これからやるべきことは教師や周囲の人間が子供の抱える問題に敏感になれるような環境を作っていくことではないか。クラスの生徒を少なく保つことや、担任を増やすこと、カウンセラーなど子どもたちが自分の悩みを話せる人間を周りにおいてやること。少年犯罪や非行などを問題視して、解決しようとするのであれば、授業で大勢の生徒に向かって、正しい心や道徳を説くのではなく、教師たちが一人一人の生徒とその心に向かい合える学校を作っていくことの方が効果的ではないか。



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