T. 遊びを教育に生かす―遊び心を教育に

  偏差値主義からゆとり教育への変遷は、「遊びの原理を教育の原理に持ち込む」という観点から解釈することができる。「遊びの精神を教育に」ということで遊びと教育のつながりについて考えてみたい。

1 これまでの学校教育
1)能力主義価値観
 学校生活の作り出す人格特性は、教育内容と教授方法によって決まるといえる。これまでの学校では、「知識」が具体的な「体験」とは切り離されて、教師によって一方的に注入されがちであった。子どもは自分の頭で「思考」することなく、テストに役立つ知識だけを「暗記」する。それが教育であった。教師の指示になんの疑いを持たず従う結果、子どもの学習態度は「受動」的となり、権威に「依存」し、自分で「自主」的に判断したり決定したりすることを恐れるようになる。自信がないのでいつまでも「自立」できない「他律」的な人格が生まれる。偏差値という単一の基準が絶対であるため、点数として測定できない「個性」は無視される。「創造」性は育たず、「画一」的な規格型人間が大量に出現することになる。こうして学校はただ成績順位を争う「競争」の場と化し、他人への思いやりや連帯や「協同」を育てる集団へと高まることはない。集団が顔を出すのは、班や集団に埋没し、集団のために競争する存在でしかない。
 以上説明した学校教育の特徴を示すキーワードをまとめたのが図1である。左側がこれまでの学校教育を特徴付けることばであり、これに対応する右側の反対語が、これからの学校教育のあり方を指示するものである。



 いわゆる「優等生」や「できる子」ほど、左側のキーワードで示されるような特性を身に付けていたといえよう。反対に右側のことばで示される特性を身に付けていても、そういう感性や個性の豊かな子は、これまでのような学校体制の中ではしばしば落ちこぼれてきた。集団の秩序や規則からはみ出す子どもとして、問題児のレッテルを貼られてきたのだ。
一定の時間内に、要求される通りのただ一種類しかない正解を能率よく答えないこおとには優等生にはなれなかった。分刻み、秒読みの勝負がテストである。子どもたちはムチで追いたてられるがごとく、あわただしく人生を駆け抜けなければならない。まさに生き急がされる人生を押し付けられているといえよう。そのストレスだけでも大変だが、現実はそういう仕組みになっていたのだ。

2)偏差値教育からの脱却
 もともと偏差値とは、平均的多数者からの逸脱の程度を表示する数値であろう。とするなら、個々人の個性はまさに平均的人間からの「偏り」を示すものであり、それこそ偏差値の名に値するものといえよう。ユニークな発想力や創造性、批判精神や共感能力や人間的優しさ、そういった人間の個性を構成する諸要素こそ、平均からの偏りを必要とするものである。しかし、そういう能力を測定する尺度は学校にはなく、あるのはただ教科書的な知識を理解する能力をはかるものさしだけである。
 偏差値というものさしは、知識暗記的学力を唯一絶対の基準として人間を序列化する権威ある道具になっている。その結果は、人間のもっている多面的な価値を切り捨てて顧みない。人格価値の多様性を踏みにじってしまうのである。
 このような教育は偏差値教育と呼ばれ、図1のように知識、暗記、他律、受動、画一、競争といったことばで特徴づけられる。このような教育はいまや破産してしまった。日本の工業化にとっては、確かにこうした特徴を持つ教育の果たした役割は大きかった。勤勉な日本人を大量に作り出したのは、学校教育の功績であったともいえる。しかしながら、本当に求められる教育とは、体験、思考、自立、自主、創造、個性 協同といったキーワードに特徴づけられる教育であるのだ。

2 「よく学びよく遊べ」の意味
わたしたちは子どもの頃、小学校の教室には、「よく学びよく遊べ」という標語が掲げられていた。いつ頃、誰がこの標語を作ったのかは知らない。この簡潔なことばの意味は、単純そうだが、解釈しだいでわりと複雑な内容を持っているように思える。

1)「遊び」と「教育」は対立するもの?
   最も常識的な解釈は、ここでいうところの学び、すなわち勉強と、遊びとを対立するものとして捉える見方であろう。「勉強するときは勉強に集中する。遊ぶときはほかのことは忘れて遊びに集中する。そうすれば次の勉強へのエネルギーを蓄えることができる」という解釈である。ここでは、学習は緊張や拘束を意味する。まさに「勉強」ということばにぴったりの内容である。
 無理に強制するという意味の勉強に対して、遊びは解放や放任を意味する。この解釈の背後には、「労働」と「遊び」とのアナロジーがある。遊びを「労働力の再生産」として捉える立場だともいえよう。もっと消極的なものには、遊びを教育からの解放として捉える立場がある。たくさんある遊びの動機説の中で、「気晴らし説」や「浄化説」が、この立場を支持している。これにもまた、背後には労働と遊びとのアナロジーがある。管理された労働の中で抑圧され疎外された人間性を、遊びの中で、個性や全人的能力を表現することによって回復するという見方である。
 こうした解釈は、いずれも学習(勉強)と遊びとを対立するものとして捉えている。だが、果たして学習と遊びとは異なる交わることのない二つの世界なのであろうか。

2)遊びの原理を教育の原理へ
 確かに勉強と遊びとは、活動の内容からみると、はっきりと区別のできる違う活動である。算数の教科書をひろげて計算練習をやるのと、トランプで遊ぶのとでは、活動内容は全く違っている。体育の時間に教師に命令されてトラックを走るのと、遊び時間に鬼ごっこをするのとでは明らかに違う。しかし、こうした活動の結果に目を向けるとき、両者の違いは曖昧になってくる。計算力や走る力は、トランプ遊びや鬼ごっこによっても育つからである。  小さい子どもであればあるほどそうである。特に乳幼児の生活は、活動内容からみればそのほとんどが遊びである。ところが子どもたちは、遊びを通して色々なことを学んでいる。社会性も情操も言語も思考力も体力も、運動能力も、遊びによって身に付けていく。乳幼児期は特に、遊びが自己学習的になっているのである。
 子どもが大きくなって学校に行くようになると、教師が意図的、計画的にお膳立てしたプログラムによって、系統的に学習するようになる。それは確かに能率的である。しかし、効率を上げようとするあまり、個性を無視した統制が行われがちである。自己学習に変わって、強制学習が行われることになる。
 ところが、学校を卒業して大人になると、公民館などの社会教育施設やカルチャーセンターなどで、もう一度学び始める人がいる。中年の主婦や高齢者に、意欲のある人が多い。大学では講義中の学生の私語・雑談が問題になり、学会の研究テーマにまで登場するご時世だが、この人たちは違う。目を輝かせ、学習に熱中する。この違いはどこから来るのか。学校や個人の興味や能力に関わりなく、みんな同じ内容を押し付ける教育なのに対し、ここでは自分にあったものだけを選べる自由があるからである。すなわち自己学習だからである。遊びと同じように、活動を自分で選べる自由が与えられているからである。
 試験とか成績とか進学とかは、ここでは問題ではない。学びたいから、学ぶのが楽しいいから、あるいは生きがいだから、学ぶのである。乳幼児が外から強制されなくても自発的にいきいきと、多くのことを学習し成長するように、成人教育の場に参加する人たちには無気力など、探そうとしても見当たらない。意欲のない人はもともと来ていないのであるから、当然のことではある。遊びの原理を教育の原理にした具体的な場をあげるとしたら、まずは生涯教育の場をあげなくてはならないであろう。

3 全人的自己表現としての遊び
 人間は文字通り人間であるときだけ遊んでいるのであり、遊んでいるところでだけ真の人間である。そういう意味のことを、ドイツの哲学詩人フリードリッヒ・シラーは、200年ほど前に言っている。
 人間は遊ぶときに最も人間的である。なぜか。
 遊ぶという活動には、全人的な要素が含まれているからである。人は、遊びの中で自分の持つ全ての能力を発揮できる。自己のすべてを表現することができる。遊びには、人間にとって最も大事な自由があるからである。遊びとは、自由を表現することにほかならない。
 わたしたちが問題とする教育は、自由を拘束することで成り立っている。幼稚園・保育所の幼児教育から大学教育にいたるまでそうである。学校教育のような制度化した教育は、自由を犠牲にして成立する。つまり、人間的なものを犠牲にして、人間的なものを育てようとしている。そうした自己矛盾をうちに含んでいるのが、教育という仕事である。それは、例えば義務教育ということばをみても明らかであろう。義務ということは、法的に強制されていることである。子どもたちは教師を選ぶことはできない。自分の所属するクラスも選ぶことはできない。ということは、友だちを選ぶことができないのである。学習の内容も選べないし、活動の方法も選ぶことができない。主人公であるはずの子どもの側には、選択の自由がほとんどないのである。
 教育の目的が、一人ひとりの子どもの自立であり自律であるなら、主体を放棄させるような強制された状況こそ、まず否定されねばならない。しかし、強制することを否定することが、しばしば教育の否定につながるところに、教師の最大の悩みがある。
 自由と統制との関係をどう捉えるか。教育の理論も実践も、帰するところはこの一点にある。この問題はまた、遊びと教育、遊びと学習との関係の問題として捉えることができよう。

U. 連続線としての遊びと教育―遊びの原理を教育の原理に

遊びの特性としては、「楽しい」「自由」「自発的」「自己目的的」「緊張感」などが挙げられる。 しかしこれらは教育が目指すべき目標を示す言葉でもあると言える。遊びと教育とを一本の連続線の上に位置づけることができるとして、 遊びと教育の関係について考察したい。
1 遊びの特性
 「楽しい」ということが、遊びの魅力を構成する最大の要因であろう。なぜ楽しいか、ということになると、 そこには「自由」があるから、と答えざるを得ないであろう。他人に強制された活動ではないから、拘束感はないし、 他律的でもない。ということは、受け身ではなく能動的な活動だということである。遊びにおいて子どもは自主性を回復し、 人間としての主体性を保持できる、といってもよかろう。遊びが教育において重視されねばならない理由もまた、ここにあるといえる。
 古来、遊びとは何かという問いを巡って、その本質を追及した学者も多い。それら多くの人たちの回答の中から、遊びの共通特性として、次の4つをあげる。

 @遊びは自由な活動である。
 A遊びは自発的な活動である。
 B遊びは自己目的的活動である。
 C遊びは、喜び、楽しさ、緊張感を伴う活動である。

 自由であり自発的であるということは、自主的な主体性のある活動でもあることを意味している。 さらに、受動的でも画一的でもない、創造的な個性ある活動が遊びであることを、これらの遊びについての規定は意味している。 学校教育の特徴を示すものとして第1章にて列挙した、依存、他律、受動、画一などのキーワードと全く対照をなすものである。 すなわち、これらの反対語である自立、自主、創造、個性といったことばは、教育が目指すべき目標を示すことばであるとともに、 遊び活動を特徴付けるのに必要なものばかりである。したがって、遊びの原理は、教育のあり方を指し示す原理と大部分は重なり合っており、 転換期を迎えている現在の学校教育が拠って立つべき基礎を提供しているといえよう。

2 遊びの原理を教育へ
 遊びの原理は学習の原理であり、教育の原理でもあるということができる。「遊びの原理を教育に生かす」とは、まさにこの遊びの原理を教育の原理にするということである。もっというなら、遊び活動の持っている、自由で、自発的で、自己目的的で、喜び・楽しさ・緊張感を伴う全人的な自己表現的活動という特性を、教育の場における学習活動に実現するということである。
 遊ぶということは、刺激を追求することであり、自己の能力を確認するための全人的活動である。つまり、遊びと学習を対立する二つの異なる世界に分けてしまうことに意味はなく、両者は一本の連続線の上に位置付けられている。自己活動という原理に立つ連続線の上に位置している。
 車のハンドルやブレーキにも「遊び」があるように、機械にも「遊び」が必要だが、その「遊び」おは余裕であり、ゆとりである。まして人間にはゆとり、すなわち遊びは必要欠くべからざるものである。「ゆとりの時間」や「特活」や「生活科」においてだけでなく、教科学習を含む教育全般において、遊びの原理が生かされなくては、学習活動の基礎である自主性を子どもの中に育てることはできないであろう。未来の明るい教育のためにも、遊びの原理の教育の原理への応用が求められているのだ。

V. 考察
以上で述べてきたことは、1980年代であれば非常に真新しい視点であったが、今日ではそれほど新しくもなく、 むしろ、偏差値教育からゆとり教育への転換が図られ、そのゆとり教育が頓挫してしまったという現在の状況にあっては、 その結論にはクエスチョンマークが付く部分もある。しかしながら、「遊びの原理を教育に生かす」ということの重要性は、 上に見てきた通りである。ゆとり教育で結果が出なかったからといって、ゆとり教育を全て否定してしまうことは全くもってナンセンスである と考える。能力主義価値観に基づく偏差値主義的教育から子どもの個性を重んじたゆとり教育へと転換を図る際に議論された内容を忘れてはなら ない。教育にとってなにが一番よいのかを考えることは非常に難しいことではあるが、これまで議論されたことを全て踏まえた上で、政策等は考 えられていかねばならない。その際には、上にまとめてきたような、「遊びの原理」の重要性はしっかりと理解されておくべきポイントであるだ ろう。「遊びの原理の教育の原理への応用」は、未来の明るい教育にとっての必要条件であるといえるだろう。


参考文献
・ 子どもと遊び. - 福村出版 , 1980.6. - (治療教育講座 / 上出弘之, 伊藤隆二編 ; 14).
・ 遊びの教育的役割 / 柴谷久雄編著. - 黎明書房 , 1972.10.
・ 遊びの原理に立つ教育 / 森楙著. - 黎明書房 , 1992.3.