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今後への示唆
4つのポイント
「学力」の定義
「学力」の測定と結果の解釈
学校教育の方向性に対する認識
大人への問い
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以上の考察から、「学力低下」問題やそれを踏まえた学校教育のあり方、さらには学校を取り巻く社会のあり方を考える上で、どのような示唆が導かれるでしょうか。私たちは、「学力」の定義、「学力」の測定と結果の解釈、学校教育の方向性に対する認識、大人への問いという4つのポイントを考えました。以下に、それぞれについて述べていきます。
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前提として、社会においてある程度共有できる形で「学力」の定義を行うことが必要であると思います。「学力低下」論争が混迷を極め、また、論争を受けた各関係者の対応の「ずれ」を生み出したのは、「学力」観の共有がなされていなかったことによるところが大きいといえます。「学力」は1つの力で定義されるものではなく、「学力」観は人によって異なって当然ですが、ある人がどのような「学力」観を持っているのかが他者にとって明らかにならなければ、「学力」についての意味ある議論は不可能です。「学力」に含まれるさまざまな力について議論し、どのような力が、何のために必要なのかという観点から「学力」の定義を行う必要があります。
その際に求められるのが、「将来の日本の社会像」と「そこで要求される人間像」を真摯に考える姿勢です。立場による各々の直接の利害関係が議論に絡むのは仕方のないことですが、基本にはこの姿勢が不可欠です。「学力」とされる力は、社会の情勢や価値観の変化にともなって変わっていくはずのものです。「学力」を考えることは、すなわち現在の社会の状況を把握し、将来の社会を予測し、目指すべき社会を想定することであり、「学力」を育む子どもに対して大人が常に遂行すべき責務であるといえるのではないでしょうか。
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「学力」について社会の中である程度共有され得る定義がなされたならば、そのそれぞれの「学力」の現状を把握し、教育方法を評価し、目標を設定するために適切な測定を行うことが必要です。「学力」の測定は、地方自治体や個々の学校も実施主体となり得ますが、ここでは、国レベルでの教育の方向性を考える視点に立って、中央教育行政にかかる「学力」の測定を考えます。
測定の適切さは、特に、測定を行う対象の抽出と、「実践的な力」に多く含まれる測りにくい力の測定に関して問題になります。測定方法は、よりよいものを柔軟に採用していくべきですが、測定方法の変更は、変更の前後でのデータの比較可能性に影響します。したがって、測定時期による「学力」の比較を行うために測定方法を維持するか、より妥当である可能性のある方法に変更するかを、十分に検討して判断を行う必要があります。
次に、測定結果を適切に解釈することが必要です。4つのポイントの中でも、ここがもっとも立場の違いによる問題の生じやすいところであると考えられます。というのも、測定結果の解釈には、「学力」の定義と同様、立場による利害意識が介入することは不可避であり、しかも「学力」の定義の場合と違って、それぞれの立場の認識が一致しないときにそれらが共存し得ないからです。つまり、各関係者から「学力」の定義について様々な見解が示された場合には、それらの見解に妥当性があると認められればすべて「学力」に含まれるものとして扱うことができます。しかし、「学力」の測定結果に対して相反する解釈が示された場合には、「学力が下がっているともいえるし下がっていないともいえる」と結論することはできません。測定結果を施策の評価や今後の目標設定のための有効な資料とするには、その解釈についての統一的な見解が必要です。
統一的な見解が適切なものであるためには、立場による利害意識を排除した、客観的な判断が求められます。また、統一的な見解が理解され(
この「理解」において、必ずしも見解と同じ認識を持つ必要はありません。見解と異なる解釈を取っていても、見解がそれはそれとして妥当なものであると認めるという意味での「理解」です。
)、測定結果が有効な資料として利用されるようにするためには、その見解についてそれぞれ異なる利害関係を持つ各関係者に対する十分な説明を行うことが求められます。文部科学省について言えば、これまでの対応から伺われた、国民が納得できる説明を伴わない自らの理念への固執や、現場の意識に対する顧慮の欠如や、本音と建て前の分離などがあってはなりません。「全体の奉仕者」としての本意に立ち返って、中立的な立場から国民に向き合う姿勢が問われています。そして、いま行政に対して盛んに言われているアカウンタビリティが、教育行政にも要求されているといえます。
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「学力」の測定結果は、測定時点の学校教育の評価であるとともに、将来に向けた学校教育の目標を定める基準です。測定結果の解釈がさまざまであり得るのと同様に、測定結果を受けた学校教育の方向性に対する考え方もさまざまであり得ます。個々人の価値観が異なる以上これは当然のことで、それ自体に問題はありません。そのために多様な理念を掲げた学校が存在し、価値観に合致する学校を選択することができます。
ただ、自由な価値観を有する権利、価値観に基づいて自由に行動する権利が、現在は社会のどの分野においても行き過ぎているように思います。自らの価値観を有し主張する権利の裏には、他者の価値観を理解し尊重する責務があるはずです。義務をともなわない権利は独善に過ぎません。このような権利義務の意識の歪みが教育の分野で如実に表れたのが、「学力低下」をめぐる一連の経緯だったのではないでしょうか。すなわち、教育の関係者が「学力低下」問題に関して自らの立場の保守や主張のみに徹した結果が、「学力低下」論争の不毛な混迷であり、学校現場に関わる各関係者の対応の「ずれ」であったのではないでしょうか。
この反省に立って、今後の学校教育の方向性については、各関係者が自らの立場を客観的に認識し、立場の目先の利害やそれに対する扇動に流されず、他の立場を理解して、広い視野を持った認識を形成することが必要であると思います。これは、「「学力」の定義」の項で述べた姿勢に通じるものであるといえます。
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「学力低下」問題をこのように考察してくると、この問題は今日の大人に対する問いかけであると考えられます。この問いかけは、「大人に求められる力」と、「子どもにとっての将来像である大人のあり方」の2つに対してなされていると思います。
上記の議論からは、教育に関わる大人が自ら考え、自ら判断し、自ら行動する力や自らを律しつつ他人とともに協調する心が求められているといえます。これはすなわち、文部科学省が言う「生きる力」です。子どもにこうした力をつけさせようとする前に、大人自身にこのような力が欠けているのではないか、そのことが子どもの力を育む教育現場を混乱させているのではないかという問いかけが、議論から浮かび上がってきます。
教育の各関係者が他者の主張に乗じた、あるいは振り回された対応をとり、学校現場が混乱する中で、学校教育が真に自分の幸せを願ってなされるものであるという感覚を当の子どもたちが持つことは、ほとんど不可能である思われます。これは、学ぶ意欲の低下につながるでしょう。また、どれほど「あなたの将来のためだから頑張りなさい」と言っても、子どもが将来の自分の姿をそこに重ねるであろう現在の大人の姿は、子どもに希望を与えるにはほど遠いといえます。子どもは大人をよく見ています。不安や失望や無気力に満ちた社会を形成している大人たちが「将来に希望を持って努力しなさい」と言う言葉は、子どもには空虚に響くでしょう。大人の不安や失望や無気力が子どもにそのまま受け継がれてしまわないように、本当に「子どものため」になることはどういうことであるのかを考えるのが急務です。そのためには、まず大人が自らを振り返ることから始めなければならないのではないでしょうか。