ヒトの発達科学

山本義春(東京大学大学院・教育学研究科)

August 25, 1998

医用生体工学(ME)には一見不釣り合い な標記のテーマに関する特集を企画した理由 を,以下に挙げる.

1.発達を通してヒトを学ぶ

脳・神経系,免疫系の例を引き合いに出す までもなく,ヒトのからだは,実に精緻にで きている.このような複雑・精緻なシステム の動作原理を解き明かすためには,成人の生 体の機能を調べるとともに,その機能の獲得 過程を明らかにすることは大きなヒントとな りうる.特にヒトの場合,他の動物に比べて 未熟な状態で生まれてくるという特色があり, 成人にみられる生体機能の大部分は,発達と いう現象を通じて立ち現れるのである.発達 過程を記述することの重要性は,あたかも, 複雑な社会システムを分析する社会科学にお いて,常に歴史的視点の重要性が叫ばれるの に似ている.

本特集の中心となる神経系の発達について いえば,そのパーツとなるべきニューロンの シナプス密度は,成人同様の機能が獲得され る以前に,量的にはピークに達しているとの 有名な報告がある.すなわち,新たな機能獲 得のために特異的なパーツが準備されるとい うよりも,既存のパーツを組み替えることに より機能を獲得して行くというようなシナリ オの存在が示唆されるのである.この組み替 えが乳児を取り巻く環境に誘発されるのか, 組み替え自体が遺伝的にプログラムされてい るのか,あるいは近年話題の自己組織化シス テムとして創発的に秩序形成が行われている のか,様々な可能性が考えられるであろう. 特に最近,最後のシナリオをヒトの発達に見 出そうとする研究の萌芽がみられるようにな り,本特集においても,そのような観点から のアプローチが紹介されている.発達研究が, いわゆる複雑適応系の研究の大きな原動力の 一つになる日が来るかも知れない,と個人的 には考えている.

2.ヒトを計る方法論

一方で,ヒューベル/ウィーゼルが明らか にした一次視覚野の発達機構に代表されるよ うな発達神経科学の膨大な知識は,方法や倫 理的な理由から,ヒト以外の哺乳類を対象と して得られたことも事実である.ヒトの発達 過程の研究においては,行動科学的手法を取 り入れたり,短時間で非侵襲的に生体情報が 取得できるような測定・解析システムを開発 したりと,研究手法自体の工夫も必要とされ る.特に前者については,赤ちゃんが見せる 生後一年間の行動の著しい変化がきわめて印 象的であることから,これを定量化する努力 がなされてきたといえる.そしてこれらの手 法は,従来の神経学的検査法の枠組みからす れば,必ずしも「定量的」とはいえないかも 知れない.

しかしながら,とりわけ人間科学的な見地 からいえば,神経学的検査法の多くが拠って たつところの「刺激−反応図式」には,注意 が必要であると言わねばならない.赤ちゃん は,物は言わねど,母親を始めとして,周囲 の(人間)環境に埋め込まれて生きている. そこでは,検査精度を高めようとの目的で与 えられる電気刺激などの物理的な刺激は言う に及ばず,検査行為自体がもたらす特殊な状 況が「侵襲性」を持ち,システム自体を変化 させる可能性をも考慮する必要がある.

これに対して,本特集でも紹介されている とおり,乳児の四肢の微細な動きを運動学的 に観察することによって発達障害の臨床像が 明らかになったり,行為にみられる「淀み」 を詳細に分析することによって,いわゆる知 能発達の諸相が浮かび上がってくるといった, 純粋な,しかしながら詳細な観察に基づくア プローチには学ぶべきところが多いように思 える.観察のみといって侮るべきではない. ダーウィンの進化論を思い出していただきた い.

このようなヒトを計る方法論上の問題は, 現在ME学会でも流行の在宅モニタリング技 術などとも関連して興味深い.病院で行われ る検査を自宅に持ち込むという技術も重要で あるが,同時に,生活者を視野に入れた「計 測」,行動や会話などの観察を通じて患者の 状態を把握する,というような(人間科学的) アプローチもまた必要なのであろう.

3.MEとの接点

特集のもう一つのねらいは,これまでME と小児科学・発達科学との接点が希薄であっ た(ように思える−少なくともBME誌のこ れまでの特集では取り上げられなかった−) ことに配慮し,ヒトの発達研究がMEに期待 することなど,現時点での接点を整理してお きたいということである.

乳児突然死症候群に関する厚生省研究班の 報告が報道されたことは記憶に新しいが,こ の原因不明の疾患の臨床像を把握し,ハイリ スク児を拾い上げるために必要な(在宅)モ ニタリング機器や,得られる生体信号の処理 ・解析・解釈についての展望が,本特集でも 取り上げられている.

超高齢化社会の到来を目前にし,高齢者医 療,健康・福祉を支えるテクノロジーに対す る期待の高まりから,MEがそのような研究 の方向性を目指している現状は,むしろ当然 といえる.しかしながら,同時に超高齢化社 会を支える役割を担うのは子ども達であると いう事実もまた,強調されるべきと考える. 先進国における周産期・乳児医療の進歩,乳 児死亡率の低下に果たしたMEの役割は無視 できない程大きいと考えられるが,小子化の 進行,環境安全性の低下など,子ども達を取 り巻く状況は大きく変わりつつある.乳幼児, 青少年を健やかに育てるテクノロジーを考え 始める時期に来ているのではないかというの が,(杞憂であって欲しいのだが)個人的な 感想である.

そして本特集でも,様々な発達障害の臨床 像に迫るテクノロジーが,将来への展望も含 めて数多く紹介されている.

正直申し上げると,今回執筆をお引き受け いただいた先生方の原稿を読ませていただく 限り,1.および2.の目的については,何 らかの有効な示唆が得られたのではないかと, 個人的には満足している.ただしこれは,本 特集の企画立案に際してご尽力いただいた, 榊原洋一氏(東大・医)のお力によるところ が大きいことを申し添えるとともに,氏には 心より感謝申し上げる.一方,BME誌の本 題である3.に関して不十分なところがある とすれば,それは全て筆者の責任である.そ の場合,MEとは一見無関係な「教育学研究 科」に所属する筆者が,分不相応にも編者を お引き受けした事情を鑑み,お許しいただき たいと願う.

(日本ME学会雑誌BME、12巻7号特集「ヒトの発達科学」巻頭言; 詳しくは同誌をご覧下さい)

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ヒトの発達科学

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The translation was initiated by Yoshiharu Yamamoto on 1998年08月25日 (火) 11時26分11秒 JST


Yoshiharu Yamamoto
1998年08月25日 (火) 11時26分11秒 JST