企画シンポジウム
・準備委員会企画
・研究交流委員会企画
<準備委員会企画シンポジウム>
9月8日(木)13:00〜15:00
◆<K1>医療をフィールドとした質的研究
<司会・企画>
高橋 都(東京大学大学院医学系研究科)
<話題提供>
清水準一(首都大学東京健康福祉学部看護学科)
会田薫子(東京大学大学院医学系研究科)
山崎浩司(京都大学医学研究科)
<指定討論>
戈木クレイグヒル滋子(首都大学東京健康福祉学部看護学科)
大滝純司(東京大学医学教育国際協力センター)
応用領域の一つである医療現場でも、近年質的研究への関心が急速に高まっている。しかし、医療現場における権力構造や、医療現場の特殊性が十分認識されているとはいいがたい。
本シンポジウムでは、医療をフィールドとした質的研究を行う際に意識する必要があると考えられる側面をとりあげ、議論する。今回着目するのは、@医療者である研究者が患者の協力を得て質的研究をする場面(清水) A非医療者が医療者の協力を得て質的研究をする場面(会田) の2つである。
加えて、いわゆる「一流医学雑誌」と呼ばれる国際誌に掲載される質的研究がどのような傾向(データ収集手法、協力者の依頼方法など)を持っているのか、この5年間に発表された論文のレビューの発表も行う(山崎)。
9月9日(金)13:10〜15:00
◆<K2>
喪失を聞くこと、喪失を語ること
<企画>
川野 健治(国立精神・神経センター)
飯牟礼悦子(白百合女子大学児童文化学科)
宮崎 朋子(名古屋大学大学院教育発達科学研究科)
<司会>
宮崎 朋子
<話題提供>
柳田 邦男(ノンフィクション作家)
矢守 克也(京都大学防災研究所)
<指定討論>
相川 充 (東京学芸大学総合教育科学科系)
Arthur Frank(カナダ・カルガリー大学)
山本登志哉 (共愛学園前橋国際大学国際社会学部)
川野 健治(国立精神・神経センター)
たとえば大切な家族を自死によって喪った遺族にとって、それはおいそれと意味づけることのできない、深く重い体験である。そして遺族の周囲の人々もまた、どのように声をかけ関わるべきかについて戸惑い、時に目をそむけてしまう。この双方の竦みの中で、「語られない物語」が推し量られる。
ところが、あしなが育英会の自死遺児たちの文集がそうであったように、一度(つまりながらも)言葉になりはじめるとその個別的な「語られない物語」同士が相互に重なり、響き合うという事態が生まれる。喪失は、逆説的にその豊かさを孕むものといえるかもしれない。ここに、経験を実体化して個人の中に位置づけてきた従来の心理学の想定を越えるもの、すなわち「物語」の「伝達」を考える意義がある。
しかし、喪失の語りとは単なる表現ではなく、悲しみや苦しみを伴い、評価を受けるものである。そしてそれを「語り−聞く」中で、語り手・聞き手ともに、あらたな気づきや出会いを経験するものであろう。それらを切り捨てることなく、「研究」とすることはできるのだろうか。あるいは「研究」してもよいものだろうか。すなわち、当事者に真向かい、その物語や表現を聞き取り、書きとめ、研究として報告する「研究者」とは何者でありえるのだろうか。
このことを考える上で、「ノンフィクション」から、私たちのなそうとしている「研究」を考えることに重要なヒントがあるのではないか。がん患者など重要な他者の喪失を数多く聞き取り、また、「犠牲」(1998)を綴りその反響として多くの語りに出会ったノンフィクション作家である柳田氏と、阪神淡路大震災の語り部支援と研究を続ける心理学者である矢守氏の話題提供を比較しながら、資料(データ)、検証、責任、物語、概念生成といったいくつかの切り口を念頭に検討したい。
◆<K3>
質的研究と量的研究をいかに繋ぐか −乳幼児発達研究への新たな可能性を探る−
<企画・司会>
坂上裕子(東京経済大学コミュニケーション学部)
<話題提供>
久保ゆかり(東洋大学社会学部)
小松孝至(大阪教育大学教育学部)
郷式 徹(静岡大学教育学部)
<指定討論>
斉藤こずゑ(國學院大学)
柴山真琴 (鎌倉女子大学)
近年,心理学の方法論として,質的研究法が評価され,質的方法を採用した研究が数を増やしつつある。無論,発達研究においても,そうした流れは例外ではない。もっとも,乳幼児を対象とした発達研究は,家庭や保育園,幼稚園といった「現場」で進められることが多く,少数事例を対象とした認知や言語,関係性の発達過程,あるいは子ども集団の中での相互作用の変容過程の質的検討は,比較的早い時期から行われてきたといえる。しかしながら,青年期以降を対象としたナラティブデータに基づく研究の発展に比すると,乳幼児期の発達を扱った質的研究の進展には,やや見劣りするところがある。
そうだとすれば,その理由はどこにあるのだろうか。実際のところ,発達研究者の多くは,量的方法の訓練を受けてはきたものの,仮説―検証型の研究に行き詰まりを感じ,それを打開すべく,どのように質的方法を取り入れ,活用していけばよいのかを,試行錯誤で探ってきたように思われる。一方で,質的方法によってもたらされる利点があることは十分に認識されつつも,安易に質的方法を取り入れることへの批判の声があることもまた,目を背けることのできない事実である。
このところ,質的方法の長所や量的方法の短所,また,質的方法と量的方法の相違点については,随分と論じられてきたように思われる。そこで本シンポジウムでは,次の段階として,両者の類似性や,質的方法の短所,量的方法についても見直してみることで,質的方法の「諸刃の剣」としての性質を,改めて考えることとしたい。今回の話題提供者はいずれも,乳幼児期の発達に関する特定のテーマについて,量的,質的,両方の方法によって研究してきた方である.久保氏には情動発達,小松氏には自己の発達,郷式氏には認知発達の領域から,ご自身の研究をご紹介いただき,両方法による研究をどう使い分け,また,統合してきたのかについて論じていただく。
いうまでもなく,本シンポジウムでは,量的方法,質的方法を二項対立的なものと捉えるのではなく,発達研究の両輪として相補的に使うことで,発達の縦糸と横糸をどう捉え,表現していくことができるのか,新たな可能性を探る機会としたい。
9月9日(金)15:30〜17:30
◆<K5>レイアウトと姿勢
ーアフォーダンスへの質的接近
<企画・司会>
佐々木正人(東京大学大学院教育学研究科)
<話題提案者>
松裏寛恵(東京大学大学院教育学研究科)
野中哲士(東京大学学際情報学府)
西崎実穂(東京大学大学院教育学研究科)
<指定等論者>
無藤隆(白梅学園大学)
環境の意味とそれを探り発見する身体、相補的に存在する二つのことをなるべくそのまま心理学の舞台に登場させることはできないだろうか。これまでの生態心理学は実験的な手法が用いられることが多くそこで扱われてきた「環境と身体」がアフォーダンスを記述する単位になりえていたのかどうか疑問もある。本シンポで発表するグループは限られた数の乳児を縦断的に観察して、発達初期の乳児のアフォーダンスの探索と発見を検討してきた。そこで物の配置換えから探求されているレイアウトと、その吟味を可能にしている姿勢の組織(入れ子)という単位を見出した。ここではこのレイアウトと姿勢という単位で記述される出来事が果たして質的心理学足りうるのかどうかということについても議論したい。
◆<K6>
ジャーナリストの経験と方法に学ぶ―中村梧郎さんをお招きして―
<企画・質問者>
伊藤哲司(茨城大学)
<話題提供者>
中村梧郎(フォトジャーナリスト)
<指定討論者>
田中共子(岡山大学)
本企画では、ベトナム等での枯葉剤被害の報道で長年活躍してこられたフォトジャーナリストの中村梧郎さんをお招きし、ベテランジャーナリストの経験と方法に、私たち心理学等の研究者がいかに学べるかを追求する。
ジャーナリストが書くルポルタージュは、研究者が書くエスノグラフィーと共通点が多々あるとかねてから指摘されているが、その取材・調査からその成果を書き上げひとつの作品に仕上げるまでを丹念に追っていけば、質的研究を志す者にとって、大いに示唆が得られるであろう。今回は、主にベトナムをフィールドに研究を行っている伊藤哲司が質問者(インタビュアー)となり、中村さんにはそれに受け答えをお願いし、とくに若い研究者に向けてご自身の経験と方法を大いに語っていただきたいと考えている。
話題は多岐に及ぶことが予想されるが、抽象的な話よりも、むしろ具体的なインタビューの方法、写真撮影のノウハウ、ノートの取り方のポイント、またそれらを元にいかに厚く書くかといった話に焦点を当てたい。それらを通して、通常は語られることのないジャーナリストとしての仕事のコツのようなものにも触れられればと考える。それによって良きジャーナリストないしはフィールドワーカーとして自身を研鑽していくためにはどんなことが必要なのか、参加者がそのきっかけだけでも掴めるような機会にしたい。
以上を受けて指定討論者の田中共子さんには、あらためて別の視点からコメントを投げかけてもらい、その後はフロアーを交えての質疑応答や意見交換を時間の許す限り続ける予定である。
◆<K7>養育・教育の文脈における子どもとおとなの分水嶺
:子どもについての語りに潜むおとなのコロニアルなまなざしを超えて
<
企画>
藤江 康彦(お茶の水女子大学)
秋田喜代美(東京大学大学院教育学研究科)
<司会>
秋田喜代美(東京大学大学院教育学研究科)
<話題提供>
本田 和子(お茶の水女子大学)
浜田寿美男(奈良女子大学)
西平 直 (東京大学大学院)
20世紀は「児童の世紀」といわれた。「子ども」という存在を措定し合理的科学的に理解しようと、子どもに関する事象を語り意味づけてきた。その前提には、「子ども」という異領域の策定があっただろう。つまり、おとなは異界に生きる存在として子どもについて「何をする者か」と問い語ってきたのである。そこには、コロニアルなまなざしが潜在するといえるだろう。すなわち、子どもを理解するという言説、子どもとは何をするものかについて語るという行為は、同時に、子どもを「非おとな」としておとなから分断し、対置させて、異質なもの、対抗しうるものとみなすことだったのである。そこに、おとなから子どもへのコロニアルなまなざしがみてとれる。見方を変えれば、「子どもが分からない」「子どもがおかしい」という言説は、子どもへの覇権が危ぶま
れていることの証左でもあるだろう。
なぜ我々は、上記のように語ってきたのか。おとなにとって、子どもとは養育や教育の対象であり、育ちのために最適な環境を与えられ、発達を促される存在であるとされる。子どもは、おとなのケアを必要とするとみなされているのである。そのことをポストコロニアル的にみれば、おとなは、子どもを「おとな」へと教え導く主体であり、子どもの発達を操作する主体として自己を編成しているのではないか。おとなにとって子どもは親−子、教師−生徒という関係性を前提として存在する。子どもについて理解し語ることは、親としての自己、教師としての自己を確認し強化することでもある。養育や教育のシステムは本質的にコロニアル的であることを免れない。しかし、現代の世代間伝達において、養育や教育のシステムを放棄することもできない。
このジレンマ状況において、子どもの語り方や問い方を変えることで、多少なりとも救いをみいだせるだろうか。あるいは、我々は、養育や教育において、子どもに対してコロニアルなまなざししかむけられないのか。我々はどのように子どもを理解し語ることができるだろうか。以上の問いについて、話題提供を受け、議論を進めていく。
<研究交流委員会企画シンポジウム>
9月9日(金)13:10〜15:10
◆<K4>
「施設における子ども・障害者・高齢者の生活支援
:空間・環境的視点の質的分析から環境づくりの提言まで
<企 画>
質的心理学会研究交流委員会
<司 会>
呉 宣児(共愛学園前橋国際大学)
<話題提供>
苅田知則(愛媛大学教育学部)
佐藤将之(早稲田大学人間総合研究センター)
三浦 研(大阪市立大学大学院生活科学研究科)
<指定討論>
南 博文(九州大学大学院 人間環境学研究院)
麻生 武(奈良女子大学大学院 人間文化研究科)
幼稚園、保育園や病院など施設おける子ども・障害者・高齢者の生活支援と言った場合、まずは社会的やりとりによる心理的サポートのイメージが思い浮かぶかも知れない。物を使い、どこかの空間を占めながら生活していることは確かであるが、物や空間・環境といった視点はいつも背景に置かれ、意識的に捉えることは少ないのではなかろうか。
本シンポジウムでは、あえて空間・環境という視点を意識的に捉えることにする。空間・環境的な視点で、施設における人々の生活を質的に捉えるということはどういうことなのか、質的に捉えた場合どのような諸相が浮かびあがってくるのか、そしてどのようなサポートの可能性が示唆されるのかなどについて、話題提供やディスカッションを通して探ってみたい。
9月9日(金)15:30〜17:30
◆<K8>
看護学における質的研究手法の教育方法
:量的研究手法のように教育可能なものか?否か?
<司会>
操華子 (聖ルカ・ライフサイエンス研究所)
<話題提供>
竹崎久美子(高知女子大学)質的研究手法を看護系大学院で学んできた立場から
高木廣文(新潟大学)質的研究手法を看護系大学ならびに大学院で教えている立場から
西村ユミ(静岡県立大学)質的研究手法を臨床ナースに教授している立場から
<指定討論>
尾見康博(山梨大学)
鈴木智之(法政大学)
森岡崇(慶應義塾志木高等学校)
看護系大学、大学院において質的研究手法への注目、関心は非常に高まっている。しかし、看護系大学、大学院における研究法の授業において量的研究手法に重きがおかれていることは否定できない。一方臨床の場では、質的研究手法こそが自分たちの看護を語る上で欠かすことができない研究手法であると認められつつある。このように、医療現場における質的研究への関心の高さには追いつかず、その方法論の教育は不十分なままのようである。質的研究手法の教育は、量的研究手法のものと同じようにはできないのか。できないとすればどのような教育手法が必要なのか。臨床ナース達が質的研究手法をどのようにでいくことが可能なのか。このあたりの問いへの答を本シンポジウムで模索したい。
シンポジウムでは、医療現場において、特に看護職者が関心をよせている質的研究手法の教育方法、学習方法についてとりあげる。