[世持神社物語] 久場川淳(2004年11月連載,全9回+α)
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ハイサイ、系図屋タムラです。いま、皆で沖縄の歴史の勉強をしようと明治・大正期について調べているけど、なかなか纏められなくて苦労しています。そのうちここに掲載しますので、もうすこし時間をください。
さて、本日(11月10日)は何の日か知っていますか?・・・奥武山公園にある世持(よもち)神社の例祭の日だと、だれも知るわけないよね。
今日出てきたのは、この世持神社にまつわる話です。少し長くなりますが分けて書きます。一つの歴史としてとらえてください。
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奥武山はその昔、旧那覇の南端を切る国場川河口に浮かぶ中州(島)であった。そこは鬱蒼とした森に覆われ、軽々しく人を寄せつけない神聖な地とみられていた。戦後の埋立事業で陸続きとなり、スポーツ施設が集中する現在の奥武山公園となったが、今でも園内には昔日が偲ばれる空間が残っている。
奥武山公園内の県立武道館横に世持神社の石の鳥居がある。石段をあがると亜熱帯の樹木に囲まれた小さな広場があり、奥に木造の社みたいなものが置かれている。しかしそれは、ニセモノで誰かが勝手に建てた不法建造物だ。本来の世持神社のお社は戦災で焼失しており、「ご神体」はさまざまな変遷を経て、現在は波の上宮の片隅に安置されている。
沖縄の公園や史跡、墓地、聖地と呼ばれる場所には、建造物や碑や像などを勝手に設置するケースが多い。その多くは戦後、文化財保護や公園整備などまでに行政や市民が気が回らなかった時代のドサクサに紛れて出てきたものだ。話はそれたが、この世持神社は沖縄産業の三賢人・蔡温、儀間眞常、野國總管を祀った郷社で昭和12年に建立された。
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世持神社の建立は、沖縄の農民がサトウキビ代金の一部を積み立てて資金を造成し、昭和12年11月10日に鎮座された。この神社創立への動きは大正時代の終わり頃から県民の間にあったようで、最初は野國總管ゆかりの人たちから起こった。
1605年甘藷(サツマイモ)を中国から導入した野國總管は北谷間切の野國村の生まれだが、總管というのは名前でなく、進貢船のチーフパーサーのような職名であったらしい。また生没年もはっきりしない。しかし地元では伝説の人であり、芋の普及でその後の沖縄の人口が飛躍的に増加した事実を考えると聖人として崇めるに値する人物である。
總管ゆかりの人たちは顕彰碑を建てたが、やがて神社を建てて祭神として崇めようと考え始めた。それは当時の日本国内にそういうブームがあったので自然な成り行きだった。例えば乃木将軍を奉った乃木神社や東郷平八郎の東郷神社などがこれだ。
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野國總管を祀る神社を建立しようとする動きはやがて儀間眞常の関係者をまきこみ、沖縄県の糖業者や農業団体にも伝わった。芋の普及や製糖技術を導入した儀間眞常(1557〜1644)は沖縄産業経済の最大の功労者である。
儀間真常は儀間村(現在の垣花、山下町あたり)の地頭職(村長)であり、その子孫には王府の中枢まで出世したものが多く、門中麻氏にはしっかりした記録が残り、野國總管の業績もその麻氏の家譜から調べられたものであった。總管は真常とほぼ同世代であると推測された。そしてこの二人の産業の恩人を合祀した神社建立は全県的な運動にひろがりをみせた。そこで有志の名前で、県や内務省に儀間と野國の二人を祭神とした神社創立の許可を申請した。
しかしこの申請は却下された。
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野國と儀間の二人の祭神とした神社の許可が却下された理由は身分の問題であった。
当時の監督官庁である内務省の規定では神社の神として認められるのは正三位以上の身分となっていた。ごく大雑把にいうと大臣(閣僚)より一つ上のポジション、副総理や総理、衆院議長クラスだ。サムライでいえば、大納言以上、だから右大臣正二位であった菅原道真は神になれるが(天神様)、水戸黄門(中納言従三位)はなれない、ということになる。そこで蔡温(具志頭親方文若)を加えた。蔡温(1683〜1761)は久米村の生まれで琉球王府の最高のポストである三司官まで出世した行政家。治山・治水、農地開発、産業奨励などに業績をあげ琉球史上最高の指導者の一人である。しかし野國、儀間とは60年以上あとに活躍した人で、これを2人と並べるのには多少無理がある。
しかし、蔡温は独立国・琉球王国のトップの身分であり、これを加えて三祭神として許可が下るように方針を変えた。
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大正から昭和初期ごろの沖縄農民の願いである蔡温、儀間、野國の三賢人を祀る神社創立の許可申請に対して、政府の壁は厚かった。内務省の見解では琉球王国時代の事であっても、沖縄は一県とみなされ、蔡温の身分は県副知事クラスの低い位階に位置づけられた。
それに対し、沖縄県の農業団体などは、当時の沖縄は小国ながらも独立国であり、蔡温公には対外的にも一国を代表する高い身分が与えられるべきだと、主張したが、厳しい規則の前にお手上げ状態であった。(余談であるが、現在でも勲章や褒賞などを審査する内閣府の賞勲局は厳しく、人情や主観などは一切通らない部署だ。)
ところが、思わぬ追い風が吹いた。大正天皇の崩御であった。
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昭和11年(1936)5月5日、内務省は世持神社創立を許可した。その内容は祭神として正座・具志頭文若(蔡温)、左座・野國總管、右座・儀間眞常の三体とし、特に蔡温には「大正天皇御大典にあたりその勲功により正五位を贈らる」とある。蔡温は没後180年にして日本の藩主クラスの身分を授かった。そして神社の概要として750坪の境内に7坪の本殿(流造り、木造銅板葺き)、28坪の祭器庫、23坪の社務所などの建物が記載されている。ただ許可証(公文書)の住所は那覇市通堂町三丁目となっており、これは許可申請した「期成会」事務局である農業団体の住所と推定される。
このように世持神社創立は、三賢人のゆかりの人たちや沖縄の農業団体と政府との駆け引きで実現したが、正式には管幣の神社でなく「郷社」であった(郷社=一定地域に限定された信仰の対象とする社)。
かくして奥武山の地に沖縄の農業者、産業振興の神様を奉る世持神社が誕生した。しかし時節は軍靴の音が近づきつつあり、やがてこの神社も挙国一致体制の渦に巻き込まれるのである。
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昭和12年、沖縄農民の願いであった三聖人を祀った世持神社が建立された。が、世は大陸での戦争が拡大せんとする時期にあたり、その影響を大きく受けた。
この時期、沖縄の農業はある意味で活気があった。冬春期のキャペツなど満州向けの野菜生産、中南部における軍用馬生産などが盛んであった。
農業団体でも挙国一致体制のもと食糧増産にとりくみ、組織も統合化がすすんだ。そして世持神社の存在も尽忠報国のシンボルとなったのである。昭和18年(1943)、沖縄縣産業組合聯合会(農協の前身)は30周年記念事業として野國總管、儀間眞常の顕彰碑を世持神社境内に建て、必勝を祈願し生産振興を誓い合った。世はまさにカーキ色に染められた。
昭和19年10月10日の那覇を襲った空襲、そしてその後の沖縄戦・・・奥武山の神聖な森、世持神社も全てが消え去った。
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終戦後、奥武山周辺にはPOW(日本軍捕虜)に代わる港湾荷役作業関係者約6,500人が投入されたのをきっかけに「みなと町」という街ができた。そして埋め立て事業によって地形が変貌し、かつての史跡や建造物などは消え去ってしまった。
そして世の中が落ち着き、サトウキビ生産や糖業が再び沖縄の基幹産業として脚光を浴び始めた頃、農業関係者の間に世持神社の再興の声があがった。1950年代後半の話である。
そのころ10.10空襲の混乱で行方不明となった世持神社の「ご神体」が突然世間に現れた。経緯は不明だが那覇市内に住むA氏が保管し、さらに同氏は自宅の庭に祠を建てて、これを祀っていた。
沖縄の農業団体は役員会で神社再建の決議までしていたが、この問題で再建を断念。その後、取りあげられることもなかった。
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しかし話はこれで終わらなかった、偶然かもしれないが、「ご神体」を預かっていたA氏の周りに急に不幸や災いが連続して起こったらしい。そしてA氏まで亡くなってしまった。
残ったA氏の家族は「これは精高い(サー高サン)」ということで波上宮の宮司に相談、結局、ご神体は波上宮に預けられることになり、以来同神社境内の一隅に置かれている。
時は流れて昭和60年から、毎年11月10日、午前11時に世持神社の例祭は、沖縄県の農業・糖業関係者や三賢人ゆかりの人たちを集めて、奥武山の世持神社境内でしめやかに執り行われる。その日は波上宮から白木の神輿に収められた「ご神体」が運ばれ、サトウキビの茎やサツマイモ、沖縄産の農産物が供えられ、作法に則り御祓いが行われる。
(おわりに)
明治・大正期の沖縄を求めて先月の「産業まつり」の日に奥武山公園内の史跡を回った。校内陸上競技大会やスポーツ観戦で行った35年前のオウヌヤマと比べて、樹木も高くなり、施設整備もすすみ、落ち着いた森になった。しかし、歴史的な場所や聖地であるべきところに、だれかが勝手に設置した拝所や新興宗教的ケバケバしい碑や建造物などが至る所に見られ、憤りを覚えた。世持神社境内も然りである。酷いのになると破損した銅像や顕彰碑の台座や資材をちゃっかり利用してコンクリートで固めて別な碑に仕立てたものもある。
こういう動機から「世持神社物語」を書いたのである。琉球王府三司官である蔡温は世俗にはびこるユタや霊媒などの信仰を世を乱すものと厳しく取り締まったという。いま、その安置されるべき場所に怪しげな拝所が居座っていることを、どう思っているだろうか・・・
静寂な神社境内に立つと、農産物販売代金を積み立て自らの誇りを示した戦前の農民たちの心意気を伝えなくては、との気持ちが湧いてくる。(了)