[パイン産業と台湾女工] ノブヒロ(2004年11月〜12月,全11回+α)
(1)
中一の夏休み(66年)、父母の実家のある石垣島へ家族で旅行した。当時はテレビ放送もなく、来る日も来る日も親戚回りに引き回されて、死ぬほど退屈な一週間であった。だから生まれて初めて本島から離れた旅行に何の感動も覚えていない。
思い出したというのは、出発日の那覇の港でのこと。ターミナルビルから岸壁まで、たくさんの若い女性であふれかえっていた。
甲高く響く会話から、台湾の女性であることは中学生にもすぐ理解できた。ほとんどが20代くらいか、中学生の目にやや老けて見えた人もいたが、せいぜい30代前半くらいだろう。
みな綺麗な服で着飾り、美しく化粧もしていて、港は朝っぱらから妖艶な雰囲気が漂っていた。とにかく脚の線が非常に魅力的で、中学生の目は彼女らの足元に釘付けになっていた。その日の天気がどうだったのか憶えていないので、空を見上げることがなかったのだろう。
当時の沖縄の20代以上の女性はほとんど大根脚だったといっても過言ではないと思うが、すらっとした長身と細い脚は実に目に新鮮であった。
(2)
ちょっと違う意味で連載が期待されている気がしないでもないが・・・
船は「クァイ川マーチ」を奏でながら出港、南へと向かう。しばらく甲板にいて海を見ていたが、本島の島影が遠くなるにつれ揺れが大きくなり気分が悪くなってきた。船室に入って横になった。2等船室はいわゆるザコ寝部屋で、たくさんの人と荷物でそれぞれのグループごとに占有されていた。
甲板ではあちこちで台湾女性たちの談笑している姿が見られたが、2等船室にはそれらしき人は1人もいなかった。夕食時のレストランにも沖縄の乗客と少数の本土からの観光客らしい人たちだけで、彼女らの姿はなかった。
日没の頃には揺れはさらに大きくなり、船酔いはいよいよひどくなった。済ませた夕食は全て洗面器に戻された。夜中もずっと気分が悪くて眠れないまま夜明けを迎えた。もうろうとした意識で窓から外に目をやると、うねる波と甲板に打ち込む波しぶきが見えた。窓に顔を近づけてみて驚いた。下方に女性の手が見えたのだ。
(3)
ピンクのマニキュアをしたきれいな手だった。甲板上で、頭まで毛布を被って片腕だけ出して寝ている台湾女性の手であった(この光景は鮮やかに憶えている)。
小さな円窓から左右に目をやると、甲板はカーキ色の毛布にくるまって横になっている人々でいっぱいだった。起きて座っている人もいれば、その腿を枕にして横になっている人もいた。毛布は、寒さ対策ではなく明らかに波しぶきを防ぐために使われていた。
一晩中こんなところで寝かされていたのか! 中一の私には彼女らがただ不憫に思えたが、船室内の雰囲気はそうでもなかった。隣の円窓あたりにいた中年男性数名が、窓を開けて外の女性たちと会話をし始めた。お互い言葉は通じていないが、身振りや片言でのやりとりだった。茶化したり冷やかしたりといったたぐいの会話で、「タイワナー」とか「台湾イナグ」という単語が彼らの口から聞こえた。
誰かがリンゴを差し入れすると、ピンクのマニキュアの女性がサッと受け取って一口かじり、彼女の笑い声があとに続いた。私は不憫に思った気持ちを心の奥にしまい、一部始終を眺めていた。
(4)
中には体調を悪くした人もいたはずで、できるだけ船室に入れてやればいいのにと思った。そして私が人肌で暖めてあげることができれば、お互い気持ちいいのにと考えたことを憶えている。
しばらくして船は石垣港に接岸した。雨風しのげる船室にいた乗客はほとんど下船した。船は後刻台湾の基隆港へと向かう。いとおしいシンデレラたちは船に残った。
(以下は当時思ったことではなく、今考えたこと)
船の運賃は特等、1等、2等とあるが、2等より安いので2等団体というのがある。彼女たちはそれ以下の運賃で乗船したと思われる。2等船室に入れなかったのだから。しかし基隆までは、船長の粋な計らいでガランとした2等船室を彼女たちに開放してくれたものと思いたい。石垣=基隆間の距離は那覇=宮古間とほぼ同じだから、たっぷり休息が取れたことだろう。
しかし石垣までは明らかに定員オーバーだ。みどり丸沈没事故以降も、需要があれば定員オーバー航海は繰り返されていたということか。
(5)
中学校で使っていた地図帳(小学校だったかも)には、表紙をめくると目次の次ページあたりにカラーの沖縄地図が折りたたんで綴じ込まれていたのを憶えているだろうか。その裏面には、沖縄の気候や人口分布、産業の状況を表す白地図とグラフ等がいくつか掲載されており、その一つに市町村別のパインの生産高を示す白地図があった。
石垣島と今帰仁村の上にとりわけ大きな赤い円グラフが置かれてあり、その大きさから石垣市が第一位、今帰仁村が第二位で、他の北部の町村や西表島(竹富町)の赤丸はぐっと小さく、第三位以下をまったく寄せ付けない地位にあることを示していた(私の記憶に基づく断定であり、間違っている可能性もある)。いずれにしろ、本島北部と八重山が1960年代のパイン二大生産地であった。
(6)
パインが沖縄に伝わってきた経緯を概括してみる。
パインは南米の亜熱帯地方(ブラジル南部からアルゼンチン北部一帯)が原産地で、新大陸発見当時には中央アメリカや西インド諸島に伝わっていたようだ。その後の大航海時代の波に乗って世界中へと広がっていき、18世紀までには熱帯・亜熱帯地域で広く栽培されるようになった。17世紀には、意外にもフランスで貴族たちが温室栽培し、苗の研究などを行っていたという。
東アジアで初めての生産は、日本の植民地として統治されていた台湾で1923年にスタートした。台湾は日本の食糧供給基地とするべく、国策として農業開発が強力に推し進められていた。三井資本が早くから台湾北部で糖業や茶の生産に力を入れたのに対し、遅れて進出してきた三菱は台湾南部(台南あたり)で大規模なパイン栽培とパイン工場を興した。その後三菱は地元収奪と合理化を強め、企業統合による工場再編をすすめる。工場閉鎖で供給先を失った栽培農家53家族が、マラリアの危険もかえりみず異境の地・石垣島へ1935年に移住しパインの生産をスタートさせた。これが沖縄での本格的なパイン生産の始まりであった。
(7)
ネットで調べてみると、沖縄本島へは台湾とは異なるルートで八重山より早く伝わったようだ。1927年、小笠原から本部町伊豆味に導入されている。しかし生産規模、栽培技術とも、台湾からの移住者が始めた八重山がリードしていたようだ。
台湾の人々の尽力で、八重山でのパイン生産は1938年には工場を建設するまでに発展した。しかし戦時下の食料増産政策の変更でパイン栽培は中断され、新天地に夢を託した移住者たちの努力は報われることなく水の泡と消えてしまった。
戦後、日本はパイン缶詰の生産地であった台湾を「失った」ため、沖縄が国内産地として脚光を浴びる。石垣島では1946年から、沖縄本島では1952年から栽培が再開されて生産は急増し、1960年にはサトウキビと並ぶ二大基幹作物として、沖縄経済を支える産業に成長した。北部や八重山の山林原野が大型重機で開墾され、現金収入の少なかった貧しい山村は活気づき、農村にパイン工場の煙突が林立した。1960年には「パインアップル振興法」という法律も制定されたらしいが、ネットではその内容を調べることはできなかった。
(8)
パインに希望を託した沖縄の起業家たちは、工場を建て、労働者を雇い入れる。当初は地元採用だったらしいが、地元の女性労働者の技術が未熟だったことと人件費がかさむという2つの理由から、台湾人熟練労働者を季節労働者として迎え入れるようになる。これは66年から琉球政府、米国民政府の了解のもと、農村の恒常的な労働力不足をカバーする目的でスタートした。私が生まれて初めて客船で旅をし、脚線に心ふるえた年とピッタリ一致する。
当時のパイン工場でどの程度の熟練度が必要とされたのだろうか。想像するに、機械化されたラインでの省力化された流れ作業ではなく、果実の選定や前処理、マシンの調整などに熟練した数多くの人の手が必要とされていたのだと考えられる。ということは、彼女たちは台北あたりの都会っ子ではなく、台南の工場で就労経験がある熟練女工だったのだろうか。いろいろ調べてみても「台湾からの出稼ぎ」とあるだけで、彼女たちの台湾での出身地について知ることはできなかった。しかし船上の小姐(シャオツェ=娘さんの意)たちはみんな華奢でスタイルも良くおしゃれだったので、腕に技術を持つ熟練労働者とは遠いイメージだった。
(9)
地元採用は人件費がかさむという点はどうだったのか。当時の沖縄の労働条件も低賃金で劣悪だったと思うが、台湾との比較で実際どうだったのか。仮に沖縄の労働者の平均月収が80ドルだったとすると、時給で約40セントになる。
当時の台湾人季節労働者の賃金は、時給に換算して「平均13〜29セント」というのをネットで検索できた。これを単純に比較すると、台湾の労働者を使う方がコストは少なくてすむのは明らかだ。20セント未満で使っていたのなら、沖縄の労働者の半分以下ですむ。加えて熟練労働者で仕事もできるのだから、使わない手はない。
沖縄の事業者たちがそこに着目し、国境を越えた労働力の移動を実現すべく琉球政府にかけあったのだろう。戦後復興と経済の確立を急ぐ琉球政府も、米国民政府の了解を取り付けるために奔走したと想像する。
日本の高度経済成長を支えた集団就職の中卒・高卒者を「金の卵」と呼んだが、台湾の小姐たちは沖縄にとってまさに「金のめんどり」であった。彼女たちは歓迎され重宝された。しかし彼女たちの置かれた境遇はどうだったのか。そして当時の北部農村の活況はどのような姿だったのだろうか。
(10)
現在の今帰仁のパイン栽培地は湧川、呉我山あたりだが、当時本島一の生産地だったとすると、主要栽培地はどこで、工場はどこにあったのだろうか。
工場近くには簡易な宿舎が併設され、女工たちはそこに集団で入居したのだろう。それ以外の居住スタイルは考えられない。男女別の寮があって、圧倒的多数の女工と、女工を現場で管理監督する役目の男性も少数ながらいたと思う。工場が稼働し女工たちが滞在することで、運搬業、食材や飲料、日用消耗品、理美容など色んな商売や業種が潤ったことだろう。
加えて、毎朝夕に女工たちが寮と工場を往復する風景は、のどかな農村に異質な雰囲気を漂わせていたに違いない。地元の男たちが、この来客に何の興味も示さなかったとは考えにくい。ウチナー娘(当時の)より脚は細く色白でエキゾチックだ。そんな姐々たちに取り入ろうと寮の辺りを徘徊する男が多くいたはずだ。彼女たちは休みの日は自由に行動できたのだろうか。それとも就労契約上原則外出禁止だったのか。もし規制がそう厳しくなかったとすれば、地元の男たちとのアクシデントもあっただろうし、その裏返しとして警戒心や妬み、差別意識が村に渦巻いていたと思われる。
(11)
台湾は終戦までの50年間、日本の植民地だった。台湾の産業は日本の大資本が牛耳り収奪を強めた。抵抗運動は弾圧され、同化政策がすすめられた。同化とはいっても日本人と台湾人の支配・被支配の関係、差別と被差別が歴然と存在していた。
当時台湾への出稼ぎは、八重山の若者にとって憧れだったという。男は日本人商人の家で丁稚奉公し、女は裕福な日本人家庭の家政婦となることに憧れた。また軍人、あるいは台湾を統治する行政機関の下級業務に就く者もいた。いずれにしろ、沖縄の人も台湾人を一段下の人間として見下していた。
台湾から女工がやってきたのは、戦後たかだか20年後のことである。彼女たちに対する性的関心とともに、かつての植民地の人間だとして差別意識や軽蔑的感情が大人たちにまだ残っていたとしても不自然ではない。当時の大人たちは(私の身近な人たちも)台湾人を「タイワナー」と呼んでいた。アメリカ人を「アメリカー」とも呼んだが、そのニュアンスは全然違っていた。
沖縄は、被害者、被差別者という部分が強調されがちであるが、台湾、朝鮮の人々に対して加害者、差別者という側面も持っていたということも忘れてはならないと思う。
(おわり)
「パイン産業と台湾女工」は、沖縄の人の加害者、差別者という側面についてふれてみたかったというのが書き始めたきっかけでした。石垣へ向かう船上のことからすぐそのことへ話を飛ばしてもよかったのですが、パインの歴史と台湾との関係を調べるうちに、深みにはまっていきました。そして結論の記述は、はしょり書きのようになってしまいました。
書いてきた内容には認識違いや思いこみもたくさんあると思いますが、重鎮氏の評に耐えられるものになったでしょうか?
このシリーズを書いた1ヶ月の間に、刺激された書き込みがあったので、それを使って「パイン産業と台湾女工・おまけ」を後ほど掲載します。掲示板を汚しますが悪しからず。
(おまけ・その1)
1966年7月21日、大宜味村田嘉里に住む少年Nにとって、中学生になって初めての夏休みだ。Nは友人二人と朝から家を出、半年前と同じようにマラソン競争をしながら南へと走った。しかし目的地は多野岳ではない。羽地に入って西に折れ、今帰仁へと向かった。
パイン工場が見えてくると走るのをやめ、あたりを見回しながら歩いた。
「あれだ」 目的の建物を見つけると、雑木林の小山を登っていった。
頂上から眼下すぐのところに女子寮が見えた。ちょうど建物の裏手になっていて、簡易な共同浴場・トイレの施設が建っていた。Nは持ってきた双眼鏡を取り出して、覗いた。二人がシャワーを使用中で、外で二人が順番待ちで腰掛けていた。次の番の女性は脱衣してタオルを身体に巻いており、もう一人はまだ服を脱がずに指輪をいじりながら自分の順番を待っていた。
風が吹いて木の葉が視界をさえぎったので、Nは思わず腰をかがめた。そのときバランスを崩し、「あーっ」という声とともに斜面を転げ落ちていき、女性たちの前で止まった。足元には双眼鏡がころがった。タオルを巻いた女性は驚いてシャワー室のドアに身を隠したが、もう一人は険しい顔つきでNをにらみつけた。
(おまけ・その2)
しばらくの沈黙の間、女性はまだ立ち上がれないNの身体を観察するようにじろじろ見つめた。やおら「こっちへおいで(台湾語)」とNの腕をむんずとつかんで引き起こした。Nは指輪の固い感触を覚えた。見ると蛇がとぐろを巻いた奇妙なデザインの指輪だった。Nはこのとき初めて恐怖感に襲われた。
「やめなさいよ まだ子どもだよ(台湾語)」ドアの影から声がかかったが、女性はかまわず、強い力でNを雑木林の中に連れ込んだ。
30分ほど経過した・・・・
先に姿を現したのは女性で、すぐ寮の中に消えていった。息を潜めて見ていた友人二人が斜面を駆け下りると、Nが茂みから出てきた。
「どうした 何があった(大宜味方言)」
「別に、何も・・・(大宜味方言)」
Nの着ている白い開襟シャツのボタンが一段ずつかけ違っていたので、何事もなかったはありえない。「テゴ×にされたのだろうか・・・」友人二人は同じ事を考えて顔を見合わせた。
(おまけ・その3)
甲板ではあちこちで台湾女性たちの談笑している姿が見られたが、2等船室にはそれらしき人は1人もいなかった。夕食時のレストランにも沖縄の乗客と少数の本土からの観光客らしい人たちだけで、彼女らの姿はなかった。
日没の頃には揺れはさらに大きくなり、船酔いはいよいよひどくなった。済ませた夕食は全て洗面器に戻された。夜中もずっと気分が悪くて眠れないまま夜明けを迎えた。もうろうとした意識で窓から外に目をやると、うねる波と甲板に打ち込む波しぶきが見えた。窓に顔を近づけてみて驚いた。下方に女性の手が見えたのだ。
ピンクのマニキュアをしたきれいな手だった。甲板上で、頭まで毛布を被って片腕だけ出して寝ている台湾女性の手であった。薬指の指輪に付いた水滴が朝日に光った。蛇がとぐろを巻いたような、不気味なデザインの指輪だった。(おしまい)