[The shocking awakening] ノブヒロ20039,全12回)

 


 

(T)

おととしの97日、カナダ旅行に出発した。この間の仕事で、アメリカ・カナダにそれぞれ約50名の中高生をホームステイで送り出している。ロサンゼルスは渡航経験もあり、私自身ホームステイのサブ添乗員として同行した体験もあったが、カナダはこれまで行ったことがなかった。それで見ておきたいと思ったのである(特にステイ地区であるバンクーバーを)。

生徒たちと同行してという訳にはいかない。コースは7月〜8月に複数設定されているので、私自身がいずれかのコースに同行したら、この仕事を単独でやっていることもあって他のコースの出発前準備や手配確認を代わる人間がいない。それで全てのコースが無事終わって、8月末の最終帰国者を待ってからの9月ということになった。

その費用はどうしたか。厳しい経営状況なので出張扱いという訳にはいかない。個人旅行で当然全額自腹である。久さんの英語習得じゃないが、これも自己投資だと割り切る。どうせ行くなら家族旅行でと計画していたが、妻の夏休み調整が困難となった。当時小学低学年の二人の子を一人でめんどう見るのはきついと思い、この次の機会にと説得して、代わりに義父と二人で行くことになった。

 


 

(U)

「ナイアガラの滝を是非見たい」という義父の要望を受け、JTBの「バンフスプリングスに泊る夏のカナダハイライト8日」にツアーは決まった。バンクーバー、カナディアンロッキー、ナイアガラを巡るゴールデンコースである。

97日午後、関西空港に集合。ツアー参加者は16名で、私たち以外に東は岐阜から西は鹿児島までの、夫婦、家族、親子、友人同士というメンバーで、女性添乗員梅村さんが付いてお世話をする。

機材のトラブルで2時間遅れで関西を出発、バンクーバー到着も少し遅れて午前11時であった。着陸前の窓からの風景が目に焼きついている。複雑に入り組んだ海岸線と波静かな海面、陸地は針葉樹林で一面の緑、海面は陽を反射して灰色だった。緑と灰色のまだら模様が延々と続いた。

バンクーバー空港で大型バスに乗り込むが、JTBの他のツアーメンバーも同乗し、人数は倍くらいになった。この方々はナイアガラ等の観光を終えて、バンクーバーが最後の観光地で、翌々日帰国ということであった。ラッキーな方々であった。

バンクーバー市内観光では、クイーンエリザベス公園やスタンレー公園、ガスタウンなどをまわった。バンクーバーはカナダ西海岸最大の都市で、海と山が近く実に風光明媚で、世界の住みたい都市で常にトップクラスにランクされている。ほんとに街全体が公園のようだ。

宿泊ホテルはシェラトン・バンクーバー・ウォールセンター。ホテルのレストランでメンバーと夕食懇談のあと、早めにベッドに入った。睡眠不足気味だったので熟睡でき、カナダ最初の朝はすがすがしい目覚めであった。

 


 

(V)

98日。この日は夕刻までフリータイムだが、オプショナルツアーにホームステイでまわる観光と似たコースがあったので、義父と二人前の日で申し込んであった。バンクーバー湾クルーズと水族館見学、午後は郊外のキャピラノ渓谷まで足を伸ばして、自然を満喫しホームステイの滞在イメージも感じ取ることができた。

夕刻、空路ロッキー山脈を越え、西隣のアルバータ州カルガリーへと向かう。所要1時間余で着いたが、時刻は2時間以上経過している。州境を超えたところで時差線も超えており、時計を1時間進めた。広大なカナダは、国内に5つの時間帯を持っている。カルガリーのホテル、プリンス・ロイヤルスイーツのチェックインは午後10時を回っていた。

翌日99日。ホテル出発が早かったので、目覚めはスッキリしない。バスは大平原の州アルバータから西へと向かう。居眠りしながら時間が過ぎていく。遠くに白いロッキーの山並みが見えてくると、それは急速に高く大きくなり、その岩肌が壁のように圧倒的迫力で迫ってきた。ここからすでにロッキー観光は始まっている。コロンビア大氷原、クロウフット氷河、キャッスルマウンテン、レイクルイーズ、ペートーレイクなどを、やや急ぎ足でまわる。これらの観光ポイントは、ロッキーのハイウェイを走行中常に目に入って私たちを楽しませるわけではない。ほとんどは荒削りで大規模な風景が続き、ちょっと小道を入ると、宝石のようにきらめく湖に出会うのである。フィルムは何本あっても足りない、と聞いていたが納得。現地で何本買い足したか憶えていない。

ツアータイトルにあるバンフスプリングスとは、ロッキー随一のリゾート地、バンフでも最高級のホテルである。重厚な外観は周囲の森にマッチし、まるで古城のようである。実際、ホテルのスタッフはこのホテルをCastleと呼んでいた。このホテルで2連泊し(910日まで)、世界遺産の美しい山々をたっぷり満喫した。翌日はいよいよ義父が待ち焦がれていたナイアガラへと移動する日だ。何時ごろ眠りについたか憶えていないが、隣国の東海岸では身の毛のよだつ計画がまさに実行に移されようとしている頃であった。

 


 

(W)

7時のモーニングコールが鳴る前に起き、日本語のニュースを見ようと思ってTVをつけた。ここのホテルではNHK-BSが視聴できる。「旅客機が世界貿易センタービルに激突したもよう」という音声と映し出された映像に、思わず「えっ」と声をあげた。アナウンスは事故かテロか、どちらの可能性もありうると解説していた。先に起きて洗面を終えて出てきた義父も画面に釘付けになった。

モーニングコールが鳴って我に帰り、私もまずは洗面をした。ほんの数分後、義父が大声を上げた。何事か? 義父が凝視していたTV画面には、もうひとつのビルからも黒煙が上がっていた。テロだ。事故なんかじゃない、テロだ。

今日の出発はゆっくりで、ロビー集合は1145分となっていたので、もう少しテレビを見ることにした。すると約30分後に、ペンタゴンに航空機が墜落した映像が映し出された。何だこれは。次々と旅客機が落とされるのか、みんなこのニュースを見ているのだろうか。添乗員の梅村さんの部屋に電話をしたが取らない。いてもたってもいられなくなり、義父には残ってもらってロビーに下りていった。

梅村さんはロビーにいた。今日の出発の手はずを整えているときにJTB現地や本社からの連絡を受け、今事態を知ったとのこと。「たった今ペンタゴンもやられましたよ」と言うと言葉を失ってしまった。

 


 

(X)

メンバーの何組かが朝食を終えてロビーを歩いていた。こちらに気づいて、にこやかな顔で近づいてくる。梅村さんが事情を説明すると、笑顔は消えた。食事に来てない人たちはテレビを見ているのかも知れない。時間を決め、いったん全員ロビーに集まることになった。

部屋に戻ると、同じ映像が何度も繰り返されていたが、アメリカ連邦航空局が国内線全線の運行中止を決定し、全空港を閉鎖し、アメリカに到着する国際線を全てカナダに迂回させる命令を下したと報じていた。しばらくすると、アメリカの国境封鎖と、カナダ・メキシコの航空機離発着も全て禁止し、違反する者は撃墜するようなコメント(大統領命令?)があった。北米大陸の空を飛行するものは完全に何もなくなった。飛んでいるのは命令の届かなかった鳥たちと、命令で飛んでいるであろう戦闘機だけとなった。この命令は、この局面では正しいと思った。極めて重大な影響をおよぼすことなのに、実に決断が早い。

ロビーに全員集合。今日のナイアガラ行きのフライトは飛ばないこと、ホテルに延泊の交渉をしたのでもう一日ここで泊って、明日以降のことはまた連絡すること、を確認し解散した。みな重い足取りでそれぞれ部屋へ、またはバンフの街へと向かっていった。

 


 

(Y)

とりあえず遅い朝食を済ませ、部屋に戻った。テレビは旅客機が突っ込んだ場面とツインビルが崩壊する場面を繰り返し、日本人関係者の安否を中心に、行方不明者数や死者数の数字を更新し続けた。海外で大事故や災害が起こった場合、日本人被害者がいるかどうかで報道での取扱い方に明らかに軽重があるのはなぜだろう、と考えながら見ていた。それにしてもこのテロは、前代未聞でケタ違いの犯罪である。世界経済中枢のシンボルである世界貿易センターが、ユナイテッド、アメリカンという米国を代表しその名を冠するエアラインを武器に使って破壊された。ブッシュ大統領は「これは戦争だ」と国民を鼓舞し復讐をアピールし始めた。空気がどんどん重くなった。

気分転換に二人でバンフの街に出た。メインストリート1本だけの、みやげ物店やレストランがずらっと並んだショッピング主体の小さな街である。お土産はナイアガラでも買おうと思っていたがこの先どうなるのかわからないので、この街で買い足すことにした。OKショップ(大橋巨泉の店)やその他何件かまわった。出発前にミスをして、期限の切れたカードしか持ってなかったので、手持ちの現金残を気にしながら帰国できる日まで過ごさなければならなかった。

午後5時ごろ部屋に戻ると、梅村さんがドアの下から入れてあったメモを見つけた。

 

「本日はお疲れさまでした。いかがお過ごしになられましたか? 皆様には大変なご迷惑をおかけしておりますが、一応明日の予定をご案内いたします。

 

  カルガリー発 エアカナダ140便 16:15発  トロント着 21:52

  全員の席が取れたのがこの便となりました

 

ただしこの便に関しても100%飛べるとはわかりませんし、会社の上層部から明日も見合わせるとの話も出ているそうで、再度変更の案内があるかも知れませんがご了解くださいませ。

Note:大変申し訳ありませんが、延泊理由がJTB当社でまかなえるものでないため、宿泊代一部屋につき346ドルは各自払いとなります。 添乗員 梅村 」

 


 

(Z)

日本時間が12日午前8時を回った頃に自宅に、1時間後に職場に電話をして、とりあえず無事であることと予定通り帰れるかどうかわからないことを伝えた。夕食はロビー横のイートインコーナーでサンドイッチを食べた。日本のコンビニで売られているものの3倍以上のボリュームはあったが価格は倍くらいだ。このクラスのホテルにしては安いと思った。敷地内にはリカーショップもあり、ビールもとても安かった。翌日の出発に向け荷造りをして休んだ。しかし私は、ナイアガラに行けるとは少しも思っていなかった。

12日は集合が13時だったが、朝食を終えた頃に梅村さんから集合がかかった。アメリカ、カナダ、メキシコの空はまだ飛行禁止状態で、トロント行きのエアカナダ140便もフライトキャンセルになったとのこと。「これからどうするんですか?」家族4人で参加した方から質問が出た。「とにかく動けないのですから、本社とも連絡をとって対処を考えますが、もう1泊していただくことになるかも知れません」

「それは困る!」初老の男性が声を荒げた。「1泊350ドルもするホテルに今晩も泊るなんてキツすぎる。こんなことに巻き込まれたのはJTBさんのせいじゃないが、天下のJTBなんだし、何とか持ってくれても良さそうなもんだ。でなきゃもっと安いホテルに移ったらどうか」 梅村さんは、この状況は天変地異や紛争の勃発で旅行の継続ができない事態に相当すること、こうした事態は旅行主催者(JTB)が予測できないことで、(経済的)責任を負えるものではないこと、したがって発生する費用はお客様自身の負担となることを説明した。

こうした時には人柄が出るもので、別の初老の男性は泰然とし梅村さんの説明に理解を示した。梅村さんはこれから本社の最新の指示を受けるということで、再集合時間を昼食後の1時としていったん解散した。最初に質問した男性が私に「天変地異と同じ扱いといっても、今回はテロなのだからJTBにはそこを何とかしてほしいのに」と声をかけてきた。私は梅村さんの説明に沿った考えを述べたが、彼は家族4人参加で2部屋使用しているので、気持ちは痛いほどよくわかった。

このホテルに宿泊した私たちはラッキーな方である。NHK放送で逐一日本語で情報を入手できる。他のホテルだと日本語メディアからの情報が得られない所もあり、添乗員や現地係員からの断片的な情報しか聞けないので、事態を理解することそのものが困難だっただろう。私たちは状況を把握しているので、梅村さんの説明にも概ね穏やかに受け止めることができていた。

再集合時間まで、義父は部屋で休み、私はこのホテルの内外を宿泊者が立ち入れるところをくまなく歩き回って見学した。

 


 

([)

Zで書き忘れたが、もっと安いホテルへ移ることはおそらく不可能だった。910日までにカナダに入国した人々から11日以降に帰国するがずだった人々まで、全員が身動きできなくなった。国内線も離発着できないので移動もできない。陸路で移動可能としても、本来チェックアウトするはずだった人々がホテルから動けないのだから、目的地に行けても宿泊先は埋まっている。後日聞いたが、その数2万人余ということだった。アメリカはもっと悲惨な状態だっただろう。

午後1時にロビーに集合。梅村さんから提案があった。

「当初の予定どおり旅行を実施するのが私の役目ですが、この事態では安全で円滑な旅行の継続は不可能です。ナイアガラ観光は断念せざるをえないと思いますが、どうですか」⇒全員同意

「それでは帰国することに集中しましょう。明日1317時のバンクーバー発大阪行きの予約はまだ有効なので、とりあえずバンクーバーまで陸路移動します。これからバスを確保しますので、今夜にはホテルを出ましょう。申し訳ありませんが、バスチャーター料金は皆様人数割りでのご負担となります。料金はのちほどご案内します。全員5時にもう一度集合してください」⇒全員同意し、解散

 

あと4時間、部屋で過ごすのは気が重くなるだけなので、義父を誘ってホテル近隣の山野を散策することにした。実はこのホテルから徒歩10分くらいの距離に、マリリン=モンロー、ロバート=ミッチャム主演の映画「帰らざる河」の舞台となったボウ川が流れているのである。

 

カナダの重い話ばかりだと読むほうもきついので、美しい風景もご堪能ください。yasuokaさんという人のHPの写真がキレイでした(↓)

http://www2.odn.ne.jp/yasuoka/canada.html

 


 

(\)

ホテル裏口から出てV字に折れ曲がる道をしばらく下っていくと、水の音が聞こえてきた。木立の向こうに川面が見えた。遠い下流の方が急流になっているようで、音はそこから上ってくる。その方向へ向かって歩き、小高い丘の上からしばし眺めた。映画のシーンでイメージしていた川とは異なり、水しぶきは立てているが濁流ではなく、水清らかで美しい流れであった。予定どおり帰れるかわからない事情となったため本来なら見ることのなかった風景に今接しているのだが、それが The River of No Return だというのは少し複雑な心境だった。

午後5時、ロビーに集合。バスは午後7時頃ホテルに迎えに来るとのことだった。予定より遅れること約1時間あまりで大型バスが到着した。全員乗り込み、3日間滞在したバンフの町を後にした。

国道1号線を一路西へと飛ばす。ロッキー山脈を越えるが、ハイウェイの照明が進行方向を明るくするだけで、周りは真っ暗闇で何も見えない。すばらしい景観の中を走っていることは間違いないのだが。車内はいつしかおしゃべりも照明も消え、みな寝静まっていた。私はカナダ西部の地図をひざ上に広げてそこだけ少し明るくした。国道1号線沿いの町々を通過するのを、地図と外の標識を見ながら確認することに時間を費やして、結局一睡もしなかった。夜間走行とはいえ、このように陸路ロッキー山脈越えをすることは今回が最初で最後だと思うと、寝るのが惜しかったのである。自己満足のトリビアで、困ったもんではある。

そうこうするうちにバンクーバーに着いた。空港に到着したのはバンフを出てから約11時間後、13日午前8時前であった。

 


 

(])

早朝なのに空港ロビーは人で埋まっていた。おそらくここで夜を明かした人も大勢いるのだろう。人の間をぬってエアカナダのカウンター前まで移動した。2つの長い列あり、それぞれ東京ディズニーランドの人気アトラクション待ちの列のように幾重にも折れ曲がっていた。1つの列は予約済み航空券所持者の Reservation line、もう1つはキャンセル待ちの Stand-by line である。キャンセル待ちの方が列はずっと長かった。私たちは R-line に並んだ。

ツアー参加者なら帰途便も予約済みのはずだが、なぜ Stand-by line に人が多いのか。例えばノースウェスト航空でアメリカ経由カナダに入国した人は帰りもアメリカ経由となるが、国境封鎖のためアメリカに戻れないからである。また数日後の予約航空券を持っているが、予定を切り上げて帰国を早めるために並んでいる人も多数いるはずである。

フライトインフォメーションのモニターでは、私たちの便を含め全便フライトキャンセルと表示されていた。帰れるメドが立たない。スーツケースに腰掛けたり、交代で列を離れて休憩を取るが、列はまったく前進しない。夜通しバスで移動してきたので、みな睡眠不足気味でもある。望みを抱いてがんばって空港にたどり着いたのに、落胆の気持ちに変わり、みんな疲労の色が濃くなっていた。

空路再開のメドが立たないので、梅村さんは今晩のホテル確保のため一人バンクーバー市内に走った。ほどなく戻ってきて、まだホテルは探せないが、休憩できる場所を確保できたということで、まったく前進しない列から抜けて全員市内に移動した。

休憩場所は市内中心部に位置する一流ホテル、ホテルバンクーバー。その中の広い Ballroom が休憩所として用意されていた。日本人女性スタッフが熱いお茶でもてなしてくれた。「大変お疲れ様です」初めて耳にする第三者の日本語に、気分が少し楽になった。みなイスに座ったり、何脚か並べて横になったりして体を休めた。梅村さんは今晩泊るホテル確保と空港の状況確認のためすぐホテルを出て行った。

私はフロントへ行って職場にfaxを送った。それを保管してあるが、およそ以下の文面である。

 

「(バンクーバーに戻ってきた経過を書いたあと)きょうの帰国の便はフライトキャンセルです。17日までの便は予約すら受け付けず、たまった客を少しずつさばいている状況です。これから添乗員より報告を受けますが最も早くて18日の便になる公算大です。カナダの都市は動けなくなった観光客、ビジネス客で大混乱で、空港も寝泊りする人でごった返しています。今夜のホテルを探すのも容易ではありません。決まって落ち着いたら電話します」

 


 

(]T)

午後おそくホテルが確保できたのでバスで移動した。車中梅村さんは、帰国便確保の見通しがまったく立たないことの説明と、その間バンクーバーでどのように過ごすかいくつかプランを話し始めた。しかしその声は沈み、話しかけも私たちに顔を向けきれず遠くの一点をぼんやり見つめ、途方にくれている様がありありだった。着いたホテルはパシフィック・パリセーズ・ホテル。通常ツアーでは使わないタイプのキッチン付きコンドミニアムであった。夕食は各自でとることになり、梅村さんはフライト情報掌握のため再び空港に向かった。

ホテル近くの中華レストランで夕食を済ませて戻ると、梅村さんも既に戻っていて、全員の前で少し興奮気味に翌日の行動を説明した。それは単純明快、全員で早朝空港に行き、できるだけ列の前の位置を確保する。あとはひたすら待つという作戦である。

梅村さんによると、空港に行って見ると長蛇の列は相変わらずこう着状態だったが、ある時間に一部の便が再開し、列の先頭あたりの数十名がまとまって搭乗できた場面を目撃したという。もちろんほとんどの人は搭乗できなかったのだが、列に並ぶことに耐えられず空港を去った人々(私たちも含め)は、もしかしたら乗れたかも知れないチャンスを捨てたことになる。梅村さんは説明を続けた。

「これは何人かが代表して家族の分の航空券を持って並べばいいというものではありません。乗りたければその場に全員いる必要があります。予約を持っている人は優先扱いされるはずですが、その場にいないと意味がないのです。明日は観光でもしようかと考えていた方もいるかも知れませんが、一日も早く帰るにはこの方法しかありません。いえ、明日きっと帰れます」

言い切ってしまって大丈夫だろうか、とも思ったが、みんなの顔に光が射し、梅村さんの作戦に同意した。

夜明け前にホテルを出た。空港に着くと、人の数はむしろ前日より多いようだった。でも全員エアカナダ・カウンターの位置を覚えているのですばやく行動でき、何とか列の二百番目前後の位置を確保することができた。カウンター内に係員はいるが、搭乗受付は closed なので時間がたつにつれ列は見る見るうちに長く延び、幾重にも折れ曲がっていった。そして数時間が経過した。

 


 

(]U)(完)

カウンター前のロビーはいくつかの大きなブロックに仕切られていて、私たちの列は2つ目のブロックの中の先頭あたりに位置していた。先頭グループ約200名は1つ目のブロックに収まっている。休憩がてら列を離れて、最後尾がどこまで続いているのか列に沿って歩いてみた。途中、大変な場面に出くわした。Reservation line Standby line をさばく空港係員が不在なので、ずっと後方で2つの列が混在して1つになってしまい、それが1つ目の先頭集団のブロックに流れ込んでいたのだ。時間が経つほど1つ目のブロック人数が膨れ上がり、2つ目以降が取り残され後方に追いやられていた。すぐ梅村さんに報告、梅村さんが空港係員に強く申し出て、何とか対処してもらった。しかしけっこうな人数に割り込まれた結果となってしまった。仕方がないがあきらめるしかない。元に戻すのは不可能だ。

でも空港係員は全体としてよくがんばっていた。大きなワゴン車にミネラルウォーターを大量に積み無料で配っていた(先ほどの位置では、水を配っていた女性係員が列をさばく仕事も指示され、兼任していた)。バンクーバー空港では国際線・国内線出発時に空港使用料を徴収するが、この非常事態に際してフリーパスになっていた。

 

じっと待つこと約8時間、突然カウンター近くの人垣からどよめきが上がった。ついに便の一部が再開し、搭乗手続きが行われるようだ。私たちの位置からはようすが伺えないので梅村さんはカウンターへ状況確認に走った。管理職らしき女性係員の説明を聞いた梅村さんから次のような報告があった。

「搭乗手続きが始まりました。ファースト・ビジネスクラスの席の方が優先となります。私たちの帰国便は関西行きですが、まだ全員の席が確保できるとは限りません。同じエアカナダの便で、名古屋行きの便もあります。それに変更しても構わない方はご協力お願いします」

ツアーメンバー26名中(Tで16名と書いたがあとで確認したら26名だった)、幸いなことにビジネスクラス利用者が8名ほどいて、その方々はほどなく名前を呼ばれた。バンフのホテルで苦言を呈した初老の方、泰然自若としていた方、家族4人で参加の方がビジネスクラスだった。苦言を言った方は「ありがとう、ありがとう」と梅村さんの手を両手で握り締めて何度もお礼を言った。

岐阜や京都から参加した方々は「名古屋行きに合意、または希望」したので、この方々も早めに搭乗できることが確定した。残る10数名が関西行きエコノミークラスであるが、ここからがなかなか決まらなかった。

「きょうはムリか・・・・」あきらめかけた時、係員から待機場所を移動するという案内があり、100名前後の人が重いスーツケースを転がしながら別のターミナルに移った。けっこうな距離を歩かされたが、みな期待を抱いているので苦にならなかった。そこで名前の呼び出しが始まった。呼ばれた人が返事をすると、係員は中に入れとジェスチャーで示した。大きな拍手に見送られてその方はターミナル入り口に入っていった。次々と呼び出しが続き、入り口に消えていった。人だかりの中にネームリストのコピーを持っている係員が何人かいた。今呼び出している名簿のコピーのようだ。見せてもらうと私たち残りのメンバー全員の名前がまとまって中段ほどにあった。心底ホッとした。呼び出しを待てばいいのだ。全員帰れる。

・・・・そして、義父のあとに続いて呼び出しがあった・・・・・ Mr.Miyara (完)

 


 

]Uに追記

 

・・・・・ツアーメンバー26名中、幸いなことにビジネスクラス利用者が8名ほどいて、その方々はほどなく名前を呼ばれた。バンフのホテルで苦言を呈した初老の方、泰然自若としていた方、家族4人で参加の方がビジネスクラスだった。苦言を言った方は「ありがとう、ありがとう」と梅村さんの手を両手で握り締めて何度もお礼を言った。・・・・

(以下追記)

泰然自若としていた老夫婦はビジネスクラス利用なので優先的に先に帰国できるのにもかかわらず、その男性は「皆さんがまだ帰れるメドが立たないのに、私たちだけ先に帰ることはできん。私(ご夫婦そろっての意)も残る」と最初はガンとして帰ろうとしなかった。

「どうぞご心配なく、私たちも少し送れて帰れますから。どうぞお先に」

残ったメンバーからの感謝と説得の声かけで納得され、搭乗ゲートへ入っていった。

 

お二人は鹿児島からご参加の方でした。書き込み中に思い出したので、敬意を表して追記いたします。