[系図屋] 久場川淳(200312月連載,全18回)

 


 

(1) 

「系図屋」という商売がある。県道から入る狭い路地の築30年ぐらいの煤けたアパートの二階の一室にあった。道路に面した窓に「家系図を製作します、風水を観ます、姓名判断、お墓づくりの相談にのります・・・・」と達筆な看板。その奇妙な看板がなければ、生活臭の漂う普通の部屋だ。住んでいるのはタムラさんという独り身のオジさん。小柄で色黒、白髪で度の強いメガネ、猫背でよたよたと歩くので、かなり老けてみえるが、意外と若いのかもしれない。70ぐらいだろうか。

 寒さが抜け、汗ばむほどの陽気に変わったある日、この系図屋を訪ねた。県立図書館で知りあい、遊びに来いと地図をもらったからだ。「タムラ歴史研究所」・「古琉球歴史研究学会事務局」の表札の202号室をノックしたら、タムラさんが、すぐに顔を出した。

DKの部屋はキッチンをのぞき、左右の壁全面が書籍で埋まり、裏街の小さな古本屋のようだ。かび臭い。すえた匂いに咳き込むと、タムラさんは窓を開け風を入れた。県道の騒音が飛び込んできた。慌てて窓を閉め、部屋の中央部の僅かなスペースにある卓袱台に座をすすめた。3畳ぐらいのこの空間で寝起きするのだろう。

タムラさんが狭い流し台に立った間、天井まで届いた本棚を眺めていた。沖縄関係や歴史の本以外に自然科学、文学、音楽,美術、工芸など分野は幅広い。「すごい本の数ですね」と問うと「それらしく見せるための商売道具だよ、欲しかったらどれでも持ってっていいよ」と返ってきた。

 


 

(2) 

タムラさんと会ったのは県立図書館の二階にある郷土資料のルーム。社史の編纂のため集中的に通ったとき、そこに詰めている常連の一人として顔見知りになった。書架の間を歩き回り古い資料を引き出して、さかんにメモを取っていた。あるとき、図書館を出たところで、タムラさんに呼びとめられた。

「キミ、さっき林政八書のコピーとってたでしょ」

「・・・ちょっと興味あったもんで」、これがきっかけ。調べているテーマや沖縄の歴史の話をして、タムラさんがすごい知識の人と知るに時間はかからなかった。その後たびたび、図書館の外へ誘いあって会話や議論を交わした。タムラさんは自分のことを語らない。几帳面な性格と言葉遣いから退職した公務員か銀行員だろうかと想像した。部屋を訪ねたのはタムラさんの人間そのものに興味があったからだ。

 

 「他人の系図づくりなんて、できるものですか?・・・沖縄は戦争で戸籍を消失した家も多いし、島尻なんか一家全滅なんてあるでしょ、ムートゥー家(宗家)が南米や内地にいったとか、仏壇の位牌かなんかの記録がなかったらお手上げじゃないですか。・・・最近、門中例祭とか、なんとか氏門中親睦会とかの活動が活発なような気がしますが、選挙のせいでしょうかね。離島なんかはどうなっているんでしょうか?」・・と矢継ぎ早に質問。タムラさんは、ただ相槌をうつばかりだ。そして、番茶を飲み干すと「ちょっと失敬」と立ち上がり、部屋の隅に積まれている大きなダンボール箱の一つを引きずり出してきた。

 


 

(3) 

タムラさんが出してきた箱には、クリーム色のB4の厚紙ファイルが、ぎっしり詰まっていた。仕切りがされて、あ・か・さ行・・と金融機関の顧客情報ファイルのように整理されていた。一冊取り出して見せてもらった。Y・氏・M家・O村・・と姓、地域、屋号などを記された表紙を開くと。勝連城主・茂知附按司から始まる縦書きチャート形式の系図(巻物式)が数ページ続き。そのあと分家した家の系図が数十ページ閉じられて、細かい文字で名前や業績などが書き込まれていた。

「このファイルが二百ぐらいあって、中に千ぐらいの家系図がある。これを基に客の系図を調べて、作ってあげるんだ」、古ぼけたファイルの細かい文字を追いながら、タムラさんがかけた膨大な作業量と、その時間を思った。

「これがボクの商売だ、これさえあればウチナンチューなら、どんな家の系図も作ることができる」

知っている家の系図がないか、ファイルを次々に取り出して覗いてみた。

「初めてのお客さんからは、どんな情報をとって調べるんですか」

「いろいろだよ、姓名、出身地、親や先祖の名前、屋号、墓の場所などで大体は特定できる。例えば一族の男子の名前が二字でみんな「朝」や「真」「良」「文」「信」とかの字がついていたら・・・これは、「名乗り頭」というんだがね、何々系統だとすぐに答えられるけど、これじゃ金は取れないよ、プロはプロのやり方があるんだ。」

 


 

(4) 

「でもタムラさん、昔は、系図は士族階級だけのもので、大多数の庶民の家はなかったんじゃないの」と、いつものように突っ込んだ。

「そこなんだよ!」とタムラさんは身を乗り出した。「廃藩置県の前、琉球王府には系図座という役所があり、そこで士族の系図を管理していたんだ。その系図座が置かれたのは1689年、第十一代の尚貞王のときだ、これはちょうど江戸の元禄時代と一致する。

キミも知っているとおり琉球王朝450年の歴史の中で、島津が攻めてきた1609年は徳川家康が江戸に幕府を開いた時期だ、それまで琉球王国は明や日本、朝鮮、東南アジアの国々と自由闊達に交易を行う小さな独立国だった、それが、幕府や薩摩の体制化に組み込まれてから、日本の影響がいろいろな面で強くなったんだ、元禄時代というと、一騎当千のサムライの時代から能吏の時代、経済面では消費生活が活発、町人文化が花開くときだ」

「なるほど、もはや戦後じゃない、高度成長期やバブルみたいな世相だったのでしょうかね」

「そうかもね、わが琉球も薩摩の侵入のショックから50年が経って、人心も落ち着きを取り戻し、元禄の風潮にあおわれて、経済も政治も安定していた時期だ。でも何よりも特筆すべきは人口が急に増えたんだよ、なぜだかわかるか」

「うーん、食糧事情がよくなるから人口が増えるはずだから、農業生産の向上で、イモの普及ですか」

「さすが、いいところに気づくね、野國総管と儀間真常で習ったと思うけど、イモとサトウキビが琉球の農業を革命的に変えたんだ。それまで、水が少なくてお米ができなかった地域でもイモやキビを植えることができて開発が進んだんだ。」

「それで、食えるようになって、砂糖で現金が入って、薩摩に年貢をおさめても経済は安定。人も増える。と、なんか戦後の‘50年代60年代の沖縄を見ているようですね、歴史は繰り返すとかいって・・・で、家系図とどう関係あるのこの話」

「脱線したね、まぁ、じっくりいこうや。ヤマトでもそうだけど、元禄になると平和だ。そうなると不要な職業がでてくるんだ。サムライだ、そこで公務員のリストラが考えられたんだ」

「昔は公務員法がないからクビは簡単だったんでしょう」

「いや、そうでもない、強い抵抗があったらしい」

 


 

(5) 

「ここでちょっと、琉球王朝の歴史をおさらいしてみよう。尚巴志が統一政権を樹立したのは1429年、日本では室町時代、中国では明の永楽帝という専制皇帝の時代で国に勢いのある時代。その40年後、琉球では尚円王が現れ、第二尚氏王朝が始まり、その子尚真王が1477年から1527年までの50年間在位し、国際貿易で富を築き、琉球王国の黄金時代をむかえた。この時代は戦国時代の前半で織田信長や武田信玄らが現れる前、種子島に鉄砲が伝わる前だ。

その後、日本は鉄砲という革命的な兵器をつかった戦国バトルが繰り広げられ、秀吉、そして1600年の関が原の戦いで徳川家康が制した。

国際的にはどうだったかというと、このころになると明の政治状況は不安定で腐敗、官僚主義がはびこり国力は弱くなってきた。そしてスペインやポルトガルなどヨーロッパ各国がアジアまで貿易で進出してきた。そういうときに1609年、薩摩3000人の軍に首里城が攻め込まれたんだ。」

 


 

(6)

「なぜ琉球王国が薩摩に征服されたかというと、いろいろ見方があるが、まず島津のお家事情だ。島津家は南九州の大国で戦国時代に急激に勢力をつけ、一時は九州全体を制覇するまでに発展した。が、圧倒的な勢力の秀吉に負けた。秀吉は島津氏を九州の南の果てに封じ込め、周りを子飼いの武将たちで固め押さえ込んだ。そして朝鮮出兵のときには、特別大きな戦役負担を負わせた。秀吉のいじめだ。現代のイラク派遣の何十倍もの規模の負担を要求し、国の財政を危うくするぐらいね。

さらに、秀吉が死んで、関が原の戦のとき西軍・石田三成に追従して負けたんだ。本来なら滅びるところだが、島津家はいろいろな手をつかって生き残った。そのかわり徳川幕府は島津家に対し、モーレツな負担を強いたんだ。土木、治水などの国家的公共事業の負担などを露骨に課してきた。また、これまで「儲けジク」だった藩貿易が振るわなくなった。明と国交断絶、アジア市場がヨーロッパ諸国にとられて、かつてのような貿易メリットがなくなった。

そこで財政的にニッチもサッチも行かなくなり、打開策の一つとして、琉球に目をつけたんだなぁ。もうひとつは、今獲らないと幕府や他の大名が攻めるんじゃないかとの焦りもあったみたいだ。

 それでは琉球はどうだったかというと、尚真王の黄金時代から100年も経つと体制にほころびが目立つようになった。昔のように貿易では利益がでなくなり、財政が逼迫しているのに、官僚主義がはびこり無駄な出費、役人の汚職が横行し腐敗して、行政システムが硬直化して機能しなくなっていたんだ。もう一つの後ろ盾である明の指導力が低下したこともあって、薩摩からの要求をうまく乗り切ることに失敗したんだ。

 「薩摩の侵略の大義名分はなんだったんですか」

 「いろいろ歴史の本にあるように、過去の債務の未払い、遭難船救助のお礼をしなかった・・・などとあるが、ボクは一番大きな理由は、琉球が大阪や九州北部の藩と独自で貿易をして、その交易船の航行で必ず薩摩領海を通過するのになんの挨拶もしない。つまり関(通行税)の考え方だ。これが一番大きかったとみている。つまり、琉球が日本と交易をするときは、まず我々を窓口にするべきだ。という考えだ。」

 「なるほど、人の土地を通過するのに通行料を払わん、と怒ったわけですね」

「また、薩摩から見ると、自分たちは国(藩)を立て直すために血の出るようなリストラを実行して、お互いのために友好国・琉球に協力を要請している(つもり)のに、首里王府の指導者たちの優柔不断な態度は、薩摩をイライラさせたり、怒らせてばっかりだ。

そこで攻撃制裁をあたえる理由を与える結果になった。手前勝手な論理だけど戦国の時代では常識的な考えだ。そのころ琉球のインテリ層にも、このままでは琉球王国はだめになると、心配していたのもいたが、如何せん、王国自体が動脈硬化を起こしていたんだ。」

 


 

(7)

1609年の薩摩の侵略は王国の民に大きなショックだったでしょうね。前にNHK大河ドラマで沢田研二が演じてた尚寧王は薩摩に連れて行かれるし、当時の知識人たちは戦国時代の知識をもっていたはずだから、戦に負けた藩主やその一族は首を切られると思って、心配したでしょう」

 「だろうね、当時の琉球のインテリ層のほとんどが日本の知識をもっていたんだ、かれらの勉強は漢文だが読むときは日本語の書き下し文で読んでいた。そして和歌なども詠んでいた。つまり言語は日本語だ。だから中国留学のほかに日本の知識も貿易などを通じて積極的に吸収していたんだ。だから薩摩の侵略がどういう意味なのかはっきり認識していた。ところが国際情勢だ、徳川幕府も島津家も明国に気をつかったんだね。明とは国交断絶中だから琉球を経由した貿易の思惑もあった。そこで体制はそのままに、薩摩の管理下に置かれるようになったんた。ただ奄美群島は薩摩の領土になった。」

 「薩摩の施政はどうだったんでしょうか・・・なんか僕らの高等弁務官の時代を連想するけど」

 「まず、薩摩は検地を実施。税収を確定しないと国家予算を執行できないからね。検地の結果、琉球は九万石弱と計算されたんだ。加賀百万石、島津七十七万石からみるとチンケな小国だ。そして王府の財政や行政システムをチェックしてみると、財政は債務超過の破綻状態、行政の執行体制はめちゃくちゃだった。尚真王が体制を確立してから150年も経つのに社会経済情勢を無視し旧態然とした方法を続けていたんだ。

貿易による黄金時代は終わり、収入は激減しているのに王国の体面を保つために無駄な出費をとめられない。公務員の数が異常に多すぎる、特にノロとか祭事を司る女性たちにも領地を与え財政で面倒をみたり、無駄なポスト部署が多く行政手続が遅滞したり腐敗が蔓延していた。一方の薩摩は財政再建に以前から国をあげて必死に取り組んでいる藩だ、たちまち首里王府の行革にメスをいれたんだ。」

 「で、リストラを実施したんだ」

 「最初はすごい抵抗、反発というか、あきらめ、屈辱感でいっぱいだが、時が経つとともに薩摩のシステムに合理性を見出して、これの良いところは積極的に導入して、明の制度のいい点も取り入れようじゃないか、という考え方をもつリーダーが出てきたんだ。そういうことで、職制や身分制をしっかり確立して国を合理的に経営しようと新たな仕組みが考えられたんだ。」

 「そのころは明が滅び、清に代わらんとするときですよね、これも影響したんですよね」

「さぁてと・・・」タムラさんはゆっくりと立ち上がりかけた。

 


 

(8)

「ところでビール飲みにいこうか」

「まだ明るいじゃないですか、どこに行くんですか」

タムラさんは上着を着て、さっさと出かける準備をした。二人でアパートを出て県道と逆方向に、丘に続く坂道をたどった。途中に小さな商店があった。 「キミ、ビールとイチャ(烏賊)グヮー、買ってきなさい」タムラさんはポケットに手をつっこんだ。タムラさんの懐具合はよく知っている。

「いえ、金はもっていますので」と急いで狭い店の中に入った。ビール4缶と歯のないタムラさんの好きな裂き烏賊、ポテトチップを買って出たら、タムラさんは、坂道の先、丘のてっぺんに向けてよたよた歩いていた。

 

 そこに公園があったのは知らなかった。昔からある鉄塔の周りを整備しただけの広場で、フェンスに囲まれた鉄塔を無視すれば芝生も荒れずに綺麗で、木立もまめに手入れされていた。那覇の街並みが一望できる。風が心地よい。

「ここがボクのシーグヮーだ」ガジュマルの側の芝生に座ると、缶ビールのプルトップを引いて、うまそうに流し込んだ。

「『酒や肝の鎖(サシ)の子がやゆら飲めば飲むごとに開きて行きゆさ』・・こういう琉歌があるんだ、『鎖の子(サシのクヮ)』というのは南京錠の鍵のことだ。意味は、酒は心の門を開ける鍵のようなもの、飲めば飲むほどに心が開かれていくようである、ということだ。今日みたいな日を『毛遊ビー日和ともいうんだ」・・・。

 


 

(9)

「さて、話のつづきだ。家系図の話だったね」缶ビールを片手にタムラさんは話し始めた。

「ヤマトでは『わが家は代々、何万石なになに藩、なになに家の家老をつとめた家系なるぞ』というけど、沖縄ではこれはありえない。「先祖に何がし親方という三司官をつとめた人がいる由緒ある家である」という。つまりちょっと複雑だけど、役職ポストはしっかりした世襲制ではなかったんだな。」

「でも身分制度のある封建社会だったんでしょう?」

「沖縄の身分制度は士族と百姓の二つだ。ヤマトの士農工商とちがい士族以外はみんな百姓。農業者という意味でなく、那覇のような町にすむ商人や職人は町百姓、地方にいる人を田舎百姓とよんだんだ。士族は大名(デーミョー)とサムレーに分かれ、みんな中央である首里に住んでいた。

大名は王子、按司、親方で領地を与えられたが、その地に赴くこともなくポジションが移るたびに領地もかわった。サムレーには親雲上(ペーチン)以下出自のちがいで里之子と築登之にわかれ一番下位に子と地方役人である仁屋があった。」

「でも役人のポストも定員も限られているし、身分があっても皆が職に就けるわけじゃないんでしょ、あと次男三男なんかはどうしていたのですか」

 「説明が難しいけど、例えば王族以外の最高位である親方の長男は二代目として世襲するが、4代も5代も続くものでなく、領地(禄高)も段階的に減らされて、5代目ぐらいにはヒラになるようになっているんだ。そしてたとえ高い身分の子弟でも勉強しないで業績をあげられなかったら職に就けず、ヤマトとは大分違うんだ。逆にヒラでも功績があったり、一芸に秀でていたら上にいけるし、百姓でも田舎の村長さんみたいなことで業績をあげればサムライ待遇になれた。また町人でも16万貫を寄付すればサムレー取り立てられ,さらに16万貫を上乗せすればもう一つ上の段階まで上がれる、16万貫というと今の金で3千万円ぐらいだ、6千万円で県庁の課長になれるんだよ。どうだい」

 「そんな価値のあるものですかね、身分は。金でポストを販売するほど財政逼迫だったんでしょうね」

 


 

(10)

「あと首里の士族の次男三男だけど、まぁ長男でさえ勉強を怠ると失業するような厳しい社会だから大変だったと思うよ。文武芸術、語学、書など一芸に秀でて科試(一年一度の国家試験)をパスするために一生懸命努力したり、生活のために塾の先生のアルバイトなどをしたようだ。そして王府が奨励する開拓農民となって地方に下ったりした。すなわち百姓になって新天地にいくことだ。都落ちのうえ、新しい土地でゼロから出発するのは、とても辛かっただろうね。

彼らの唯一の希望は『おれは士族だ』という誇りだけだったと思う。田舎のさらに先の人里はなれた場所で山を切り開き水を引いて大地を耕した。インテリ層である彼らの支えは一所懸命がんばってプライドを守ること、王府でもそういう面を期待したみたいだね。そこで系図で守って、努力すればいつか中央に戻って家を再興できるような途をつくったんだ。」

 「あぶれ士族を地域開発に差し向けて一挙両得だったわけですね。でもタムラさん、農業ってそんなに甘くないですよ。現代でも新規就農者はゼロから出発だから農業収入が得られるまでの最低3年は、よその農家の労働者として働くのが常識。あの時代だともっと苦労したでしょうね」

 


 

(11)

「こういう歌があるんだ、『上がり明かがりば 書習が行ちゅん 結うて賜ぼれ 我親嘉那志』(あがりあかがりば しょならえがいちゅん かしらゆうてたぼれ わがうやがなしぃ)意味は、東の空が白けはじめたら、学問を習いに行く時間です、どうかカシラ(カンプー)を結い整えてくださいお母様・・・自分でカンプーも結えない幼ない子が夜明け前に起きて勉強に行くという、いじらしさを歌ったものだ。それくらい士族の子弟は勉強していたんだな。どんな学問だというと、「四書」すなわち大学、中庸、論語、孟子だ。これの素読を基礎に習字や、唐詩の朗詠などを幼いときから学んだ。いま本土との学力差がいわれているけど、あの時代の琉球士族は圧倒的にレベルの高い教養をもっていたんだよ、それは博物館なんかに展示されている書や漢詩などをみてもあきらかだ。戦災でその多くが失われることがなければ簡単に証明できるはずだけど・・・。

 「やはり、科試といいましたか?中国の科挙みたいなもの、の国家試験があったので勉強したのですね、このあたりは中国のいい制度を導入したんだ」

 「この、資源もなんにもない小国では、昔から考えることは一つ「人材育成」だよ・・もう一つビールをいこうか」

 


 

(12)

「系図を正式には家譜という。古くから、それぞれの様式で、あることはあったんだ。たとえば「何々一族由来記」というような形でね。これを17世紀になって御系図座という役所を設置して統一したフォームで各家に提出をもとめたんだ。各士族は二つ作って一つは首里城に提出、ひとつは検証後、王の印鑑を押して家に置いたんだ。この朱印を押されたものが、ときどき門中の家宝として世間に出てくるものだ。この系図座がスタートした当時に整備された系図。その系図をもつ家のみが王府に公認された士族とされたんだ。これを譜代といい、外様・譜代大名と同じ字だ。これ以降、士族は譜代と、その後功績をあげて百姓から士族に取り立てられた人とか、大金を寄付して士族になった人を新参とよんだんた。だから公的には士族とは系図座ができて整備された時点でサムレーだった家だけなんだ。」

 「タムラさん、なぜ家系図を役所で管理しなくちゃいけないのですか」

「やはり、身分制度を強固にすることによって、王および士族、すなわち支配の側の権威を高める。それで施策の浸透がうまくいくという効果だ。あと行政が管理するということは、公明正大にするということ。たとえば日本の戦国大名が氏素性がはっきりしないため、高貴な人の家系図に割り込むような行為・・具体的には長男・次男・・と四男までしかいない系図に、横に棒線を引いて五男をあとから書き入れてそれを我始祖なり、と宣言したり・・・こういうユークーから守るためだ」

 「でも、大多数の庶民である百姓は系図がないわけですよね」

「そこなんだ、首里王朝から士族と認められない家は系図をもつことが許されなくなった。これはものすごい不満だ」

 「認められなかった家とはどんな人たちなんですか」

「琉球の歴史のなかで、第一第二尚氏の前の群雄割拠の時代の有力者、尚真王の時代に地方の按司を首里に呼び寄せたときに地方に残ったサムレーたち、士族の次男三男で地方に下った人たち、こういう人たちの子孫たちだ。かれらには立派な先祖がいて、その子孫であることを代々伝え守り由緒ある家としてプライドを持っていたが、たまたま地方にいたとか、公職になかったとかで士族リストからもれたんだ。その中には由来記という形で系図を書に残していた家もあった。が、この系図が無効になるどころか、持つこと自体が許されなくなったんだ」

 「それでは、怒るよね、その一族のみなさん」

 


 

(13)

「首里王府に押さえ込まれ、系図が持てなくなって不満をもつ人たちは、密かに自分たちの系図を作って大事に守ろうとしたんだ。作ることも持つこともご法度の時勢にだ。そこでアンダーグラウンドな商売の系図屋が現れた。系図を作るのはそれ相応の漢学知識、歴史、政治制度などに精通する物知(ムヌシラー)と呼ばれる村の知識人で、子供の名前や、風水や祭事などを占う易学に通じる三世相(サンジンソー)をしている人が多かった。

 繰り返すけど、ボクが今話している時代は1690年頃で江戸の元禄時代の頃だ。それから30年過ぎて18世紀、蔡温の時代になると農業すなわち経済政策が積極的に奨励された。地方の開発のために仕事に就けない士族の子弟をどんどん田舎に送ったので、この系図づくりが重要な意味をもつことになったんだ。王国内各地に散らばった同族の情報を交換する過程で、系図屋同士のネットワークみたいなものも生まれて、情報、つまり家に伝わる伝説や伝承などが自然に蓄積されてきたんだなぁ。ボクのやっている系図屋商売は昔から受け継がれてきたものなんだよ。」

 「やみ商売だったんですか。でも皆がみんな、家系図のできるような有力者を先祖にもっている訳じゃないでしょう、わが家は代々農業一筋とかいるんじゃないですか」

 「あのねキミ、考えてみなさい、地方にすんでいても、親戚に一人ぐらい役場の課長とか校長先生、郵便局長、消防団長とか農協組合長がいるでしょう。いない率が少ないはずだ。首里王府は身分制度を厳しくする一方で、田舎の百姓にも希望を与えるために褒賞をあげたんだな。今のわが国の春秋褒章みたいなもんだ。あれは各界で大活躍した人に勲章をあげるというより、たとえば郵便配達を60年つづけたとか、灯台守とか福祉施設の職員を長いこと勤め上げた人たちに与えるものでしょ。そういう地道に勤勉に働いた庶民を賞をあげ称える。これを王府は田舎の農民に積極的に実施したんだ。そして国王の名前でサムレー(待遇)に引き立てたんだ。一代限りが多く、首里に移り住むケースはすくなかったけど。とにかく新参士族だ。家族にとってはありがたく名誉なことだ。そういう風に百姓に忠誠心、正直、勤勉さ親孝行など儒教的なものを植えつけていったんだなぁ。その背景は首里=支配者対田舎=被支配者の対立構造を緩和しようと苦慮したみたいだね。

 


 

(14)

いま沖縄県民は130万人。ボクが話している頃の琉球国は9万人ぐらいだ。それから食糧事情がよくなって14万人まで増えたけど。ネズミ算というのがあるだろ、1枚が2枚、2枚が4枚と増やしていくと20回めぐらい過ぎると途方もない数字になるあれだ。それを逆に計算したらわかるだろう。昔の女は10人ぐらい子供を生んで、そのうち13祝いまで生き残るのは3人ぐらいだ。700年の歴史で130万県民を二十代ぐらい、さかのぼれば、数えられる程のグループに分類できるんだ。たとえばキミと奥さんも何代か辿ると同じ先祖に行き当たるはずだ。」 タムラさんの話に、頭が混乱してきた。

 

 「タムラさん、家系図の中の姓が代をたどると次々にかわっていきますよね、あと、廃藩置県でだれもが姓を名乗ることができましたが、姓と系図はどう関連しているんですか?」

「沖縄の名前の付け方は独特なんだ。たとえば家系図のなかで、自分の姓と始祖の姓が違う、宗家(ムートゥ屋)でも、違うのが普通なんだ。たとえば先祖が大城だけど、わが家は比嘉だ、というようにね。それは士族の姓名のつけ方のルールの問題にあるんだ。」

 「それは、士族のポストが変化するからですか」

 

 「昔の琉球、つまり中国の歴史書に出てくるころの琉球は文字がなかった。オモロという古謡による口承の時代だ。このころは姓はなかったようだ。人々は下の名前、例えば「タルガニ」「モウシ」・・・で呼び合っていた。そのあと群雄割拠の有力者たちがあらわれると地名と名前を組み合わせた呼称になった。士族の姓名が確立したのは薩摩の侵入のあと、身分制度の確立とセットだ。

では、一般の士族の名前はどうだったかというと、まず唐名(カラナー)。阿、鄭、馬、毛、麻・・・というように400種ぐらいあった。これは日常的には使わず中国の外交文書や公文書でつかう姓(ウジ)。門中の氏はこれ。次に和名(ヤマト名)、地名が多い。これは43の間切り(市町村規模)600ぐらいの村(区)で領地にからんでいる、そして名前、名乗り頭がついている。これはたとえば朝、真、秀、良、文・・・など同系同族のアイデンティティだ。そして童名(ワラビナー)。

これらが正式に決まったのは系図座の設置のとき。階級性を法的に整備しようという意図からだ。例をあげると産業政策で強力な指導をした蔡温(1683-1751)は久米村の人で三司官まで出世したけど、生きている頃はサイオンくんと呼ばれなかったはず。後に彼の業績を記した公文書や著書、あと中国留学をしているから蔡温と呼ばれているんだ。本名は具志頭親方文若で、親方は位階だから、ぐしちゃんぶんじゃくさんだ。ところが彼はどんどん出世したから、サラリーもあがる(領地も増える)ので領地変えが3回あって、姓が志多伯→神谷→末吉→具志頭とかわったんだ。ヤマトで云えば大岡越前守忠相の越前が次々に代わるようなもんだ。琉球ではこの「越前」を姓にした。」

「なるほど、東風平とか渡名喜とかの姓は領地からきたんですね」

「あと王族だが羽地朝秀(向象賢)が系図座をつくったとき、尚家の血筋は本家以外は唐名を向(ショウと呼ぶが一般には向かいショウ)とし、名乗りを「朝」とすると決めたんだ。「朝」は伝説の源為朝からとったらしい。

あと士族の姓だが、階級や領地は世襲じゃないから、領地をもたない士族は分家するときに先祖ゆかりの土地名を選んで決めたようだ。

さて一般庶民(百姓)はどうだったかというと、姓はもてないから、名前と屋号だ。18世紀になると地方でも士族から降りてきた農民が増えてきたので、清明祭などで首里の宗家と関係をもったり、あらたな入植者を受け入れしたりして、血族中心だった村社会も構造が変わってきたんだ。

そして廃藩置県で、苗字が許されると、それぞれ先祖ゆかりの姓を名乗ったり、屋号をそのまま姓にしたり、地名(原名)などを決めたんだ。名前のほうは、名乗りのほか童名や綽名(通称)をそのままつけたりで、特に女子は童名が多かった。

 時代がすすみ日清、日露戦争を終えて、教育などヤマト化の政策が定着すると、特に女の子が学校に行くようになるとだ、カマドー、ウシィー、ナビィー、ント、なんかの名前を恥じて「学校ナー」というのが流行ったんだ。はる、うめ、はな、とし・・のようにね。これがきっかけとなって、改姓、改名運動に発展したんだ。明治の終わり、大正期だ。それは最終的には、県知事決裁であった復姓願や改名願が地方事務所長代決裁でできるように、簡略化されたんだ。あと、第2次大戦後戸籍が焼失して新たに申告するとき、変えた人も多かったね。」

 「なるほど、うちのオバァーは学校名をつけたんだ」

 

「・・暗くなってきたな、そろそろ戻るか、キミに是非みせたいものがある」とタムラさんは立ち上がった。

 


 

(15) 

公園から戻る途中、惣菜と泡盛と紙コップを買った。

 「キミに見てもらいたいのはこれだ」タムラさんは押入れを開け、荷物を出そうとした。老人ひとりでは運べない、ずっしりとした重さだ。茶色の古い旅行トランクだった。1950年代によく見た堅牢な皮製、トランク自体が重過ぎて航空機の時代になって消え去ったレトロなものだ。

 「これはすごい、ハワイ帰りの人が持っていたようなトランクですね」

「中身の話だよ」とタムラさんは3箇所の鍵を開け大事そうに蓋をあげた。白い絹のカバーをとると防虫剤の微かなにおい。出てきたのはハトロン紙に包まれた古い書物だった。印刷物でなく手書きの文書でA4版を少し小さくした程度の和綴本で「琉球御系図綜集成」と表題がつき、トランクの中にきちんと並べられている。20冊ぐらいだろうか。

「これが、先ほど見せた系図のファイルの素になった本だ、明治の終わり頃まとめられたものだ」・・・一冊とってみた。達筆な文字がびっしり書き込まれ、ところどころ朱でマークされている。漢字とかな混じりの文だが、昔の美しすぎる字で簡単には読めない。門中の由来記と家系図のようだ。かなり精密にできている。和文で記され博物館にある漢文のものとは違うようだ。・・・

唖然とながめていたら「これをキミにあげたいんだ」とタムラさんが急に改まった調子で言った。「・えっ、どういうことですか、これは何ですか?」

「これをキミにあげたいと思っている」ともう一度、タムラさんが言った。

「このトランクは35年前に、ある人から受け継いだものだ、その人も戦後、別な人から受け継いで代々つづいているものだ」

 「なんでボクに、なんですか?」

「それはキミが適任だからだ」タムラさんは真剣な表情で話し始めた。

 


 

(16)

「この本は明治時代の終わりごろ、ある人が、昔から伝わる系図をまとめて現代風に整理したものだ。その原本は首里王府がまとめた公式の家譜とは別に,300年以上にわたって名のない人たちの手で密かに守られてきたものだ。それをボクまで6人の人間が代々、受け継いできたんだ」

「でも、ちょっと、それは・・」

タムラさんは手で制して、「まぁ話を最後まできいてくれ」とつづけた。

「キミもわかるように明治維新(1868年)のあと、廃藩置県(1871)があり、その翌年1872年に琉球藩が設置され、7年後の1879年に沖縄県となった。明治12年だ。これは1853年の黒船来航以来の日本国歴史の転換点の最後の時期だ。この動きは最初京都を中心に、やがて江戸・東京に移るが、これに東アジアをめぐる国際情勢と、外国の蒸気船がもたらした科学新技術の影響も手伝って、かつて経験したことのない速さで、めまぐるしく変化したんだ。」

 「幕末から近代日本に転換する時代のことですね」

「この急激で重要な動きに遠隔地にある琉球王府は全くついていけなかった。情報は薩摩の琉球館を通じて入ってくるが、薩摩も琉球との関係を重視していた島津斉彬公が死ぬと、琉球に対する政策がころころ変わり、また清国は、アヘン戦争以来、欧米列強に対し大国の面目をかろうじて守るぐらいで余裕がない。情報のパイプの細い王府指導者たちは右往左往、ただひたすらに『何事も従来どおり平穏で』と願うばかりだった。日本政府は清国との関係に気をつかいながら結局、反対勢力を抑えて沖縄懸を設置したんだ。そして王府、藩庁の機能は停止、沖縄懸庁に移行した。」

「いわゆる琉球処分ですね」

「そのとき系図座の士族の家譜はどうなったかだ。一般に政治体制が代わって旧政府から新政府に業務を引き継ぐとき、財産を中心に行なわれる。これは土地や建物や現金債権債務のほか税収の基礎となる諸権利などだ。そのほか財産に関する許認可権とかを含めて価値を決定し、これを新しい政府に移行するんだ。

難しいのは、裁判や過去の王府・藩庁がくだした判断が、新しい制度のもとで有効かどうかだけど、基本的には引継ぎ時点を境に過去の判断は尊重するが、以降は新制度に従う、という考えになる。

そこでだ、系図座への駆け込み申請が増加したんだ。士族にもれた家がうわさを聞きつけて移行前の琉球藩庁に家系図をつくって申請を出した。」

「世替わりのどさくさに紛れて士族を認めてもらおうとしたんですか」

「ところが系図座はそれどころじゃない。審査には3年以上かかる。まして明治政府では士族が身分を失ったという情報が入っているので、受付なんかできるわけない。ところが申請する側は必死だ。そこでとうとう藩も折れて、・年・月・日申請を受付ましたという印鑑を押したんだ。これが後にお墨付きの系図になった。国家の大事なときに、こんなことにエネルギーを費やして情けないねぇ。

 

後世にこの時期の士族階級の行動が批判されることになったが。・・まあこの系図は別にして、廃藩置県の時点でだいたい3000家の系図があった。それを中城御殿、今の県立博物館に保管したが戦災ですべて焼失した。ただそのうちの200ぐらい調査のために日本政府が抜いたという話があるがこれも関東大震災のときに焼失したといわれている。現在研究されている系図で公的なものは各家でたまたま戦災を逃れたものが数えるほどだ。」

 「では、ここにある系図は公的なものではないのですか」

「うーん、そこが微妙なところなんだ」とタムラさんは古文書を一つ出して語り始めた。

 


 

(17)

「廃藩置県のあと、日清戦争(1894−5)に勝利した後には沖縄県も近代化の道を着実に進み、人々も落ち着き、系図などだれも関心がなくなっていた。それから、明治が終わらんとする時期になると、世代の交代期になった。

ちょうど今、戦前を知っている人がいなくなったり、本土復帰を知らない人が多くなったり、と同じように、王国時代を知る人たちがいなくなる前に記憶、つまり記録を残そうと、系図づくりが流行したんだ。

その時期になると系図を書くことは法律違反でもなく、系図屋たちはこれまでの蓄積を表に出して堂々と商売をはじめた。当時、士族の宗家では系図が保管されていて写本できたんだ。だから、この本は、そういう意味ではかなり精度が高く、より広くカバーされている。」

 「この中にある、名前の横にある書き込みは位階と功績なんですか」

「そうなんだ、だからこの中には家系図だけでなく、辞令や功績、人の動き、時間などの記録があり歴史的に非常に重要な情報を含んでいる。今の歴史学会の説を一夜にしてひっくり返すぐらいね」

 「タムラさん、それなら、なぜ発表したり出版されないんですか」

「いや、絶対にだめだ、この本はコピーでさえ許されない。ここにあるものが唯一だ」タムラさんはいつになく強い口調にかわった。

「それは、この書の内容が余りにも貴重なもので、悪用すれば大変なことになるからだ」

 「悪用とはどんな場合ですか」

「いいかい、系図というものは、いま生きている人間が自らの出自を辿ることで、親の教えと同じように先人の心や願い、そしてその夢に触れるための道具だ。それによって、自分の今後の生き方を律するという効果が出なくては意味がない。これを商売や政治などに利用したり、人を攻撃するために使ったら取り返しのつかないことになる。罪や過ちは、罰をうけたり悔い改めれば許される、しかし系図はどんなにがんばっても消したり修正したりすることはできないんだよ。賢いキミならわかるね。」

 「うーん、系図かぁ・・でもなぜ僕なんですか、確かにものすごく興味ありますが、僕はただの勤め人で歴史学者でもなく、基礎的な勉強もしたこともありません。ほかに詳しい方がいっぱいいるじゃないですか」

「ボクもこれを引き継いだとき、同じことを言ったよ、でも今になって、ボクが選ばれた理由がわかったよ、キミを選んだのは、キミの考え方、能力すべてを総合してだ」

 「でもタムラさん、お子さんもいらっしゃるのでしょう」

「息子も娘もいるが誰でもというわけにはいかない、選ばれたものだけが引き継がなくてはならないんだ。」

 


 

(18)

「・・・ボクの先はもう長くない。まぁ、好き勝手に生きてきたから何の未練もないけど。ただ、この古系図だけは是非キミに引き受けてほしい。」とタムラさんは頭をさげた。

「ボクは売れない三世相(サンジンソー)だが、人を観る目はもっているつもりだ」・・・

 「・・・これだけ飲む、タムラさんがすぐ死ぬとは思いませんよ。『うれないサンジンソー』というのは面白い洒落ですね」と返したら、いつものタムラさんの表情にもどった。

「サキ飲むか」・・・

 その夜は、遅くまで軽口を交わしながら泡盛を飲んだ。帰ろうとしたら「よろしく頼むよ」と声をかけられた。

「タムラさんがくたばるとき、適任者がいなければ喜んでお引き受けします」と軽く答えた。

 

 そのあと、図書館でタムラさんと会っても、いつもどおりの付き合いだった。夏になって社史の編集も大詰めとなり、執筆に忙しく図書館に寄らなくなった。すこし涼しくなったある日、職場に図書館の常連のひとりで琉歌研究のオオシロさんから電話があり、タムラさんが先月の旧盆の中日に亡くなったと知らされた。そのとき、タムラ・・というのはペンネームで本名はミヤギ・・さんだということを知った。タムラさんの家族から会いたいとの伝言があったので、連絡をとってU市にある長男の家を訪ねた。

閑静な住宅街にある大きな家で、次男夫婦と長女も同席するなかで、位牌に手をあわせた。そこで知ったのはタムラ(ミヤギ)さんは満80歳で大学の工学部を出て本土の大手機械メーカーでエンジニアとして勤務後、帰郷し、ある公社の常務理事だった。奥さんを亡くした後退職し、歴史の研究に没頭したとのことだ。病床で、後継者ができたと嬉しそうに語っていた、ときいた。その数日後、トランクとダンボール箱3個を引き取った。そして「いつでも遊びにいらしてください」と言われた。

 

トランクと一緒に一枚のメモが添えられていた、達筆なタムラさんにしては走り書きのような乱れた文字だった。

 

タムラさんのメモ

 

・・・・略・・・・

 貴兄がこれを読まれるときには小生はいないでしょう。

 古系図をお引き受けいただき、感謝申し上げます。何卒、世のために役立ててください。貴兄に全てをお任せいたします。

 小生、いまの沖縄の青年達がひと昔と違い、劣等感をもたずに堂々と生きている姿をみて楽しみであります。沖縄の近代150年は苦難の歴史でありました。そして、その不幸を嘆き、劣等感に苛まれ、嫉み、恨むという行動が植え付けられ、県民はいつのまにか、小さく縮こまるようになりました。しかしながら琉球の長い歴史のなかでは、このようなことは些細なことであり、いつの日か再びダイナミックに雄飛する民に生まれ変わるものと信じております。このような意味で先人の足跡をたどることは重要なことあり、系図は大切であります。このトランクの中身は将来、この地が偏見や差別、そして人を様々な面で優劣をつけるという考え方がなくなり、お互いに尊敬、尊重しあう社会になり、それぞれの家系図が本来の正しい目的のために使われるようになったら公開してください。その日が必ず来るものと祈っております。

・・・略・・・

 

 これが系図屋タムラさんの思い出だ。いまこの文を書いている部屋の隅にあの旅行トランクがある。鍵も手元にあるが、まだ開ける決心がつかない。(了)