[殉教者] 久場川淳(20042月〜4月連載,全21回)

 


 

(1) 

 こんばんは、前にクーミからいただいた宿題「八重山キリシタン事件・石垣永将の処刑」について調べてみたら、説がいろいろ分かれてはっきりしません。そこでタムラさんに聞いてみました。ちょっと長くなり、連載になりますが、どうかきいてください。

なお、(9)からは小説「石垣永将キリシタン事件」になります。

 

  (プロローグ)

 「タムラさん、石垣永将の八重山キリシタン事件についての小説や、史料への記述は多いけど、いろいろ説がわかれているでしょう。疑問や謎がありますね」

 「うーん、火あぶりの刑という琉球にしてはショッキングな最期だったということ、キリスト教に絡んでいるということ、この事件以降、離島への政策が厳しくなったと云われていること・・・など、それぞれの立場からいろいろな解釈があるからだろうね」

 「いろいろ資料を読むと、天草四郎時貞のような殉教者として描いているもの。これは宗教関係者ですね。あと国際的に活躍して宮良間切に善政を施した指導者像を強調するのは嘉善姓の門中の資料ですね。また、これらとは違う解釈もありますね」

 「そこでだ、当時の時代背景をみながらこの事件を考えてみようじゃないか。その前にキミ、この事件の概要について説明しなさい」

 

八重山キリシタン事件 1624年、ドミニコ会の神父を乗せた1隻のスペイン船が石垣島に流れ着いた。この遭難者たちを、宮良間切の元頭職だった石垣永将(生没年不詳)がキリシタンと知りながら保護していたことが、のちに王府の知るところとなって問題になった。これを八重山キリシタン事件という。 「八重山島年来記」によると、石垣は「富崎海岸に漂着した南蛮人たちに対し牛10頭を贈り、神父らを家にまねいて数日もの間もてなして稽古事(キリストの教えをうけること)をおこなっていた」という理由で、キリシタンの嫌疑をかけられて有罪となった。その結果、当人は家財を没収されたうえ渡名喜島へ流刑になり、その一族も渡名喜島、波照間島、与那国島、宮古島へとそれぞれ流刑になった。  ところが、これによってこの事件は解決したのではなかった。1634年、薩摩が石垣を処刑するように命じてきたのである。そのため、石垣は翌年、渡名喜島で火刑となり、弟の永定も島原・天草一揆のあと処刑された。また、ルエルダ神父も粟国島に流されたあと殺害された。(高等学校 琉球・沖縄史2002年版86ページ=新城俊昭著より転載)      

 


 

(2)

 「史料が制約され、しっかり検証されていないのが現状だが、この記録をみて、いろいろ疑問が出てくるだろう。まずルエルダ神父がなぜ八重山に来たのか、石垣永将は本当にキリシタンだったのか、死刑になるまで確固たる信仰心を維持した殉教者だったのか、一度裁判を受けて罰が確定(流刑)したのになぜ薩摩の命で、しかも事件より10年後に、火あぶりになったのか、などなどだ」

 「そうですね、信仰心とはそんなものですかねぇ、でもタムラさん、なぜ八重山だったんでしょうかね・・・」

 「では、この事件を見る前に、内外の情勢に目を向けてみようか、長くなるけどオジィの話をきいてくれや。日本にキリスト教が入ってきたのはいつだ?」

1549年のフランシスコ・ザビエルの来日です。」

「その3年前に種子島に鉄砲が伝来された。これは強いインパクトだった。鉄砲という革命的な武器に大きな期待がひろがったんだ。そして鉄砲をもってきたポルトガル人が紹介した珍しい産品の数々だ。この船は明と交易に来て、台風にあって種子島に流れ着いたんだなぁ。」

「最初のポルトガル人はこの船ですか、日本を最初からめざしたわけじゃないんですね」

「うむ、ヨーロッパはポルトガルを先頭に大航海時代だ。コロンブスの北米発見、バスコ・ダ・ガマの船団はインド洋からマラッカに達した。ポルトガルはそこを拠点に、どんどん先に進出してきた時期。たまたま明が閉鎖的な貿易政策を改め開放に転じため、ボルトガル人達は巨大な相手国を見つけて忙しく、東の端の日本まで手が回らなかったんだ。このポルトガル船団の東アジアでの活躍は同時に琉球王国の南方貿易の終焉でもあるんだなぁ、もう琉球のような小国が隙間を狙って活躍する余地がなくなっちゃったんだ。」

 「小企業である琉球王国はヨーロッパの大国との貿易商売で負けたということですね」

 


 

(3)

「さて、世は戦国時代、種子島の漂流船から3年後に来日のサビエルね・・・

まぁ、そういう背景で、ザビエル先生ご一行様大歓迎だったんだねぇ。ザビエル修道士もそこらへんは、3年前の漂着船の情報で承知済み、各地の指導者(領主)が喜びそうな物産をたくさん準備して布教活動の許可をもらったんだ。

ザビエルの滞在は2年半ほどだったけど、精力的に動いた。なぜかって、彼の属するイエズス会自体ができたばかりの新興宗派で若いエネルギーにあふれていたんだよ。後続のポルトガル船がどんどん来て、九州や畿内の戦国大名には洗礼をうけたキリシタン大名があらわれた。ただ叱られるかもしれないが、ボクはこの大名たち全員が熱心なキリシタンだったのか疑問だね。信仰とポルトガルとの貿易はセットだからね。これで港を開いて富を築いたのは確かだ。また戦国、下克上の人心荒れた世相、宗教に救いをもとめる庶民は多かっただろうね。」

 

 「布教活動はどういうふうにしたんですかねぇ。『アナタハ 神ヲ シンジマスカ』とか、玄関あけて、ニコッと笑って『愛についてお話しませんか・・』とか・・・?」

「ばかもん、ジジィをからかうなよ、印刷だよ。プリントね。彼らが持ち込んだ印刷機で、庶民でも分かりやすい言葉で説いた文書を広く配布したんだ。

 

織田信長は布教活動を許可した。しかし秀吉の時代になると信者が東北地方まで広がった。キリシタン大名の中には所領を秀吉の許可なく神父に寄進するのが出てきた。また既成宗教界からのモーレツな圧力だ。そこで秀吉は1587年にバテレン(神父)、イルマン(修道士)追放令を出した。しかし一方では貿易は奨励したので徹底できなかった。

そして家康の時代、琉球は薩摩の侵攻をうけた頃だね。家康ははじめ貿易を奨励し、キリシタン布教黙認だった。しかし1612年に直轄領に禁止令、翌年に全国に禁止令を出した。そして1624年にイスパニア船の来航禁止、日本船の海外渡航禁止、など1641年に長崎の出島でオランダだけの交易を許可するという一連の鎖国政策に走ったんだ」

 


 

(4)

「タムラさん、ここでちょっと整理していいですか、戦国時代後半1549年にザビエルが来日しましたよね。そして信長が全国制覇・秀吉に天下が移り、ザビエルから38年後の1587年には秀吉のバテレン追放令、1600年の関が原で徳川家康の天下、その9年後に1609年で薩摩の琉球侵攻、1613年にはキリシタン布教禁止、そして10年後の1624年にスペイン船の来航禁止でしたね。まさにその年に石垣永将の事件は起こったんですね」

「そうだね、徳川幕府の鎖国政策は一気に実施したのでなく、いくつかのステップを踏んで遂行されたというのを分かってくれ」

 「でも、タムラさん、なんで徳川家光は鎖国をしたんでしょうか?キリスト教がいやでやったんですか」

「難しい質問だ。ボクは宗教哲学なんか知らないから徳川幕府の体制システムとキリスト教の教義の関係は語れないけど、国際情勢からみると当時の幕府首脳は相当な危機感を持っていただろうと思っている。秀吉から家康の時代のヨーロッパの情勢は大きく動いていたんだ。ポルトガルが頑張ったあと衰退し、イスパニア(スペイン)が台頭、フィリッピンを征服した。そしてオランダが独立、ジャワに進出する。イギリスがイスパニアの無敵艦隊を破る、東インド会社の設立などがあったこと、でも何よりも超大国・明がどんどん衰弱していくのを見て、こりゃヤバイということで鎖国に踏み切ったんだな。」

 「で、なんでオランダだけを相手国に選んだんでしょうか」

「鎖国という言葉が悪いかもしれないね。国の扉を閉鎖するようにきこえるが、実際は長崎の出島で貿易はやっていたよね。貿易渡航制限なんだ。家康の時代から貿易を奨励した徳川幕府がこれに転じたのはキリスト教禁止よりも、各地の大名対策のほうが主な目的だったんだ。つまり徳川体制は藩という独立国の集合体だ。各大名が独自で港を開いて外国貿易で儲けて力をつけたら、どうなる。キリスト教は出島みたいなところに閉じ込めれば布教活動を抑えられる。なぜ、オランダかって?消去法だよキミ。」

 「ビジネスパートナーとしての条件が合致したということですか」

「当時、ポルトガルはスペインに併合され国力に余裕がない。そこでスペインだが、国王の野望で世界征服を狙っている。これはアブナイ奴らだと考えた。そこで新興国イギリスとオランダだ。イギリスも東インド会社を中心に東アジア進出をねらい日本とも平戸に商館を設置して交易をしていた。ところが日本までの間の拠点国が少ない、イギリスから日本までは遠いんだよね。そこでイギリスは1623年に経営不振のため商館を閉鎖、つまり日本支店閉鎖でビジネス戦線から自主撤退したんだ。そこで残ったのがオランダだ、東インド会社(インドネシア)、そして、台湾島南部に支店があり中継補給ばっちり、この時点で世界一の貿易国だった。」

 


 

(5)

「なかなか本題の石垣永将事件にいかないねぇ。事件の起きた1624年の国際情勢はこんなもんだ。世界の制海権を巡るバトルの最中でオランダがトップ、やがてイギリスに抜かれんとする頃。では国内と琉球ではどうだったか。1624年は2代将軍秀忠から3代家光に代わった翌年だ。1615年に大阪夏の陣で豊臣家と旧勢力を完全に絶滅させ、強力な幕藩体制を推し進めた時期になる。

では薩摩はどうだっただろうか。「系図屋」のときに話したけど、秀吉にいじめられ、関が原では運悪く石田三成について唯一残った有力藩だが、徳川幕府からの締め付けは厳しかった。秀吉時代の有力大名である福島正則も1619年に取り潰し、加藤清正も息子の代で1618年にお家騒動を起こし、32年に取り潰された。島津家も、いつ潰されてもおかしくはないぐらい、戦々恐々と江戸幕府の動向に神経を尖らせていたんだ。」

 

 「大体わかってきました。そこで薩摩は幕府に気をつかって琉球でも厳しくキリシタン禁止策をとって、石垣永将の処刑をしたんですね」

「まぁ待て、急かすなよ。その前に琉球王国の情勢はどうだったかだ。1624年というと1609年の島津侵攻ショックから15年だ。この15年という数字。20歳の青年は35歳、30歳だった人は45歳でまだまだ、世変わりの記憶が生々しく残っている時期だ。薩摩の指導による新しい仕組みや体制づくりが落ち着いたかな・・ぐらいな時期じゃないかな。

検地は終了し租税(年貢)も確定、薩摩の次々に打ち出す政策に対応していたと想像するね。そこでいきなりキリシタンの禁止令だ。琉球王国民はキリシタン自体がよくわからない。しかし各地に高札をあげさせた。それは、薩摩の国でも厳しく取締り、琉球に信者らが逃げて来ないか心配したんだ。」

 「キリシタンというのは琉球にいたんですか」

「宣教師側(キリスト教団)の記録ではないようだ。キミも知っているとおりヤマトでは身分帳みたいのがあるよね。お寺さんの檀家になって戸籍登録みたいなもんだ。ところが琉球にはこれがない。そこで薩摩はキリシタン対策として5人組制を導入した。それまで門中を中心としていた民(百姓)をムラ内部で血族5家族ぐらいを単位にグループを組織して、相互扶助(結いマール)、共同作業、連帯責任、相互監視体制をつくったんなぁ。

屋号というのがあるだろう。キミの親戚の屋号を思い出してごらん。本家(根屋)を中心に東、西、後、奥、中、前、大、中、小などがくっついた屋号が多いだろう。これが5人組制度の名残り、キリシタン対策だったんだ。」

 「そういえば東(アガリ)金グスクとか、クシ(後)蔵ん当とか・・・ありますねぇ・・いい勉強になりました。」

 


 

 (6) 

「さて八重山キリシタン事件の時代背景はこれで理解してもらい、本題の事件をみようか。

「ではタムラさん、石垣永将事件に関しては、いくつかの説に分かれています。これを教えていただけますか?」

「まず、とても古い事件(380年前)で遠く離れた八重山で起こったということ。八重山の古文書が1771年の明和の大津波で失われたということ、が致命的だ。史料がすくない。」

 

(注釈)・・明和の大津波・・・・

1771年、石垣島東南海域でおきた大地震によって、宮古・八重山諸島に甚大な被害をもたらした未曾有の大津波。記録によると石垣島東海岸の村々の多くが壊滅し、宮良間切では最高85.4mの地点まで津波が押し寄せた。犠牲者は八重山全人口の3分の1にあたる9313人。宮古でも2548人が亡くなったと伝えられる。

 

「現在、石垣永将事件について語るときの基になるのは、「八重山島年来記」これは、大津波のあとに八重山の役人が伝承を書き残したもの。「嘉善姓家譜」石垣永将の系図で、これも系図座ができた後、18世紀に編集されたもの、一族に繁栄をもたらした永将の業績を知る手がかりになる。「柏姓家譜」これは永将の事件を首里から派遣されて裁いた小禄親雲上の系図、大事件の処理をしたということで業績として記録されているが、事件65年後にまとめられている。「薩摩旧記雑録」これには薩摩の処分、火刑の記録がある。そして「ドミニコ会の殉教録」これはフィリピンマニラに本部を置くドミニコ会の資料。ルエルダ神父の側の記録、神父の報告書や出入国がわかる。図書館で読める本は、ほとんどこの5つの史料から展開された説だ。」

 「なるほど、事件の顛末を詳しく報告した当時の公文書はないんですね」

 

「それでは一つひとつ考えてみようか。まず事件の発端となる1624年のスペイン船の石垣島到着と神父についてだ。高校教科書では「流れついた」となっているけど、そうだろうか?遭難・漂流でこれを救助することは人間的な行為で称賛されるべきものだ。では神父はどこを目指していたんだろうか?だ。

ボクは、このルエルダ神父は最初から八重山を目指したと考えている。それは、当時の情勢からだ。その前にこの神父について説明しよう。

 

この神父の名はフォン・ロス・アンヘルス・ルエルダという名前のスペイン人、プルゴス生まれで修道士となってフィリピンにわたった。実はこの神父、234歳ぐらいのとき来日、鹿児島、佐賀で16年間、布教活動をして幕府の禁止令の厳しくなる中をくぐりぬけ、一度マニラに戻って2年後の再来日なんだ。」

「なぁんだ、日本を知っている宣教師だ」

「そう、幕府の取締りが強まる中、日本のサムライの格好に変装して布教活動をつづけていたといわれ、日本の国内情勢、日本語、日本人を熟知していた知日派宣教師だ」

「なぜ、キリシタン禁止令の日本に戻ってきたんですかね」

「ルエルダ神父がマニラに戻ったのは体を壊したためだったようだ。2年後回復して、日本へ戻ろうとした。もちろん禁止令がさらに強化されていること、スペイン船の寄港禁止も知っていながらだ。」

「命がけなんですね」

「当時、このように、船員や商人に化けて日本に潜入を試みた宣教師は多かったらしい。信仰心による強い使命感だね。そういうことから、神父が石垣に来たのはスペイン船では直接本土にいけないから、八重山からワンステップ置いて日本上陸を果たそうとしたみたいだ。

 


 

(7)

「今度は、石垣永将について説明させてくれ。彼は八重山3間切(村)の一つ宮良間切りの頭(村長)の職にあったようだ。「年来記」には隠居中だと記されているが、役職は終身が普通なので現役とみる。石垣永将については、嘉善姓の家譜では中国留学や海外に渡ったり交易で富を築いた国際人だと強調しているが、この家譜は死後190年後に再編集されているもので、どうかと思う。

ただ貿易で財を成し、これを領民に分け与えたというのは十分想像できる。なぜかというと宮良間切の地形だ。石垣島は石垣、大浜、宮良の3つに分けられる。宮良は石垣島の東北側(太平洋側)。土地条件は他の地区に比べて非常に悪い。島の真ん中の大きな山、オモト岳の西側と南側は水も豊富で土地も肥えて、台風の影響もすくない。宮良のような農業生産基盤の脆弱な地は牧畜か他の産業でしか生きていけないので、貿易で稼いで食うしかなかったんじゃないかと考える。

 

 テキストの記述の中で一番気になっているのは、石垣永将が南蛮人に牛を10頭(10数頭とも)贈った点だ。牛は家畜の中ではとても貴重で高価なものだ。一頭の価格は中古車と同じぐらいだ。初めてきた外人に中古車10台分のプレゼントする人がいるだろうか?ボクはこれを交易だとみている。牛は食べるためじゃなく輸送手段や農耕用機械としての役割だ。牛を使って船からの物資を陸上輸送したとみている。ついでながらいうと、牛はとても神経質な動物で船での輸送がとっても難しい。死んだり事故を起こしたりする率が豚や馬や山羊なんかと違いとても高い。」

 

 「そういうことでボクは、石垣永将とルエルダ神父の対面は、国際感覚と柔軟な発想をもつ豪胆な親分肌のビジネスリーダーと、確固たる信仰に支えられた勇気ある宣教師の出会いと想像する。ただ、ルエルダ神父は日本がキリシタン禁止地区だというのは十分知っているはずだから、最初は宣教師であることを隠して接触したはずだ。石垣永将は貿易を通じてスペインの商人とこれまで接触していたはずである。なぜなら石垣島と台湾は沖縄本島よりずっと近く、人々の往復は頻繁にあったはず。これは、意外と知られていないが現在でもそうだ。そして台湾北部にはスペインの中継基地があったんだよ。」

 


 

(8)

「さて、石垣永将とルエダ神父の出会いのあと、事件がどう展開したかだ。信頼できる史料は極端に少ない。だが、当時のウルトラ級の大事件、何百年も語り継がれるうちにいろいろな思いが入ってストーリーがひとり歩きしている。いろいろな説があるが、共通しているのはルエルダ神父が永将の自宅に招かれ何日か過ごしていること。ルエルダが捕捉され粟国島に流されたこと。永将とその家族、一族が財産没収で島流しになったこと、その後、永将と弟永定が火刑に処せられたことだ。これを推理してみよう。」

 「同時に起きたのでなく、時間的に差があるのですか」

「正確にはわからない、この事件を裁いた小禄親雲上良宗の家譜によると事件は1622年となっているが、事件後65年も経ってまとめられたもの。最近でてきた史料(ドミニコ修道会記録)では、1624年とあり、これが定説だ。そこで時代背景と八重山・首里の経済・社会環境をベースにボクのつくった物語を聞いてくれ。」

 

 「380年前の事件を再現した歴史小説ですね」

 

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小説

殉教者〔石垣永将八重山キリシタン事件〕

 


 

 () 

 時は寛永元年1624年の初夏、石垣島富崎の沖に一隻の大きな外国船が現れた。村の衆から知らせを受けた石垣間切の頭職・石垣親雲上信本は「やっかいなことになった」と頭を抱えた。

「外国船との交流は天下のご法度、近年、特に首里王府から厳しくいわれている。遭難船だったら、水と食糧を与えて乗り組み員を首里に護送しなくてはならない。今回は普通の寄港だ。彼らに国法を説明して追い払わなくてはならない。その交渉が大変だ。かかる経費はどうする。何よりも首里への報告をどう繕へば・・・・」

次々に入ってくる報告を受けながら信本は、対策に苦吟した。そして思案の末、「外国船を、隣間切の頭・永将に回そう。あいつなら言葉もしゃべれるし、なによりも外国人慣れしている。弁も立つし首里への報告もうまく処理してくれるだろう」と決め、翌朝、早い時間に永将の屋敷を訪ね、この件の処理を頼んだ。

 

 宮良間切頭職・石垣親雲上永将はすでに外国船出現の情報を把握していた。そして信本に対し「全て任せて、処置について一切口出ししない」という約束で引き受けた。永将は、この件が自分のところに持ち込まれるのを予想していた。なぜなら外国人との交渉、首里、薩摩の役人と対等に渡り合えるのは八重山の中で俺しかいない。という自負があるからだ。

石垣永将は宮良頭職にあった父・永正の次男。幼い時から利発で学問に優れ、語学の才があった。10代のとき村の青年たちと一緒に船に乗り台湾に行った。また12年前に慶長検地の補助職として薩摩の役人に同行し八重山群島をくまなく歩き、測量や土地調査法を学んだ。首里にも上って学んだ経験がある。数年前に父が亡くなったあとを継いで宮良の頭となった。38歳の働き盛りの頭の中は宮良の村と民の繁栄だけだ。

 

 永将の行動は早かった。すぐに弟・永定と一族の主だった面々を集め協議。そして明の言葉の話せる永定を代表に外国船に乗せて宮良の浦まで回航させた。一方、使いを平久保に出し、牛10数頭に薪を積ませて運ばせ、倉から米や豆を準備。そして村中から大きな樽を集め水を溜めさせた。また男たち集め、永将の屋敷内に大急ぎで竹と茅を組んだ宿泊できる小屋を建てさせた。2日後の昼すぎに彼らはやってきた。

 


 

(10)

 村中の人が興味深く見守る中、永定に先導されて30人ぐらいの外国人が不安そうな足どりでついてきた。異人たちは、よくみるといくつかの風体に分かれていた。先頭を歩く恰幅の良い西洋人、おそらく船長だろう。その後ろに同じ格好をした若い西洋人が数人。そして中国服の男が数名。後ろから地元の人たちと似ている色黒の労働者たちが荷物を運んでついてきた。ただ一行の中に、こざっぱりした日本の武士の格好をした色白の、痩身だが知的な目をしている中年の男が2人の従者に支えられ足を引きずるように歩いていた。

 浜から少し入った亜熱帯樹の並木に囲まれた永将の広い屋敷では水や食事が準備され、女たちが忙しそうに動いていた。

 この屋敷の主である石垣永将は庭先で彼らを迎えた。琉球王国の上級士族・親雲上(ぺーちん)身分の公服に身を整えていた。黄帽を頭に載せ、雑花模様の紅地の広帯をしめ、かんざしは水仙花をあしらった金鼻銀茎のものをさしていた。

 

弟の永定が明の言葉で永将を紹介した。先頭の恰幅のいい西洋人が軽く叩頭し、自己紹介をした。中国服を着た二人の通訳を通しての話では、男はスペイン人で名をアルバ二・ムニョス、船長だと名乗り、マニラから来たと言った。

永将は船長に向かって「私は、この地の頭職をつとめるものであり、海上で遭難にあわれた皆さんを、首里におられる琉球国王の命により国王に代わり保護します」。と堂々とした口調で述べた。船長は訳が終わると。顔色を変え、すかさず何かを話した。通訳を制して永将は「わが王国は貴国との交易は国法により禁止しています。しかし慈悲深いわが国王は、皆さんのように遭難された旅人には仁のこころをもってお迎えいたします」。通訳が慌てて永将の言葉を伝えようとすると、永将は流暢な中国語で話した。これを二人目の通訳のスペイン語できいて船長は、副官とみられる西洋人と顔を見合わせたあと、破顔一笑。スペイン語で感謝の言葉を述べた。これで、その場の緊張感がゆるみ歓迎の雰囲気に変わった。

 


 

(11)

 永将宅の庭で外国人と地元の民との交流がはじまった。酒も出て和やかな雰囲気の中で、永将は開け放れた座敷でムニョス船長と副官らと中国人通訳を通じて懇談。永定は離れた場所で中国語の話せる船長の側近の一人と紙と筆を前に、ひそひそと商談をはじめた。

 この時代、外国との交易は王国の独占であり、特に西洋船とは禁止令があり許されなかった。しかし遭難・救助という形での私貿易は各地でみられた。八重山では、当時はまだ首里や薩摩からの常駐の役人は置かれず、永将、石垣の頭、大浜の頭の3人の合議制で首里に代わり統治されていた関係もあって、台湾や福建、マニラなどの私貿易はおおっぴらに行われていた。永将は村の者を使い大陸や台湾を中心に交易を行っていた。

 

 宴がすすみ、庭のあちこちで村の衆と水夫たちの大きな笑い声や歌声がきこえてきた頃。永将の座敷に小柄な中国人通訳を伴った、日本の武士の格好をした痩せた中年男が上がってきた。この男をみて、船長ら外国人は一瞬こわばり、丁寧なあいさつのあと、座をあけて、にぎやかな庭におりた。永将は男が船長より高い身分であることを瞬時にかぎとった。 

 男は日本式の作法で挨拶をした。「宮良のお頭様、今日は温かいおもてなしをありがとうございました」と流暢な日本語で話した。永将は驚いてこの男の目を見た。服装身なり、身のこなしは完璧に日本の武士だが目の色、肌の色が西洋人に見える、年齢は40ぐらいだろうか、この男。他の外人と違って知的で上品な顔をしている。・・・しかし日本の武士の言葉を話す。

 通訳が中国語で訳した。永将は、この不思議な男をしばらく観察してみたくなった。「あなたは日本のお武家さまに見えますが、なぜ乗船されていらっしゃるのですか」永将は中国語で話した。「私はある事情があり、今は名乗れませんが、大切な用でどうしても長崎に行かなくてはなりません、マニラから日本へは船がありません。そこで宮良のお頭さまにお力を貸していただきたいのです、もちろん相応の御礼はいたします」・・・

 澄んだ美しい目をしている。この人の言葉には全身から発する迫力があり不思議な説得力がある・・・

 

 永将は若い頃、八重山群島の検地に派遣された薩摩の二人の役人と1年ほど一緒に過ごした。最初は乱暴で厳しい人たちだったが、次第に打ち解け、別れるときには涙を流しあう仲になった。あの二人から農業や土木のほか日本の武士道や戦国の話などいろいろなことを学んだ、そして登野城の桃林寺の鑑翁和尚。日本語の話せる永将を日ごろから可愛がり、いろいろな知識を教えてくれた。でも今、目の前にいる人は全く違っている。説明は難しいが、上から押さえつけるのでなく、なにか導いてくれるような・・人を惹きつける雰囲気がある。よほど高貴な人物なのだろう。

 

 永将は身を正して、床に手をつき頭をたれた。そして日本語で「お武家様、失礼の段お許しください。あなた様をお疑いしておりました。よほど大切な事情があると拝察いたします。私にできることがあればご協力いたしましょう。本土への渡航はむずかしい問題があります。しかし、途をさがしてみましょう。とりあえず拙宅にご逗留ください」

 「お頭様、私こそ名も名乗らずに、無礼をはたらきました。お見通しのとおり、私はスペイン人です。ルエルダと申します。日本にある仕事で16年間すんでいました。日本に残した仕事があるのでどうしても戻らなくてはならないのです」

 これが、王国の歴史に刻まれる大事件につながるのである。

 


 

(12)

 石垣島に寄港したスペイン船は10日後に台湾に向けて出向した。船には永将が開いた平久保牧場の牛と馬、宮良の村でとれた米、豆などの穀物、野菜、そして永将がこれまで日本貿易で得た工芸品や織物、美術品などを載せた。代わりに南蛮のさまざまな産品が永将のもとに残された。スペイン人ルエルダは永将宅に留まった。

 

 ドミニコ修道会の記録によると、1624年にマニラを出たアルバ・ムニョス船長に修道会は1000ピアストルの経費をつかって宣教師を長崎へ送る約束をしたとある。しかしなぜか、ルエルダ牧師を八重山で降ろし、長崎には向かっていない。おそらく同年に発せられた徳川幕府のスペイン船来航禁止令とキリシタンの取締りの強化を、途中の寄港地、台湾で聞き、日本行きをあきらめて八重山に寄港したのでないかと推測する。

 

 永将宅に留まったルエルダの人柄と行動はたちまち村の人たちの注目をあつめた。博識と深い教養。穏やかながら、強い意志の人間性。特に医学・薬学に通じ、村人の病気を診た。天文学、航海術、土木技術、水利、建築を村の青年たちに伝授、すぐに地元の言葉を覚え、誰にでも分け隔てなく接する態度は「先生(シンシー)」と呼ばれ、多くの人たちから慕われた。とりわけ通訳として付いた永将の弟・永定はルエルダに心酔していた。そのうち永定は、一人でぼんやり考えごとをしたり、思いつめた表情をしたりするようになった。

 永将は弟の変化をみて、「まずいことになった」と考えた。実は永将はルエルダと最初にあったときから、キリシタンの宣教師であることを知っていた。キリシタンというものの知識は薩摩の役人や桃林寺の和尚から聞いていた。ただ永将はわが宮良には遠い昔から伝わる教えがあり、それは首里王府の奨励する神道や薩摩の仏教とは相容れないものであり、現にこれまで、圧力に屈せずに密かに守りきってきたという自負があった。だからキリシタンがいかに魅力があっても、われら宮良人の信念は変わらないと考えていた。その夜、永将は弟をよんで問いただした。

 


 

(13)

風の強い朝だった。嵐が近づいている。石垣永将はルエルダ神父を誘い、宮良間切内を案内した。ルエダの来島から一月ほど経っていた。空はまだ明けきれないが、人々は圃場に出て働いている。馬上の二人の姿をみとめると動きを止め会釈する。永将は村人に声をかけながら里を抜けた。宮良間切は石垣島の北東部にあたり東側は太平洋に面し、北は細長い半島となっている。風あたりが強く潮害を受けやすく、面積は大きいが農業に向かない地だ。荒涼とした北の岬が眼前にひろがる小高い丘に二人は登った。

「ルエルダ先生、ご覧のとおり私の村は八重山の島々の中でも一番、痩せた土地です。水も少ないし、穀物のとれ高もよくない。村人が食べていくためには知恵を絞らなくてはなりません。この一月、先生にいろいろなことを教えていただき感謝いたします。おかげで若者たちが生き生きしてきました」

「お頭様の、この村に対する思いが皆様に通じて、尊敬をあつめているのが、私のような者でもよくわかります」

「私の夢は、この地に世界中の国から人と産物があつまり、自由な交流で栄えることです。ここは台湾、明、ルソン、日本、朝鮮の中間にあります。そして土地も十分にあるし住む者も勤勉です。琉球王国の一部であることは間違いありませんが、できれば、薩摩や江戸や明などに遠慮せずに、ここを南の玄関として特別に開いてくれたらと・・・考えるのです。」

「お頭様の考えは素晴らしいと思います。私もここに来てから母国の関係者あてに、この島とお頭様のことを手紙に書きました。台湾に行く船に託していただければマニラを通して届きます。お頭様の夢の実現に、ご協力いただけるものと信じています。」

 「ルエルダ先生、私はこれまであなた様を観て、崇高なお人柄を心から尊敬いたします。信仰される神のことはよく分かりませんが、世界に共通する神であることは私でも知っています。あなた様が命をかけて信ずる神様でありますので、正しい教えだと思っています.ただルエルダ先生、私はこの地における琉球国王の命をうけた代理人です。キリシタンはご法度であり、最近首里より特に厳しく申し付けられています。私は宮良の村人を守らなければなりません。何卒、これをご理解ください。」

 「確かに、私が薩摩、佐賀にいた20年ほど前から、日本の為政者はキリスト教に対し年々厳しい禁止策に転じてきました。悲しいことです。神の教えが国を治める上で障害になると考えているからです。しかしこれは大変な誤解です。そのために私は日本を再び目指しているのです」

 「ルエルダ先生の日本行きについては、手配済みです。首里王府への報告は漂着船に乗っていた日本の武士1名を保護したので帰国について配慮あずかるようにと文書を出しました、次の船に乗れると思います」

 「お手配ありがとうございます。」

 「ただ時節柄、厳しいお調べが待っております。くれぐれも自重されてください」

 それから半月、台風の季節が過ぎた頃、首里から王府の使者を乗せた船が石垣の港に着いた。

 


 

(14)

石垣の港に首里王府の公船が着いた。当時の琉球は比較的海上交通が発達していた。王国内航路の船は進貢船や薩摩航路の楷船(紋船)のような大型船に各離島を結ぶ馬艦(まーらん)船、地船、そして大和船があった。このうち地船は間切の公用船で離島間や首里への連絡や年貢の輸送につかわれた。石垣についたのは馬艦船であった。馬艦船は中国のジャンク船をサンゴ礁に囲まれた琉球に適用できるように改造したもので、ヤンバル船もこれに分類される。単純な三角形の帆で操作性に優れ、逆風帆走ができ琉球の造船技術が生んだ傑作だといわれている。

 

 荷降ろし作業をする若い衆。そして物見のために多くの人々が集まり、島の港は賑やかになった。衆人監視の中、那覇で乗船した商人や職人らのほか数人の流人が官吏に伴われて下船する。これはいつもの光景だ。だが今回はいつもと違い、最初に屈強な武士が数人降りて来た。刀と槍を備えている。王府の横目配下の武士たちだ。先頭の責任者らしき者が取り囲む島人たちを睨むと、慌てて道が開かれた。彼らは八重山の蔵元の番屋に入った。

 石垣永将の家に蔵元番屋から使いが来たのは翌朝早い時間だった。三司官(大臣)読谷山盛韶親方の命とのことで、永将と永弘兄弟の呼び出しであった。永将は親雲上の公服に整えた。番屋で二人は座敷に通され、首里から派遣された松村築登之と名乗る役人と対座した。

「お役目ごくろう」

「石垣殿、御殿の役目にございます、あしからず」松村は上士である永将に対し、慇懃な態度で接した。

 

 王府からの通達内容は2点だった。一つは先の遭難船の処理について不明な点があり、詳細の説明のために二人して首里城に出頭すること。二つ目は遭難船で保護した肥前士族一名につき、日本より逃亡したキリシタンとの嫌疑あり首里にて詮議するので速やかに引渡されよ。・・・

松村は一気に読み上げると時期について、大和侍の引渡しは本日。ご兄弟の首里出頭は準備ができ次第、出発するようにと早口で申し立てた。

 「しばらくお待ちを・・・」と身を乗り出して反論せんとする弟を片手で制して、永将は

「松村殿、ヤマトの士族に非礼があったら重大な責任問題になります。十分に気をつかわれるようお願いします」と落ち着いた声で頼んだ。

 「承知いたした」松村は不敵な笑いを浮かべた。

 

 ルエルダはその日のうちに、永将の屋敷から役人に伴われ登野城の桃林寺の離れに移され、船がでるまで軟禁されることになった。

 

 永将召喚とルエルダ神父捕捉の話はその日のうちに村中にひろがった。その夜、永将の屋敷には心配した村人が集まり庭にあふれていた。座敷では弟の永弘をはじめ村の長老たちが座して、永将の言葉をまっていた。永将は部屋の真中で、屋敷中にあふれている面々にむかって、しっかりした声で話しはじめた。「みなの衆、首里に呼ばれたのは、そのとおりだ、が、私は決して悪いことはしていない。それは皆がよく知っているだろう」

「そのとおりだ!」一斉に歓声があがった。

 「私はこの際、いい機会だから、首里に言いたいことをいってこようと思う、外国国境に接している八重山の状況をお上は知らなすぎる。来月には出発して、しばらく留守にするが何も心配することはない」

 

 数日後、永将はルエルダが公船で首里に送られたと聞いた。港には多くの村人が見送りに集まったとのことであった。

 


 

(15)

石垣永将が首里上りのために、準備に追われていたある夜、人目を忍ぶように訪れた者があった。

「これは、大浜の主(すぅー)。こんな遅くいかがされたのですか」大浜間切の頭職のその老人は永将と石垣の頭と同格の身分。まだ在番制度が置かれない当時、この3人の合議で八重山蔵元(行政庁)が運営された。座敷で王府への上申書を書いていた永将は思わぬ訪問者に驚き、慌てて上座をすすめた。

「いやぁ、今夜は月がきれいなので散歩をしていたら、咽がかわいてね・・・」

「2里も歩いてですか・・」永将もつられて笑ってしまった。

 

大浜の頭の話は、首里の動きについての驚くべき情報だった。最近首里から戻ってきた村の者の話として。首里王府には薩摩を通じて、マニラからキリシタンの宣教師が琉球を通じて日本に送り込まれるという情報が、以前から入っていた。これは長崎にきたスペイン船の水夫が通報したものらしい。もうひとつは桃林寺の鑑翁住持が漂着船の処理について不満があり、石垣の頭を通じて王府に告発状をおくったこと。

  聞き終わって、永将はしばし黙り込んだ、いや、声がでなかった。

「大浜主よ。キリシタンの情報は別として、あのあと、和尚と信本に何度も会っているのに、事件処理については、わかってもらえたはずだが・・・」

「こういうことらしい、ヤマトの海の掟「廻船式目」では遭難船の積荷は本来なら全てその地を管轄する神社仏寺に属するべきだと、いうのが和尚の主張らしい。

 宮良の、おぬしは若かったので分からないかもしれないが、桃林寺が建てられたいきさつを。鑑翁住職は確かに首里の円覚寺から来られているが、実際はずっと前から薩摩の強い管理下にあったのだ、住職は京都で勉強したが、若い僧たちは皆、薩摩で修行しているのだ」

 「そういうことだったのですか」

「八重山で思うように布教が進まないので、薩摩側からかなりの圧力があったようだ、また財政的にも厳しいみたいだ。」・・・・

 

大浜の頭は帰り際、永将の手をとり「心しろよ」と言い残し、闇の中へ去った。

   


 

(16)

  石垣永将・永定兄弟の首里召喚に、陰謀の気配を感じた永将は出発までの間、一族の主だったものを集めて策を練った。そして次々に入る情報を検討。最悪の事態である官位剥奪・財産没収の場合どうするか、などを話しあった。指導者として永将の考えることは唯一点「宮良間切の民の平和と幸せ」であった。どんな事態になろうがわが一門は力をあわせて対処しようではないか、と確認した。

 ただ、気がかりは弟の永定・・・・石垣首里大屋主永定、27歳。永将の下の弟。宮良間切の与人の身分であり、行政の実務をにぎっている。秀才で和漢の書に通じ算勘に優れ、永将の優秀なる片腕だ。「永定の才は俺より上だ」常々もらしている。親分肌の永将とちがい生真面目な学者肌。昔から兄を尊敬している。「こいつの一途さが悪い結果にならなければ・・・・」

 

 永将兄弟が宮良間切の公船で那覇の港に着いたのは、秋のきざしが感じはじめた候。さっそく泊地頭番所内で取調べが始まった。本来、この手の取調べは平等所とよばれる司法裁判所と警察が一緒になった役所で行われるが、永将が上級士族階級の親雲上であることから三司官直轄の特別詮議となった。

吟味役として小録親雲上良宗が指名された。小録良宗の名を聞いて永将は驚いた。かつて久米村の天妃廟の学問所で机を並べた仲だった。私費留学で出てきた八重山の豪族の息子、体も大きく腕力で常に大将格だった永将と、小柄でひ弱な年下の首里士族の秀才、良宗はなぜか気があった。一緒に学んだのは一年だけで、良宗が15歳で国家試験「科試」に合格。永将は翌年19歳で合格した。

 

  取調べは良宗が直接行うのでなく、主に二人の下級官吏があたった。一人は石垣島に派遣された松村、もう一人は小橋川と名乗る初老の男だった。連日、朝から遅くまで番所の座敷で行われた。永定は別な場所で調べられていた。追求されている点は抜け荷(密貿易)について、これを永将一族が私していると疑っている。と、やりとりの中から嗅ぎ取った。しかし外国との交易は蔵元に全て報告されており、書類帳面もきちんと整理され、王府への貢物も適正に処理されている。これは弟永定の才覚によるものだ。おそらく疑惑は、永将一族の築いた大きな富と宮良間切の繁栄をもたらした財源からきているものであろうと、容易に想像がついた。

 永将は、一族と宮良の繁栄は密輸品をごまかして得たものでなく、長期的な展望に立った積極的な産業振興と合理化、日常生活における徹底的な節約と民が力をあわせて勤勉に働いた結果によるものだと、具体的な例をあげて論破した。

 

永将の鮮やかな反論に取調側が追求に詰まり困惑の表情を見せ始めた頃、松村たちは突然、取調べをキリシタンの話に変えた。話では永将が肥前士族として保護した男は実はスペインのバテレン(神父)であり、王府の取調べでこれが確認され、ただちに粟国島に流罪になったことを知らされた。これについて、永将が石垣島で保護している間にキリシタンの布教活動に関係したかを追及された。永将は王国の民として当然の人道上の立場から対処した、と強く主張した。

 


 

(17)

 「弟の永定がキリシタン信仰を認めたぞ・・・」屈辱的な取調べが続くある日、松村が勝ち誇ったように告げた。松村によると、永定は通訳としてルエダと接触しているうちに、西洋の神の教えを受け、祈りや儀式の方法を伝授された事実を認めた、とのことだ。

「それは、間違いだ、弟に一度会わせて確かめさせろ」と永将は迫ったが、それはかなわず、悔しさに思わず拳を握り締めた。

 

 下級官吏の予備的な取調べが一段落ついて、吟味役調べが始まった。小録良宗と石垣永将は同格の親雲上である。しかし立場は裁くものと裁かれるものである。小録は部下と書記方を控えて、広間に対座した。かつての友、小録の場慣れした堂々とした振る舞いに、永将は20年の時の長さを感じた。「この男に生殺与奪をゆだねるのか・・・・」型どおりの挨拶のあと、甲高い声で書状を読み上げる小録に若き日の面影をみつけ、感無量となった。

 

 吟味役調査の数日後、永将が軟禁されている宿の寝所に深夜、黒い影があらわれた。慌てて、声を上げようとすると、押し殺した声で「永将どの、灯かりをともされるな」、「良宗か?」相手は答えなかった。「息災でなによりだ」「立場をわかってください」、「よくわかっている」・・・忍んできたのは良宗であった。

 二人は闇の中で再会を喜びあい、明け方近くまでひそひそ声で話し合った。良宗が帰ったあと、寝付けなかった。「あいつも苦労しているな・・・」永将はため息とともに独り言を吐いた。

 

 良宗の話だと、薩摩から王府を揺るがせるほどの厳しい圧力がかかっていること。その元は幕府からのもの。特に農村を安定化させるめに租税体制、身分制度をしっかり確立させ農民が勤勉に働けるよう対策を講じること。今までなおざりにしていた離島対策を早急に強化すること。対外貿易の首里王府への一元化を徹底させること。キリシタン取締りや抜け荷禁止など幕府のご政道を遵守すること。これにそむく者は例え三司官であろうとも厳罰に処する。として、薩摩側から脅迫といえるほど追い詰められているとのこと。

 これに対し永将も、良宗に離島の実情を訴えた。しかし良宗は「理解はできるが・・・」と言ったきりだった。

 最後に、良宗は、松村・小橋川から「石垣殿は立派だ」と報告を受けていると語った。

 

 永将は事態が八重山だけの問題でなく、琉球王府をも超える大きな力に動かされ、悪い方向にむかっているのを感じた。

 


 

(18)

八重山宮良頭職・石垣永将とその弟・永定に対する抜け荷およびキリシタン疑惑への詮議は、首里久場川村にある平等所(王国の裁判所)に移され、琉球国王の名のもとで最終的な審理に入った。

 「最初に罰ありきか・・・」永将はつぶやいた。これまでの取調の過程で、この事件が首里王府による八重山の統治体制潰しの陰謀だと明らかになった。「王府は八重山の指導者の全てを奪い、首里の統制下に置くつもりだ。これでは何を反論しても無駄だ・・」永将の心配事は宮良の民に重圧が科されることだった。

 

 小録親雲上良宗の読み上げる罪状をじっと目を閉じて聞いていた。そして正面に座する三司官・読谷山盛韶親方から、何か申し残すことはあるか、と問われた。「すべては私の一存で起こったこと。宮良間切の民には一切かかわりのないことであり、累が及ばぬようにお願い申し上げたい」と答えた。

 

 王国の仕置きは厳しかった。八重山一の富を誇る永将・永定の財産は没収、娘・息子たちをはじめ直系の家族は渡名喜、宮古、与那国島への流刑と宣告された。しかし首里王府の八重山に対する処分はこれに留まらなかった。永将を告発した石垣間切頭職・石垣信本も密貿易で改易・官位剥奪、大浜頭大城親雲上も隠居。八重山の民は、最高指導者たちが次々に失脚するのをみて、事態の深刻さを悟った。これによって八重山の民による自治体制は終わり、首里在番の士族とその背後の薩摩による監視体制が強化されることになった。

 

 渡名喜島・・・那覇の北西十数里離れた孤島。進貢船航路の目標である久米島と那覇の間に位置する小さな島である。周囲3里ほどの三日月形の島。南北に山があり、その間の狭あいで平坦な砂地に集落や畑がひろがる。農業生産には向かない島だ。流人としての永将たちには地割の土地は与えられず、村はずれに小屋を建て、農家の使用人として過酷な労働が課せられた。しかし永将兄弟の知性と勤勉さは次第に人々の心をつかんできた。

 ある日、永将が畑に向かう途中、地頭代の甘藷畑に差し掛かると、永将はいきなり畑に入り芋の長い蔓をあぜ道まで引いて寄せた。血相を変える村人に「芋はこうすれば収穫も上がり質もよくなる」と説明した。はたして数ヵ月後、その畑からは大量の収穫があがった。次に永将はその畑に豆を植えさせた。3ヵ月後に十分に耕起して芋を植えるとさらに多くの収穫があがった。

 

 甘藷は野国総管が10年ほど前に琉球に導入したが、この時期ではまだ、栽培法が確立していなく、年に1回とれる程度だった。自然災害に強くコメの5倍もとれる芋の普及が王国の飢饉の救済や人口増加に役立ったのは、蔓返し、耕起、輪作、施肥などの栽培技術が普及してからだった。永将らは交易によって栽培の知識を得ていたようだ。

 


 

(19)

  石垣永将のキリシタン嫌疑による一族流刑処分の話は王国中にひろまり、人々を驚かせた。とりわけ離島には衝撃的であった。

 さて、一方の当事者であるルエルダ神父は、これより先に粟国島に遠島となっていた。粟国は久米代官所に属し、那覇・久米島の間にある小島で渡名喜島より北側に位置する。その名のとおり粟ができるが、南東部の高台から緩やかな傾斜状にひろがる扇形の島。島全体が隆起サンゴ礁による岩盤でできて、森林がなく台風や潮害に弱く地力が乏しく、サバニによる小規模な漁業で暮らしている村だ。

 

 流人ルエルダに島人たちは腫れ物に触るように接した。首里の役人からキリシタンとの接触を固く禁じられていたからだ。特に島頭や有力者たちは石垣永将の流刑以来、キリシタン嫌疑がわが身に降りかかるのを極端に警戒していた。しかしルエルダは宣教師としての使命から、ここでも積極的に動いた。語学の才で、すぐに島の言葉を覚えた。子供たちがルエルダのもとに集まり、やがて夜の闇にまぎれて青年たちもルエルダの小屋に集まってきた。このことは、島の有力者たちに伝わった。そして島頭は久米間切の地頭代に報告、ルエルダの他島への移送を願い出た。

 

 ある風の強い日に、久米間切から数人の男が小舟にのって粟国島にやってきた。そして島頭にルエルダ神父を久米島に移送する旨を告げ、直ちにルエルダを連行し西の海に去った。それ以来、ルエルダ神父は消息を絶った。首里王府には、粟国島より願い出により久米島に流人を移送中、事故で水死したと報告された。

 

  渡名喜島で永将が流人となって7年の歳月が流れた。朝早くから遅くまで働き、島のために知恵をつかい様々な努力を重ねた。その人柄は、いつのまにか島中の尊敬を集め、流人ながら地頭代の顧問格の待遇を受けるようになった。永将の一番の功績は新しい畑の開発による農業生産量の増大であった。それにより首里への年貢納めが改善された。

 

 渡名喜島は狭く、水がなく島の中央部の低地以外に畑になるような場所が見当たらない。ある日、永将は島の集落を挟む一つの山の頂上に登った。そこには拝所があり、大昔に島に住み着いた人たちの集落跡と言われていた。永将は弟と毎日そこに登り、何かを調べていた。そして地頭代に、この山の斜面の開発を申し出た。当初疑いの目をもっていた島の人たちも、石垣兄弟が黙々と海岸から石を運び、畦垣をつくり、次々に棚畑が現れるのをみると、進んで力を貸し、しばらくすると見事な段々畑の風景となった。そこを一部水田にし、他は主に芋を植えた。イモは蔓が繁殖することで土壌浸食を防ぐからだ。傾斜地における棚田の造成技術はちょうどこの頃、薩摩で始まったといわれるが、永将は若いとき、八重山諸島の検地にきた薩摩の武士に学んだようだ。

 

永将の息子たちやその一族は宮古、与那国に離散したが、士族の誇りを忘れず勤勉につとめ、それぞれの地にしっかり根ざす程になっていた。

 

  石垣島にルエルダ神父を乗せたスペイン船が到着してから10年後の明正11年(1634年)、首里王府を震撼させる通知が薩摩藩から届けられた。

 


 

(20) 

  薩摩在番奉行から首里王府に届けられた内容は次のとおり「八重山宮良間切頭職石垣永将と申す者および弟、南蛮に成り候故、当時流罪の由に候。早々火あぶりに可仰付事。」

 

 首里城北殿にある評定所で三司官・読谷山盛韶親方から内容を告げられた小禄親雲上良宗は、色をなして反論した「王国の仕置きを、しかも十年前のことを何故今さら。・・・薩摩には顛末は既に報告されているはずです。」

 「良宗、分かるであろう、今の島津様の立場を」三司官は眉間に皺寄せて苦しそうに答えた。「幕府は家光公が将軍にお就きになり、いよいよ強く天下のご政道を改めている。来年から諸侯は江戸と領地を交互に往復する参勤交代がはじまる。外国との交易は全てご法度、肥前の国・長崎で幕府管理のもとで行うことになった。また、許可なく勝手に城を修理したり幕府の方針に逆らったり、跡継ぎが決まらない場合は、御家とり潰しになる。キリシタンの禁止はますます強く、見つけ次第極刑に処せられる方針だ」

 「読谷山親方、石垣永将の事件は十年も前の事件です。渡名喜に流された永将どのは、島で苦労され、功績をあげ島を繁栄させていると報告を受けており、ご赦免を上申するところでした。それではあまりにも酷いではありませんか」

「その話は聞いておる。しかし薩摩お国元は今、国公認の抜き荷が幕府に知られるのを恐れ、幕府探索の動きに戦々恐々であると、薩摩の琉球館から報告を受けている。確かに火あぶりは、幕府の心証を良くするための手段かもしれない。来年は琉球国も江戸へ慶賀使を派遣するときだ、良宗、そこを分かってくれ」

 「しかし、火あぶりとは、余りにも残酷・・・」

「今朝、御書院にあがり上様に申し上げたら、深く悲しんでおられた。」

 

 「火刑?・・・」渡名喜地頭代に伴われてきた首里の官吏から告げられて、永将は言葉を失った。役人たちが直ちに永将に縄をかけようとしたところ、地頭代が一喝した。「ここは私が責任者だ。私のやり方でやらせてもらう」この島の指導者の迫力に、役人たちも手を引いた。永将兄弟の身柄は地頭代預かりとなり、同屋敷内に軟禁された。

 

 地頭代屋敷での永将兄弟の待遇は賓客扱いであった。呼称も親雲上と呼ばれ上座に通され、首里から来た役人たちに差をつけた。それが老地頭代の精一杯の抵抗であった。その夜、永将は弟永定と時をすごした。

 「兄者、死ぬのは少しも怖くないが、十年前に裁定した仕置をやり直した首里は情けない。なんでも薩摩にしたがい、王国としての誇りはないのか、おれはそれが悔しい。」

 「永定、おちつけ、体面を汚したのは島津どのの方だ。一度認めた刑について、命令を改めて発するということは、国としての権威、指導力の無さを天下に広めたことだ」

 「ということは、薩摩藩よりもっと大きな力が動いているのか・・」

 「この50年、世の中が大きく変わってきた。明国がなくなり、戦国のヤマトでは徳川さまが天下を統一、わが王国も薩摩に攻められ揺れ動いてきた。

平和になったが、これからは江戸を中心に秩序ある国になるだろうし、小さな琉球もその中に組み込まれて行かざるを得ないだろう。我々の刑は、それを示すための『一罰百戒』だ。どうだ永定、ここは、キリシタンだということで堂々と死のうじゃないか。ルエルダ先生から習った作法を教えてくれ。」

 

 数日後、渡名喜の浜で島人の見守る中、二人の火刑は執行された。これは島原の乱の二年前のことであった。

 

 それから数年後、国王尚賢は宮古、与那国、波照間に流刑となっていた永将の息子や一族を赦免。息子の親雲上永弘は後に石垣間切の頭職となった。

 


 

(21) (エピローグ)

「・・・・ということで、長々と話したが石垣永将事件物語は、これでおしまいだ。」

 「タムラさん、石垣永将は結局、キリシタンだったんですか?」

「この前も話したように、八重山キリシタン事件というのは380年前の話で、極端に史料の少ない事件。最初、史料を集めて検証してみようと思ったが、確実に信頼できるものが少ない。それで、検証をあきらめて勝手に想像を展開したんだ。」

 「それで、途中(9)から、小説仕立てに変わったんですね」

「ボクの調べでは、いま沖縄で入手できる資料では大きく分けて5通りぐらいだ。この事件を最初に世に出したのは、真境名安興(伊波普猷の後任二代目縣立図書館長)の「沖縄一千年史」(1923年)。その後いろいろな先生が取りあげているが、永将はキリシタンであった、とするのが主流。だが、東恩納寛惇(元都立大教授)だけはキリシタンではなかったとする説をとっている。ボクはこれを支持するね。」

 「では殉教者ではない、と考えるのですか」

「まず、スペインの宣教師ルエダが滞日経験も長く、語学の才能があり、布教のための説得力に優れていても、数ヶ月(20日から半年ぐらいに説が分かれる)の間で、流刑や火あぶりになる程の強い信仰を授けられるのか、という点。オヤケアカハチの乱(1500)の頃からあったといわれる伝統的土着宗教(ニライカナイの思想)には首里王府も手を焼いたという記録も残っている八重山でだ。つぎに、永将は国王の代理人で八重山の行政のトップにいる人物。その人が国禁であるキリシタンに短期間で改宗するだろうか、などの点からだ」

 「それでは何故、この事件が起きたかですよね」

「ボクは直接的には私貿易疑惑、広くは日本の幕藩封建体制に琉球王国が組み込まれていくための強化政策の中で「血祭り」にあげられた。と考えている。つまり、当時の八重山は貿易でかなりの富を築いていて、その象徴が永将ではなかったかと・・・大胆に例えていうなら、奥州で中尊寺など独自の平泉文化を発展させ、源頼朝に滅ばされた藤原秀衡一族のような立場だ。」

 「この事件がきっかけで八重山などの離島統治政策が強化され、人頭税などに象徴されるように過酷な時代がはじまったといわれるんですよね」

 「うーん、人頭税が天下の悪税制で離島を苦しめたという点は、ボクは違う意見だ。むしろ首里王府の離島に対する経済政策、農業政策の失敗にあったとみている。いずれにしても、長い間、八重山の民が苦労したのは間違いないだろう」

 

 「『殉教者』というのは、八重山が元気のある時代から苦難にかわる境目の、時代に殉じた男である、という意味なんですね」・・・・(了)