(この記録は,2004年2月13日に行われた新潟市立小針中学校の総合学習講演会での講演の抄録です。小針中学校の学校便りおよびホームページに掲載された抄録をもとに,南風原が加筆・修正しました。)
沖縄と私と学問
南風原朝和
【1】自己紹介
こんにちは,南風原です。2年生の皆さんが4月に,そして1年生の皆さんも来年度,修学旅行で沖縄に行くということで,沖縄出身の私に,沖縄のこと,そして私自身のことや勉強・学問のことについて話してほしいという依頼を受けました。
私は沖縄の那覇市で生まれ,高校を卒業するまで那覇にいました。初めて沖縄以外の日本(本土とよんでいます)に行ったのは高校1年の時です。なんと18日間という壮大な修学旅行があり,沖縄から,北は栃木県の日光まで旅行しました。
そのころ沖縄には国費沖縄学生という制度がありました。それぞれの大学の入学試験を受けなくても大学に入学できる制度で,一種の留学生試験です。共通試験を受けたあと,文部省の方から「君はどこどこの大学へ行きなさい」と指示されます。私も高校を卒業するときにその試験を受け,東京工業大学に入学しました。しかし,勉強が難しくて半年で退学して沖縄に帰りました。早すぎるUターンでした。沖縄を出るときは,後でお話しする日本復帰の前で,パスポートを持って出たのですが,半年後に帰るときにはパスポートがいらなくなっていて,帰りが妙に簡単で不思議な感じだったことを覚えています。
翌年,今度は普通に試験を受けて東京大学に入りました。そのあと大学院へ進み,さらに24歳のときにアメリカのアイオワ大学大学院に留学しました。アイオワ州はアメリカのちょうど真ん中あたりにあり,冬はマイナス25度くらいになります。日本の中では北国と言われる新潟と比べても,すごく寒いところです。鼻水が凍るような寒さなのです。沖縄は冬でも25度ぐらいあるので,環境の非常に違うところに行ったわけです。
28歳で博士の学位をもらい,半年ほど,アイオワ大学大学院で統計学の授業を担当したあと帰国して,新潟大学に着任しました。私の息子が新潟市の東山の下小学校で野球をやっていたので,このすぐ近くの小針球場にも応援に来たことがあります。新潟には11年住みました。皆さんが生まれたころは私もちょうど新潟にいたことになります。そのあと東京大学に転勤して,約10年がたちました。専門は,心理学と統計学の合わさったような学問分野で,心理統計学とよばれているものです。
【2】沖縄の地理的な特徴
さて,沖縄は日本の南の端,西の端にあります。沖縄には人が住んでいる島だけでも49の島があり,そこに135万人が広く分散して住んでいます。政治や文化の中心は沖縄本島で,県庁所在地の那覇市がそこにあります。沖縄本島は皆さんがよく知っている新潟県の佐渡の1.5倍くらいあります。たくさんの島々が散らばっていますから,沖縄は海の面積がとても広く,東西1000キロ,南北400キロという海域をもっています。
沖縄の隣の県というと鹿児島です。あとでお話するように沖縄と鹿児島とは歴史上,とても深い関係がありました。沖縄本島から南西に島々が続き,最西端の与那国島まで行くと,台湾がもう目の前です。与那国島では台湾のテレビ放送も見られると聞いたことがあります。
【3】琉球王国の成立まで
沖縄の地理的な特徴については現地へ行けば,ある程度わかりますが,歴史は,ただ現地に行くだけでは分かりません。歴史としてきちんと学ばなければ分からないものです。沖縄は,日本の他の県とは非常に異なる歴史をもっています。その歴史について,次にお話しましょう。
沖縄はかつて,日本とは独立の琉球王国でした。琉球王国時代は,日本では室町時代だった1429年から1879年(明治12年)までの450年もの間,続きました。明治になって日本に組み込まれますが,昭和の戦争で日本から切り離され,もう一度日本に戻って現在に至る,というのが沖縄と日本のおおよその関係です。
琉球王国という形に統一される前には,たいていどこの国でもそうですが,各地に有力な豪族がいて,それぞれの地域を支配していました。琉球王国が成立する300年ぐらい前の西暦1100年頃には,各地の豪族がグスク(城=石垣でつくった要塞)を築いて互いに対抗していました。今帰仁(なきじん)城などにその跡が残っています。
群雄割拠の時代も,次第に南山,中山,北山のいわゆる三山にまとまるようになり,それぞれに王をもつようになります。そして,それぞれが別々の国として,明(みん=今の中国)の皇帝に貢ぎ物をして貿易の許可をもらい,東南アジア,日本,朝鮮などとさかんに貿易をするようになります。沖縄は小さな島ですが,日本の他の地域とは比較にならないほど行動半径が広かったのです。
三山の間では争いごとが絶えなかったのですが,1429年についに尚巴志(しょう・はし)が全島の統一に成功します。「尚」というのは明の皇帝からもらった名前で,以後ずっと,琉球の国王は尚○○という名前が続くことになります。
尚巴志が自分の城としたのが首里城です。何度か焼けたり,戦争で壊されたりして,やっと最近になってきれいに整備されました。この城で明などからのお客さんをもてなすことを通して,琉球の伝統芸能や料理が発展していくことになります。
【4】第二尚氏へ
尚巴志の家系は,その後,それほど栄えなかったようで,七代目の尚徳のころには無理に奄美大島を攻めたりするなど,悪政も目立つようになります。結局,この尚徳が亡くなった時点で,尚家の流れは終わります。
尚徳の側近に伊是名(いぜな)島の百姓出身の金丸という役人がいました。彼は生前,尚徳王にいろいろ意見をしていたので,嫌われて追放されてしまいます。ところが尚徳が亡くなった後には王として迎えられることになります。日本で言えば豊臣秀吉のような出世物語です。金丸は尚家と血のつながりはないのですが,明の皇帝に認めてもらうために,尚徳の子として王の交代を申し出て「尚円王」と名乗るようになります。本当は,尚円の方が年上なのですが,大国・明の皇帝は細かいことにはこだわらなかったのでしょう。この後,琉球王国は,この尚円の血統が継いでいくことになります。これを「第二尚氏」とよんでいます。
尚円の奥さんは大変気の強い女性だったようです。彼女は尚円が亡くなった後,息子の尚真を王にしようとしましたが,まだ幼かったため周囲から反対され,尚円の弟が王になることになりました。しかし,尚円の奥さんの謀略があったのか,その王はすぐに死んでしまい,希望通り,尚真が王位につきます。尚真王の時代は50年間も続き,琉球王国の黄金時代を築きますが,尚真の長男は王にはなっていません。それも尚真の母(尚円の妻)の指図のようです。私がなぜこの辺のことを妙に詳しく話しているかというと,その指図によって王になれずに追放された尚真の長男・尚維衡(しょう・いこう)が,私の祖先だからです。ただし,私の家に残されている系図が正しければですけど。先日,沖縄の首里にある王家の墓・玉陵(たまうどぅん)に行ってきました。これは1501年に尚真王が建てたものですが,そこにも追放された尚維衡はまつられていませんでした。
【5】薩摩の侵略
尚真王の時代の後も,しばらくは平和な暮らしが続きますが,そこに大きな事件が起こります。日本では江戸時代に入ってまもない1609年に,薩摩藩(さつまはん=今の鹿児島)が琉球王国を侵略するのです。薩摩藩は琉球が貿易で大きな利益を上げていることに目をつけたのです。そのころ薩摩藩は朝鮮出兵を考えていた秀吉から,食料や兵隊を出すよう命じられていました。薩摩藩はそれを琉球に負担させようと考えたのです。当時の琉球はほとんど武器を持たない国でしたから,薩摩の侵略に対して全くの無力で,ひとたまりもなく占領されてしまいます。琉球王国が武器を持たない国だということはヨーロッパにも伝えられて,ナポレオンも驚いたという話があります。
さて,薩摩藩は三千人の兵力を派遣し国王の尚寧(しょう・ねい)を捕らえて,琉球を支配下におきます。その時から,琉球王国は独立した国でありながら薩摩に貢ぎ物を送り,薩摩の支配を受け,薩摩のために税を払うようになります。そのため,琉球王は島々にたくさんの税をかけるようになります。それは各島の人々をとても苦しめるものでした。
ところで,いま私たちがサツマイモとよんでいるものは,もともと中国から琉球を経由して伝わったもので,琉球が先でした。さつま揚げもそうです。そういうものの名前だけでなく,琉球の富がどんどん薩摩に持っていかれたのです。そういうことが1600年始めころから270年近くにわたって続くのです。相当長い期間ですよね。こうした支配関係がこれだけ長く続いたことで,沖縄の人達の間にも薩摩を中心とした本土の人達の間にも,沖縄人を下に見る差別意識をもつ人が出てきたことでしょう。
いま私の大学に薩摩(鹿児島)出身の学生がいます。薩摩武士を思わせる大変体格のいい男です。僕の心の中に「270年間ありがとう」という思いがあって,特別厳しい指導をしてあげているわけですが,大変気のいい学生で,薩摩に帰ったときなどは地元の幻の焼酎などを貢ぎ物として持って来てくれます。だから,琉球から薩摩に貢ぎ続けた270年間の収支のバランスも,わずかながら改善の方向に向かっています。
【6】琉球処分によって日本へ
このように琉球王国は薩摩に支配されながらも,王国であり続けたわけです。しかし,江戸時代が終わり,明治政府がつくられると,一つの憲法の下に全国を統一しようとします。そこで,琉球王国という中途半端な状態は良くないとして,琉球王国を廃止して,沖縄県にしてしまいます。ひとつの国を廃止するというのは大変なことですから,当然大きな反対運動が起こります。しかし,明治政府が軍隊を派遣して来て,国王は捕らえられ(その270年前には薩摩に捕らえられましたね),東京に強制的に移住させられます。これを「琉球処分」と言います。
琉球処分によって,琉球王国は完全に無くなってしまいます。このとき初めて琉球が正式に日本の一部になったのです。しかし,琉球は清(しん=明の後の中国)の支配も受けていたので,日本が勝手に琉球を日本のものにすることには,清も黙っていません。日本と清の間に琉球を巡って争いが起こります。アメリカが仲介に入ったりして,琉球を二つに分けて日本と清に組み込むという分割案も出ましたが,最終的には後の日清戦争で,琉球は日本のものということで決着がつきます。沖縄県となった後,明治,大正,昭和と,地方県のひとつとして静かに時間が過ぎていきます・・・1945年(昭和20年)までは。
その間,沖縄県知事は東京の政府から送られてきます。歴代の知事の中には新潟県の上杉氏の流れを汲む立派な知事がいて,様々な業績を残しました。新潟と沖縄の縁を感じます。
【7】第二次世界大戦の悲惨な戦場に
1945年には沖縄県民にとって,大変大きなできごとがおこります。第二次世界大戦で日本も大変だったことは皆さんもよく知っていると思います。東京や新潟県の長岡市にも空襲があり,広島と長崎には原爆が落とされました。しかし,地上戦があったのは日本の中で沖縄だけです。アメリカ軍が上陸してきて,その場所で日本軍と撃ち合いや斬り合いをして,その場所で人が死んでいく。アメリカ軍でも人が死に,日本軍,沖縄県民,たくさんの人が死んでいきました。この狭い島の中で壮絶な戦いがあったのです。アメリカ軍は沖縄を通って北上し,日本本土を攻めようとしていました。日本軍はアメリカ軍の進軍をなるべく南で食い止めたいと思っていました。そのぶつかったところに沖縄があったのです。
地上戦が始まると兵隊だけの戦争ではなくなります。爆弾を落とされて死ぬのは兵隊だけとは限りません。赤ちゃんも年寄りも病人も死んでしまうわけです。そうして,住民を巻き込む戦いになっていきます。中学生も女学校の生徒もみんな軍に取られ,軍のための仕事をするなかで死んでいく人がたくさんいました。沖縄での地上戦は3ヶ月近く続いて,6月23日に終わります。その前にも空襲を受けたりしていますが,アメリカ軍が上陸し沖縄県民が逃げまどい,そこで殺された戦いは3ヶ月足らずの間のことです。この3ヶ月の間にアメリカ軍,日本軍,沖縄の住民を含めて二十万人の人が死んでいます。沖縄県民の4人に一人が死にました。
沖縄戦では悲惨なことがいろいろありました。たとえば,日本軍による住民の虐殺や住民の集団自決などです。兵力の劣る日本軍は洞くつなどに隠れて,アメリカ軍に抵抗しました。隠れるのは住民も一緒でした。そこにアメリカ軍がやってきます。隠れているところに赤ちゃんがいると泣き声で隠れ家が分かってしまいます。泣いている赤ちゃんを日本兵が殺したり,親に殺させたりすることもありました。また,沖縄の方言は本土から来た兵隊には理解できません。兵隊たちは,いつ死ぬか分からないという恐怖心の中,人々が話している沖縄の言葉が分からないために,スパイじゃないのかと疑心暗鬼になって,そんな中で住民虐殺が行われていくこともありました。
6月23日は沖縄の終戦ですが,それは沖縄の日本軍の司令官が自決した日です。その司令官は自決する前に一言残していきます。「沖縄の住民は最後まで戦うように。戦争で捕虜になったら,ひどい目にあう。アメリカ兵は鬼である」と。それで,どんな状況になっても投降してはいけない,捕虜になったら大変だというので,集団自決してしまうのです。ちゃんと捕虜に取られていたなら,そんなことはなかった。アメリカ軍は日本軍を南部に追いつめながら,比較的平和になった中部では早々と学校や病院を建てたりしています。沖縄の住民たちが聞いていた話とはずいぶん違っていたわけです。このように,誤った指示,誤った思いこみでたくさんの人が死んでいく。敵に撃たれて死んでいくのではなく,お互いに自分の家族を殺してしまう。そんなことが続いたのです。
アメリカ軍はその後,8月に広島・長崎に原子爆弾を投下します。日本もさすがにこれまで,と思って降伏するわけです。あと4〜5ヶ月前に降伏していれば,沖縄は全然違った状況になっていたはずです。いつ戦争を止めるのかという判断の誤り,そして,さっきお話したような誤った指示や思いこみが,数十万の命を奪ったのです。
戦争では人の命だけでなく,首里城をはじめ,さまざまな文化財も消えてしまいました。かつての琉球王国のもので残っていたのは,琉球処分で東京に運ばれていたもの,というのは歴史の皮肉ですね。
【8】戦後の沖縄
戦争が終わると沖縄はアメリカ軍の支配下におかれます。日本と行き来するのにもパスポートが必要でした。ですから私の高校1年の時の修学旅行も全員がパスポートを持ち,検疫の注射とかを受けて行ったわけです。私はこの戦争が終わって8年後の昭和28年に生まれていますが,小さい頃にもらった5円とか10円とかのお小遣いは日本の円ではありませんでした。アメリカ軍が発行していたB円というものでした。その後アメリカドルを使うようになり,小学校から高校までずっとドルを使いました。
修学旅行の時もドルを日本円に替えて持っていったのですが,そのとき初めて日本の円を見るわけです。教科書は日本のものを使っていましたから,算数などではリンゴが一個20円とか出ているわけです。円を見たこともないのにテスト問題は日本円で計算するのです。沖縄では独自の教科書を作れるレベルになかったので,使ったことのない円で算数の勉強をする。それから郷土の地理とかあるわけですが,沖縄は載っていないので,たまたま教科書に載っているところを郷土の地理として勉強しました。私の場合はどこだったかというと新潟県の直江津市でした。雪に埋もれて暮らす人々の生活を学んだわけですが,実際雪なんか見たこともないわけです。それを郷土の地理として勉強しました。そんなようなことで18年間過ぎたわけで,私が学力不振になるのもわかりますよね。学力を上げる機会がなく東京へ行って,大学で玉砕して帰ってきたわけです。
当時は日本じゃありませんから,私の出た那覇高校も国立や県立ではなく,琉球政府立でした。アメリカは沖縄の子供たちにアメリカの大学への留学を勧めていました。私も高校を出たらアメリカの大学に行くものと思っていましたが,次第にアメリカ留学の数が減らされ,日本留学が主となり,私も自然に日本の大学を選ぶことになりました。中学,高校の頃の英語の先生はアメリカ留学の経験者だったので,本物の英語を聞くことができてよかったのですが,よいことは多くはありませんでした。日本との行き来が不自由だし,日本国憲法の保護を受けられないので,早く日本に戻りたい,復帰したいという祖国復帰運動が次第に強くなっていきます。そして,1972年(昭和47年),私が高校を卒業した年に復帰が実現しました。
沖縄の歴史は,今日の話を聞いてお分かりのように非常に複雑ですよね。いま,日本に戻りたいという復帰運動の話をしましたけど,それ以前はどういう歴史だったかというと,琉球王国時代は自分たちで独立して生活していたのに,薩摩や日本政府に攻められて無理やり日本に組み込まれたのです。その日本を祖国と呼んで,そこに帰りたいと言わせるような戦後の沖縄の状況だったわけです。
そうやって復帰を果たすわけですが,日本全体の抱えているアメリカ軍の基地の4分の3が小さな沖縄にあります。おそらく皆さんも修学旅行でアメリカ軍の基地を見ることになると思います。あの戦争だけでも大変な犠牲をはらったのに,その後も日本の安全を守るため,アメリカ軍に沖縄の狭い島の貴重な土地を提供している。それで,アメリカ軍の飛行機が落ちたり,軍人をめぐる様々な問題が起こるわけだけれども,それに耐えているという状況です。
【9】沖縄の文化
明をはじめとする外国との交易,そして薩摩の支配下でのある意味での交流を通して,王国時代の琉球は,音楽,舞踊,料理,工芸など,さまざまな領域で独特の文化を育んでいきました。支配者をもてなし,支配者が喜ぶ貢ぎ物を作り出すという目的のためではありましたが,17世紀末から18世紀中期には,琉球文化のピークを迎えます。
皆さんご存知のように,現在も沖縄出身の歌手の人たちが活躍していますね。伝統的な琉球音楽は非常に独特で,レとラを抜いた5音階が基本です。この5つの音を適当に弾くだけでも沖縄っぽいメロディになります。いまお話した支配者のための文化だけでなく,庶民の中でも芸能は盛んで,沖縄では多くの人が三線をやりますし,エイサーという空手の型が入った集団踊りも各地であります。結婚式や何かの祝い事,集まりがあるとみんなが四国の阿波踊りのようなカチャーシーとよばれる踊りを,最後に必ずやって盛り上がります。沖縄にはおいしいものもたくさんあります。皆さんも沖縄そばなどは是非食べてみてください。引率の先生方には,ぜひ「島らっきょう」と泡盛のクース(古酒)を味わってほしいと思います。
【10】心理学の話を少々
沖縄のことについてはこれぐらいにして,最後に心理学の話を少ししましょう。心理学は,文字通り心の働きについての学問です。悩む,心配する,人を好きになる,嫌いになる,覚える,忘れる,といったことは全て心の働き,頭の働きです。人はどうやって覚えるのか,なぜ忘れるのかが分かれば,勉強をどうやったらいいかということについても,たくさんのヒントが得られるはずです。心理学というとどうしても人の気持ちとか心の悩みとかのイメージがあるかもしれませんが,こういう勉強に関わることも心理学のテーマなのです。
【11】心理学からの「勉強のヒント」
心理学から分かってきた勉強のヒントをいくつか紹介しましょう。
人は一般にどういうものを覚えやすく,どういうものを覚えにくいかというと,まず一つ目は「すでに知っていることと結びつけると覚えやすい」ということがあります。例えば沖縄本島の大きさは何千平方キロメートルありますと言われてもよく分かりませんが,皆さんがよく知っている佐渡の1.5倍と言うと,あの佐渡よりも大きい,という具体的なイメージがつかみやすいのです。ただし,これはすでに佐渡を知っている人に当てはまることです。佐渡を知らない人にとっては,佐渡の1.5倍という情報は何の意味もありません。つまり,知識をもっている人は,その知識と関連づけることによって,新しい知識を簡単に増やしていくことができるということです。すでに知識をもっている人ほど新しい知識も得られやすいというのは不公平な感じもしますが,少しずつでも知識を増やしていく努力をしていけば,その知識がもとになって,新しい知識が身につきやすくなるということは大事なポイントです。
二つ目。「覚える内容が意味をもっているほど覚えやすい」ということがあります。いろいろな情報の中には無意味なものと意味のあるものがあります。ストーリーのあるものと,ないものがあります。たとえば「尚真王の長男は王になれませんでした」という無味乾燥な文だとなかなか覚えられないのですが「尚真王の母親は気の強い人で,尚真を王にしようといろいろ画策しただけでなく,尚真の長男については気に入らないという理由で追放した。その追放された長男は南風原先生の祖先らしい・・・」という長いストーリーになると覚えられる。短い意味のないものより長くてもストーリー性があって意味のある方がずっと覚えやすいのです。意味のないもの,面白くないもの,断片的なものはいくら覚えようとしてもすぐ忘れてしまいます。ストーリーがあるもの,流れのあるもの,意味のあるものはよく覚えられる,これは人間の心理の特徴です。薄い本で「これだけ覚えれば」という本がよくありますが,あまり当てにしない方がいい。むしろ,多少厚い本でも,きちんと語られていれば,ちゃんと理解できて覚えられるのです。
三つ目。「学ぶことの意義を知ると学びやすい」ということがあります。教科書をあまり読まない生徒も,ゲームの攻略本などは真剣に読んだりします。ゲームをするときに役に立つからです。今日の沖縄の話も2年生は4月に行く修学旅行の背景になる話だということで,みんな熱心に聞いてくれたのだと思います。1年生もよく聞いていてくれましたが2年生ほどではなかったのではないでしょうか。ここに仮に3年生がいたとすると,確かに話を聞く力は3学年の中で一番でしょうが,自分たちが行かない沖縄,下級生だけが行く沖縄の話を聞いたとしても,あまり意義が感じられないから,頭にはあまり入らないのではないかと思います。聞く力が優れているとか優れていないとか,年長であるとかではなく,自分にとって意味があるかどうかが大切です。だから先生方から勉強している内容の意義をもっと教えてもらうことも大事だし,自分で意味を見つける努力をすることも大切です。
四つ目。「短期集中で詰め込んだ内容は,短期で消滅する」という原則があります。それに対して繰り返し繰り返し,じっくり学んだ内容は長く使えるということがあります。多くの大学生は試験の前しか勉強しません。試験の1週間前だけ集中してやって,終わると同時に忘れてしまい,何も身に付きません。「瞬間最高学力」を発揮して試験をクリアしても,その後はもう何もないということです。皆さんは高校,大学に行っても,そういう学習の仕方を身に付けないでほしいと思います。繰り返し繰り返し,日々やっていく。分からないことを貯めておかないで,授業でその日その日のことを一つ一つ理解していくようにしていけば,試験の時にその結果が自然に現れます。どうせ授業に出るのでしたら,その時間でしっかりと学んでしまうというのが得です。
最後に五つ目。「勉強しっぱなしにせず,まとめ直しをしておくと,思い出しやすい」ということがあります。勉強したことを振り返って,今日何を学んだのか,昨日まで知らなくて,今日分かったことは何なのか,ということをまとめて,言葉で言えるようにしてみてください。そうしなければバラバラに切れ落ちていく知識が,そうすることによって,意味をもって残るようになると思います。
以上です。ご清聴ありがとうございました。